F.巷に鳥の声在りて
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永遠に振り続けるかと思われた雨は、七日目の朝と共に、嘘の様に止んでしまった。
そうとも、永遠等永遠に来る事は無いのだ――改めてそう告げられた様に、降り始めた時と殆ど何も変わっていない街並みの中で、人々は己が日常を再開する。それこそまるで変わり映えのしない、聖方西斯哥の何時も通りの生活を――在るが侭に成るが侭に――
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そして、フェリックス・スコープツィッヒは、交差する往来のど真ん中に居た。
幻の都の恋人達に想いをそっと馳せる様、愉快な調子で、けれど、何処か物寂しさを漂わせる鼻歌混じりと、筆記棒を用いて熱心に、星乃至はその魚の有り様を砂岩の上に刻んでいる。
その行為自体の意味はある――が、しかし、何故するのかの意味は欠落していた。つまりフェリックスにも良く解って居なかったのだ、自分がどうしてそうしているかを。ただ、しなくては、というそんな風な意識だけを覚えていた。己が有り様へと戻る、その前に。
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その軌跡は中途で途切れる事となる――一本――二本――そして三本目が奔った時、突如差し込まれた靴脚がそれを制したからだ。襞を帯びて揺れる長い腰衣を難儀して辿ると、そこに立っていたのは、セネティアス・フィドゥシアンだった。信仰心の青に白の装飾も何処か古めかしい伝統装束に長身を包んでいる。始めて見る私的な服にして始めて見る女性的格好だったが、少なくともフェリックスは好ましく感じた。輪郭が朧なのは残念だが、致し方も無いだろう。元々一部は無い様なもので、他に遣り様は幾らもある。
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今日和フェリックス・スコープツィッヒ。七日振りという所ですね。
やぁどうもセネティアス・フィドゥシアン。お互い先日はお愉しみでしたね?
今日はお話が合って参りました。その先日の体験についてです。
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告げる挨拶に返る卑語を華麗に無視して、セネティアス・フィドゥシアンは言う。カチャリと指で眼鏡を押し上げつつ、痛く真剣な面持ちで。それでも軽々しく口に出来る話題で無ければ、軌跡の続きを脚先で刻み込んで、思考を纏める時を稼ぐ――三本――四本――五本目が奔り、地に平面なる魚が姿を顕す。それを合図として、彼女はやっと唇を開いた。
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先日私達が辿り着いてしまったあの存在――
忌々しい千の触手の眷属だな。
何であれ仰ぐべき示現体と称したく。
君こそ始まり、で? そいつが一体全体どうしたって?
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挙げられる二つの名に、フェリックス・スコープツィッヒは、実に稀な事にも、自分から引いて見せた。セネティアス・フィドゥシアンもまたそこに気付き、ほんの少しだけ眉を潜めて見下ろすけれど、見上げて来るのはあのニヤニヤ笑いだけである――奇異な事と言えば、その微笑を眼前にしても、余り心はざわつかなかった。理由は――多分、今している問い掛けに繋がっているのだろう。彼女は再び眼鏡を上げてからこう尋ねる。
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貴方は“あれ”を見てどう思いましたか?
どうもこうも無いね。多分、君が思ったのと、そう変わる所は無いだろうさ。
成る程。
態々聞くまでも無いとも思うがね。
本当に聞きたかったのはこれからの事ですよフェリックス。
つまり貴方はこれからも探求者として在り続けるのか?
この世界に真実と呼べるものがあるならば、それは間違いなく“あれ”です。
そこに至って尚、貴方は探索を続けるつもりですか?
“あれ”があれである事を人々に広めようと言うのですか?
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そしてその質問にこそ、微笑には陰りが差し、苦味が口元へ向けて押し寄せて来る。そう、セネティアス・フィドゥシアンに言われるまでも無く、それは問題だった。今やかつての先人達の様に、フェリックス・スコープツィッヒもまた岐路に立たされている。引き返すのであれば、そろそろでは無いか? ここから進んでも、そこには何も無いのでは無いか? そう考えているのは、恐らく彼女も同じだろう。愚賽の使徒とは、後続に対する(余計な)お世話で成り立っているのだから。皆が諦めるなら、その意味は無い。
彼も諦めるなら、その意味も無い。
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沈黙が現れた。
フェリックス・スコープツィッヒは、誘導旗を下に向け、トン、トンと地面を突付く。瞼を落として尚熱心な、力強い視線を感じながら、脳髄を廻して叡智を搾り取ろうとする。
その長くも短い時間の末に瞳開けると、彼はにしゃりと、何時もの笑顔を造って言った。
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さぁて。細かい所は何ともさ。何せまだ一月も経っちゃぁ居ない。
段階は未だ推測の域で、解釈の余地なら幾らもある。選択肢もまた同様にだ。
ですが“あれ”は造物主では。
そうとも。それはきっと間違いない。真理の一つが実証された訳だ。
前からある、ね――他を諦める理由には、ならないよ。
成る程。
そいつを布教するかしないのか、は、結局の所、俺の御業、俺の意志よ。
つまり、実を言うと、状況は余り変わっちゃぁ居ない。
成る程。
奴さんの名前だって何だって、そら色々何も、分かっちゃ居ないんだ。
俺の勘では――あくまで勘だぜ――スラーティバートファーストだと思うがね。
それはつまり?
つまり、そう、奴さんは聖方西斯哥を造ったのさ。或いはその以前を、若しくは、ってる所だな。だが、でもやっぱり、奴さんがどうしようもない☆★☆★野郎――野郎だな、デカイのが二つもあったんだ――だって感覚は相変わらずで、それこそ、まぁどうしようもない。細かい所は後回しにしても、それを吹聴したいって気持ちも変わらないし。
成る程。
生きて行くには仕事も居るし、そいつにはやり甲斐だって感じてる。
と、言う訳で、解答は概ね肯定となる。
俺は止めない。今までと同じ、好き放題やらせて貰う事にするわ。
成る程。
ならば私もこれまで通りに貴方を見過ごす事は出来兼ねますね。
誰にも好き放題なんてさせないのが私達愚賽の使徒なのですから。
そう、と、言う訳で、状況は余り変わっちゃぁ居ないんだ、これが。
そう言う訳です。逃げなくても宜しいのですか?
何事にも中休みってのは必要だよ。安息日さ、安息日。
それなら暫し待って明日からでも。
それで宜しく。
こちらこそ。
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それぞれの仄白さを誇る視線が交差し、今までで最も多くの言葉が飛び交う。
そうして、そう、セネティアス・フィドゥシアンは、ぎこちなくも確かな微笑をその口先に浮かべて見せ、少し腰を折り曲げながら、その腕をそっと伸ばした。フェリックス・スコープツィッヒもそれに応じ、ほんの少しだけ踵を上げて、右手を差し出す。
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二つの掌が重なった。
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所で質問と言えばもう一つあるのですが。
今なら何でもどうぞ、お嬢さん。
その。非常に聞き難い事ではあるのですが。
今なら何でもどうぞ、お嬢さん。
貴方を追い掛けている時に貴方は私を叩きましたね。何度も何度も。
何度も何度も。
何度も何度も。
一応構いませんよ防衛には違いないのですから。
ですがしかし何故毎回お尻ばかりを狙ったのですか?
何度も何度も。
うん、そいつを短く纏めるのはちょっと骨が折れる。
けど頑張れば、どうにかやれない事も無いよ。
是非に。
そう、まぁ一つには手癖ってのもある。
一番最初にこれ見よがしに、叩いてくれって突き出されてたものだから。
成る程。
だったら、叩いて、やらないと行けない。
昇らなくちゃは、そこに頂があるからの様にだ。
成る程。
これもまた一つの真理だとも。
在るからする。
するからしたい。
お解り?
成る程。
えぇはい実に良く解りました。
解りましたとも。
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掌は結ばれた侭、二人はそう語り合い、微笑みを深める。
その時、フェリックス・スコープツィッヒの体はもう既にやや半身となり、左手側を隠す様な形になっていた。然りげ無くも堂々と。正に今言った事を証明しようという様に。
けれど、それはセネティアス・フィドゥシアンも同じだった。ぎゅぅと、意外に強い力で以って指を握りつつ、左手が後ろ腰に括りつけられている丸い何かを掴み込む――ここに来るまでの間に立ち寄った店で仕入れて来た、挨拶の為のちょっとした手向けの花を。
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微笑みは増々と強まった。どちらが先と言う事も無く。
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そんな風な瞬間だった――二人の頭上へ向けて、一羽の金之路子が飛んで来たのは。
ピーチクパーチク鳴きながら、白黒入り混じった何かを、ぷっと放り出したのは。
瞬きする間に堕ちて行くそれがどうなったか――それは解釈の余地に埋めよう。
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世はなべて事も無し!!
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終劇
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