壱の参
「分かればよろしい。じゃあこれからお米とぐね」
そう言うと、アルテミスは事務所の玄関を出て、古びた階段を軽快に上がると、事務所の2階にある自宅に入っていく。
カグツチとアルテミスは、この木造で出来た店舗兼アパートの1階に事務所を、その真上の2階の部屋を住居にして一緒に生活しているのだ。
「はぁ~、オリオンがあいつを好きになった理由が分かんねー」
事務所に一人残ったカグツチは、領収書を整理しながらそう呟いた。
「もやし洗った、ナスも切った、ジャガイモの薄切りも焼くと美味しいよね~」
2階の自宅にある台所では、アルテミスがジンギスカンで使う野菜を包丁で切っていた。
「手伝ってもらいたいけど、カグツチは包丁握ると貧血起すからなぁ」
アルテミスはちょっと口を尖らせながら家事をこなしていく。
生まれてすぐに、父親のイザナギに刀で切られたカグツチは「刃物恐怖症」なのだ。
少しずつ改善して、顔を剃る剃刀や、カッターナイフくらいなら使えるようになったが、包丁になると、手にした瞬間、顔が青ざめて全身が震えだすくらい。
切ってある野菜や肉を調理することはカグツチでもできるが、料理はアルテミスが担当している。
やがて、全ての食材の準備ができたアルテミスは、食卓テーブルの上にそれらを並べ始めた。
「よし、準備オッケー。これが『あの人』と一緒の食事だったらなぁ……」
テーブルに並んだ食事を眺めながら、アルテミスは恋人だったオリオンを思い出していた。
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「オリオン、私のこと好き?」
「勿論、誰よりも愛しているよ」
遥か昔のギリシャの地、オリオンとアルテミスは愛を育んでいた。
しかし、それを快く思わない者が。
「オリオンめ。美しきアルテミスをたぶらかしおって……」
アルテミスの双子の兄、アポロンは妹であるアルテミスを溺愛していた。
妹を夢中にさせたオリオンに憎しみを抱くアポロン。
「アルテミス。あの波の向こうに在るものを射抜けるか?」
「当たり前じゃない」
そしてアポロンの、この一言がアルテミスの運命を変える。
波間にいたのは、恋人のオリオンだったのだ。
「そんな! ……どうして!」
自分の放った矢で命を落としたオリオンを目の前にしたアルテミスは呆然とした。
アポロンに騙され、自らの放った矢で、アルテミスは最愛の人を殺してしまったのだ。
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