10
そして、春の月を迎えた。
会社内の敷地の中に、五階建てのマンションが立ち並んでいる。ここには、独身寮を含め会社で働いている社員に安い賃金で貸しているマンションがある。その他に、幼い子ども達が遊べる子ども園や低価格で必要なものを購入出来る小型店舗、色んな運動が出来る多目的運動場等、多彩面の建物が転々としていた。
わたしは、そのマンションの一階で足を止める。寿退社をした可奈は、だんなさんとここに引っ越してきた。毎日ひまだと言う彼女の嘆きを聞き、たまにお邪魔していた。いろんな話で盛り上がったあと、ふと時計をみると、時計の針は午後八時を指していた。
たしか、もうすぐだんなさんが帰宅するという時間。
わたしは可奈に帰ることを告げた。
「それじゃ、また時間あったら遊びに来るわね」
「うん。今日はありがとう。気をつけて帰ってね」
「えぇ」
玄関まで見送ってもらったあと、外灯が燦々とついて明るい社内をひたすら南門目指して歩いていく。
最近では、大勢の中に身をおくことが出来るようになってきた。
自分のことを言われているんじゃないかという不安は、多少まだあるけれど、すこしずつ前向きに考えられるようにもなった。
これも、可奈やたき江たちのおかげよね。
それに。
工場長がそうしてくれているのかわからないけど、会社内で司や智春に会うことはなかった。
いままでのわたしなら、きっと会っただけでも体が震えて倒れそうになってしまったかもしれないけど。
でももし今、彼らに会ったとしても、昔とそんなに変わらずの対応が出来るんじゃないかしら。
そんなことを思っていながら歩いていると。
「わっ!」
「きゃっ」
いきなり、路地から人が飛び出してきて、避けることも出来ず、ぶつかってしまった。
「いったーい」
ぶつかった拍子に、思いっきりしりもちをついてしまう。
「わ、わりぃ」
その声になにか聞き覚えがあった。
懐かしい声音。
「えっ」
「か、一恵」
声の主は高藤司だった。彼は、高校のときつきあっていた人。
まさか、ほんとうに司に会うとは。
わたしは吹き出しそうになった自分を戒めた。
……よかった。
わたし、司と会ってもいやな気持ちしない。
いろんな考えが迸って、がたがた震えていたあのころから一歩前にいけたのかな。
何年ぶりだろう。
振られたあとも、学校から頼まれたとかで体育祭や文化祭に来て、わたしのボディガード引き受けてくれたんだっけ。
自分でもなぜ、あんなに男性の人がいいよってくるのか、わからないくらいだった。
だから、学校側が司に頼んだってことなのかしら、と自分なりに理解したけど。
やっぱり、振られた相手に一日だけだからって、恋人の振りをしてもらうってすごくいやだった。
それなのに、司は……。
数々の思い出が頭をよぎる。
一日ボディガード兼恋人を引き受けてくれたとき、わたしのこと好きじゃなくなったのに、いきなりキスしてきたり、それ以上先に進んでしまうし。
結局、ムードに流されてしまって、わたしが歯止めをかけられなかったのが悪いけど。
でも、やっぱり……。
「お、おいっ。大丈夫か!」
考え事をしていて、ずっとうつむいていた。
「あ、う、うん」
「悪かった」
「……うん」
心配そうな瞳。
元に戻れるなら、彼の元にいきたい。
なんてこと、とっさに考えてしまう。
――いたっ。
動かそうとすると、足首に痛みが走る。
こ、困ったな。
ぶつかって倒れた拍子に、足をひねってしまったみたい。
……最悪。
「ほんとにごめんな」
そう言うと、司はわたしの前に手を差し出した。
あいかわらずのやさしさ。
「ありがとう」
重なるてのひら。
「じゃ、電車の時間があるから」
わたしはゆっくりと立ち上がった。
別れても。
別れていても。
わたしの心の中には、司がいる。
だから。
未練いっぱいになってしまうから。
はやくこの場を去りたい。
前向きに考えられるようになったといっても、やっぱり、いやな思い出もあるし。
あの女のことも思い出してしまうから。
司とのいろんな思い出が浮かんできて涙が出てきてしまいそうだから。
「お、おいっ」
「なによ?」
「足、引きづっているじゃねぇか」
「知ってるわよ。さっき、足ひねってしまったんだから」
「だったら、言えよ。こっちの責任だから」
「いや!」
「なんでだよ」
「別にあなたに言ってもしかたないことでしょう。いいわよ、わたしにかまわないで!」
知らずのうちに、語尾がきつくなってしまう。
だけど。
「このまま放っておいたら、お前の足、歩けなくなるまで腫れてしまいそうだぞ」
靴下からでも腫れているのがわかった。
「いいの。あんたとの思い出をリフレインさせるくらいなら、腫れて歩けなくなったほうがましよ」
「リフレインってお前……。っ! やせがまんするんじゃねぇよ」
ふわり、と体が宙に浮く。
「ちょっ。ちょっと! 下ろしてよっ」
「このまま診療所にいく。それならいいだろーが」
診療所にはゆみえ先生の姿がなく、夜間専用の男の先生がいた。
「腫れているけど、みたところ骨が折れているってわけじゃなさそうだよ。湿布貼っておくから様子みて病院に行ってみてな」
「ありがとうございました」
簡単に治療してもらい、びっこを引きながら部屋を出た途端。
「送って行く」
いきなり、また姫様だっこをされた。
「やめてったら!」
「これじゃ電車に乗れねぇだろ」
「なんとかなるわよ」
「……ったよ」
しばらく押し問答をしたあと、司がぼそっと声に出す。
「え?」
「元のようになってよかったって言ったんだよ」
「……」
そのあと、二人ともなにも話さなかった。