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第11話『こいつはライバル?』

「まったくー。兄ちゃんもトモちゃんも慌てすぎだよー」


そう言いながら僕の弟、彰はパソコンに向き合いながらカタカタと暗号らしきものを入力している。

彰が今何をしているのかというと、ウイルス感染したパソコンを彰が直しているのだ。

そんなことが可能なのかって?


「はい、終わり! これでまた普段通りに使えるよ」


可能なのだ。

見てみると、パソコンのディスプレイにはもうあのバツ印は一つも無かった。やはり彰のメカニックぶりは尋常ではない。


「これからは気をつけてね二人とも」


彰は散らかった部屋を綺麗に片付けてあげたよ、という感じで僕ら二人に言った。


「いやー、キチョーな体験したなぁヒロちゃん」


「お前……」


元はといえば盗撮をモットーとする写真部に入ったコイツが悪いんじゃ……。


「それより、もう用はすんだんだから、そろそろ帰ってくれないか?」


「いや、まだ済んでねーから……。でもまー時間も遅ぇし、今日は帰るとすっか」


やれやれ、ようやくうるさいハエが立ち退いてくれる。


「ま、せいぜい浮気相手とイチャついてろよ♪」


ダメだこいつ……。やっぱアホは不治の病のようである。


「えっ、兄ちゃん浮気してんの!?」


彰が心底驚いた表情でそう言った。


「だから違うってば!」


そうだった、彰にはまだ伝えてなかったんだ。彰にまで誤解されて続けてしまっては、完全に孤立無援になってしまう。


「ちょっと彰、こっちに来てくれ」


弟の襟首をつかみ、半ば強引に廊下に引きずり出した。



* * *



トモが白雪さんの存在を変な風に解釈していることを、彰には一通り説明した。一応納得はしたみたいだが、それでも彰は半信半疑のようだった。気持ちはわからなくもないのだが……。


「とりあえず、その人はただの親戚で、浮気相手じゃないよ。わかったトモちゃん?」


彰はトモにそう言い聞かせた。


「まあ、彰がそう言うなら、そういうことにしてやるぜ!」


何だコイツ……。僕が言ってもスルーした事実を、彰の口からだったら信じるのか。


「ほんじゃー俺は帰るとするぜ。また遊びに来るぜぇー!」


トモはそう言って家から去っていった。


「はぁ……」


僕は思わず負のオーラを撒き散らしてしまった。ため息をすると運気が下がるというが、今はそんなことどうでもよくなった。このまま何も騒動が無ければ良いのだが……。

四月の暖かな風が、妙に冷たく感じた。



* * *



その後、再び玄関のドアが開く音がした。白雪さんが帰ってきたのだろう。時刻は午後六時半近くだ。


「た……只今帰りました!」


妙にかしこまった挨拶に僕は苦笑いした。


「おかえりなさい白雪さん。こんな時間までどこにいたんですか?」


親と子の立場がまるで逆転している気がするが、この際致し方ない。夕飯の作りおきさえ無かったのだから。


「すみません、お買い物してたら時間がかかってしまいました……」


そうにしてもここまで時間がかかるものなのだろうか?

と、そこで思いもよらない人物がやって来た。


「お、裕志に彰じゃねえか。ようやく帰ってきたのか」


なんと、父さんがいるではないか!


「え、父さん?」


彰が目を丸くした。


「どうしたんだよ父さん、こんな時間に?」


彰に代わって僕は聞いた。


「いやー、明日から三日間の出張があるからよ、早帰りしてきたぜ」


僕は会社の仕組みはまだよくわからないけど、社長が早帰りとかしていいのだろうか?


「ホンで、今日は晩酌でも楽しもうと思ってよ」


そういう父さんが手に持っている袋には、どこぞの有名なメーカーの瓶ビールが二本入っていた。


「二本も飲んだら体に悪いって言ったんですけど、聞かなくて……」


白雪さんはすっかり肩を落としている。


「大丈夫だよ白雪姉さん、父さんはお酒に強すぎだから」


彰がさらっとした表情で白雪さんに告げた。

父さんは辛い物好きであれば酒にも強く、飲むときはチューハイ三杯は余裕で流し込んでいる。ただ、アルコールの影響をちゃんと意識しているのか、飲むのは月に一、二回程度にしている。そこだけは父さんのしっかりしているところなんだけどね。


「まあとりあえずよ、腹も減ったことだし飯にしようぜ」


「うん、そうだね!」


「ええ」


彰と白雪さんが返事した。

その一方で僕は悩んでいた。トモの件について、言うべきかそうでないか……。

白雪さんは梶田家の母親となって、まだ一ヶ月も経っていない。ただでさえ様々な負担もあるだろうに、これ以上心配をかけさせたくない。だけど、言わないで後悔するのは嫌だし……。


「どうした、裕志?」


よほど思い詰めてしまったのか、父さんが声かけてきた。


「う……ううん、何でもない!」


「そうか? ならいいんだが……」


結局、トモの一件を伝えることができずに、一日が終わってしまった。



* * *



翌日、この日は道の途中で自転車のタイヤがパンクしてしまい、学校に着くのが登校時刻ギリギリになってしまった。おそらく昨日のため息だろうか。いや、そんなわけないだろう。あれはたかが迷信だ。

今日もまた何一つ変わらない一日だろう。朝のホームルーム中、僕はそう思いながら机に突っ伏した。

それにしても、さっきから視線を感じる。それも、大人数から。

腕を机につけたまま頭を上げると、クラス全員が僕をちらちら見ながら何かささやき合っている。男子も女子も。

どうしたんだろう。背中に貼紙が貼ってあるのかな?

手を後ろに回して確認してみたが何もない。まあ、貼られてたら優奈が反応してるだろうし。


「なあ優奈……」


僕はこっそり真後ろを向いた。


「何か、さっきから妙に視線を感じるんだけど、何か心当たりない?」


僕はたずねた。しかし、優奈の返答は思っていたよりも素っ気なかった。


「さあ、自分で考えてみたら?」


優奈は他の女子との会話に入り込んでしまった。

なんだろう、何かおかしい……。


「一体全体どうなってんだ?」


担任の根岸よりも百倍小さな声でそうつぶやいた。



* * *



ホームルームが終わり、僕まず取った行動は、小笠原光貴ことコッキーを呼ぶことだった。

危険を察して僕は、計算用紙に高速でメモ書きした。


『聞きたいことがあるんだけどいい? 僕が教室をでた五秒後についてきて』


それを四つ折にして後ろ側の扉に向かって歩いた。コッキーは後ろに腕を組みながら席についている。さりげなくコッキーの目の前にその紙を置き、僕は教室を出た。そしてしばらくしてコッキーがやってきた。僕たちは足早に人気のない場所へと向かった。


「それで、聞きたいことって?」


僕らは今、屋上へと続くドアの前にいる。このあたりは人通りが少ないので、密会とかにはもってこいの場所だった。


「うん。何か今日、さっきからみんな僕を、何ていうか、敬遠してるっていうか……。何か心当たりない?」


「はぁー、なるほど……」


コッキーは何かに気付いたようにしきりに首を縦にふった。


「裕志くん」


「ん?」


「君は久永さん一筋だよね?」


「え?」


一瞬コッキーの言ってることがわからなかった。


「一筋も何も僕は久永さん以外に好きな人なんていないよ?」


こっちは何がなんだかわからなくて困っているのに、コッキーは焦らす。昔からあった癖である。


「信じていいんだね、そのセリフ?」


コッキーのあまりにも真摯な目に驚いた。そんなにも重大な事態に発展してしまっているのか?


「うん……」


少しおののきながらも、返答した。


「……そっか。わかったよ、僕は裕志くんを信じる」


コッキーは清々しく笑った。十年以上前には考えられないほど、パッと光る笑顔だ。


「それじゃあ、やっぱあれはただのデマだったんだなー」


「デマ?」


「うん。裕志くんは遅くに来たから知らないだろうけど、君が他の女の子と浮気してるって妙な噂が立ってたんだ」


頭上に稲光が走った。


「そういうことか……」


これは間違いない。犯人はあいつ以外ありえない。早速あいつに問い詰めなければ……。


「ありがとうコッキー! 元凶がわかったよ!」


礼を述べ、僕は教室へとダッシュした。すると後ろから「頑張ってね!」と、頼れる友達の声がした。



* * *



僕は窓際の席にいる男子に近づいた。その男子はのほほんとした顔で鼻をほじっていた。その呑気な行動によって怒りの炎がさらに大炎上した。


「おい、トモ!」


僕はその男子、トモの両肩を掴んで激しく揺さぶった。


「あう、うおい、ヒロちゃ……?」


「お前、僕が浮気をしているとかそんな噂流しただろ!?」


「え? 俺はただ、ヒロちゃんが夜な夜な女の子を家に入れてるってことしか……」


「そんなこと僕がするわけないだろ!」


これでもうデマを広げた犯人は明白だ。ていうか、夜な夜な女の子を入れてるって、脚色にも程があるだろう。

まったく、こうも簡単にクラスの噂になるとは思ってもみなかった。ドラマでも、もう少しはバレない期間があってもいいんだぞ?

こんなことならあの時ちゃんと口止めしておくんだった。

と、その時──


「その辺にしといたれや、梶田!」


一人の男子が僕に向かって言葉を投げかけた。


「鮎川……」


僕はトモの肩を放した。

まずい、興奮しすぎて周りを見ていなかった。僕は軽く後悔した……。


「ほう、よー名前覚えてくれとったなぁ。この出席番号1番、鮎川慎治(あゆかわしんじ)さまを……」


あゆかわしんじ……。肥満体型にグチャグチャな髪、小さい目にブツブツだらけの顔。カッコつけようとしてるのか、学ランの前開きを全開にし、下のワイシャツは第二ボタンまで開けている。自己紹介の時もトップバッターであり、いきなりキザったらしい発言を連発してたのを覚えている。クラスの女子全員に挨拶して回っていたが、みんな苦笑いして引いてたのを僕は知っている。

一言でいえばコイツはキモいの塊だ。しかもデブで不細工、そしてナルシストという最悪の要素まで組み合わさっている。


「前から思っとったんやけど、お前生温いくせに調子乗っ取るやろ?」


「生温いだと……?」


「お前、亜純ちゃんからの指名で図書委員になっとったよなあ?」


僕はムッとした。

中学が一緒だった僕ですら呼んだことがない久永さんの名前を、コイツは当然のことのように呼んだ。もちろんコイツとは別の中学であり、久永さんとも何の関係もない。こういうのは僕の一番嫌いなタイプだ。腹の中の怒りが煮えたぎった。


「せやけど、おまえにとっちゃそんなん別にどうでもええことなんやろ?」


「違う」


「違わへん。他の女と関わりある時点でそれはもう浮気や。弱虫そーなくせにゲスなやっちゃなーお前も……」


なるほどコイツも自分に都合のいいようにしか物事を解釈しない性格のようだ。

もう怒った。僕は声を大にして叫んだ。


「ふざけるな! 浮気だとかそんなこと僕はしていない!」


「ほほう……。まだ強がるんやな」


鮎川は不敵な笑みを浮かべようとしたのだろう。だがどう見てもシワを寄せ集めてるようにしか見えない。キモすぎる。


「ホンなら、証拠見してもらうで」


何だと……?


「今日の放課後、俺をお前ん家に連れてけや。その方が早い話やろ?」


たしかにそうだ。普通ならそうすれば、この誤解はすぐに解けるだろう。だがコイツに白雪さんを見せたところで、彼女を継母だとは信じてくれないだろう。昨日のトモみたいに。


「……」


「何や、できひんのか?」


とてもヤバい状況だ。

もし了承したら、余計に事はこじれてしまうだろう。しかし逆の行動をとっても、周りの人達はずっと誤解しつづけてしまう。

鮎川は顔を気持ち悪く歪ませている。思わず虫酸が走る。


「どうなんや、梶田ぁ?」


万事休すだ……。

と思ったそのとき─


「優奈が代わりに行く」


「な……何やて?」


鮎川は呆気にとられて上ずった声をあげた。それは、僕ですら予想していなかった第三者の乱入であった。


「前の窓ガラスの件、真犯人ってあんたなんでしょ?」


「な……」


そういえば以前、朝早くに非常階段のそばにある窓ガラスが割れていたことがホームルームで聞かされた。現場はうちのクラスの教室に一番近いので、七組の生徒が疑われているとのことだった。そして、ガラスを割ったのは室生さんだという話に発展した。その時の証言はたしか鮎川が言ってたものだ。鮎川以外に誰も証人はおらず、室生さん自身もオロオロして何も反論しなかった。結局、犯人は室生さんということになり、根岸にこっぴどく叱られていた。


「な……何言っとんねん! 俺はたしかに見たんやで」


「これでもまだ嘘つくつもり?」


優奈は携帯のディスプレイを鮎川の前に見せた。そこには、割れた窓ガラスを前にあたふたしている様子の鮎川が写っていた。


「な……何やそれ!?」


「別のクラスの子からもらった証拠品よ。こういうの見つけるのにどれだけ苦労したかわかる?」


「くっ……」


顔を歪まして苦渋の表情を見せた鮎川は証拠隠滅でもしようとしたのか、優奈に掴みかかろうと走っていった。だが優奈は逆に鮎川の腕をつかみ、そのままの勢いでねじりあげた。


「いぎゃああああああああああああああああ!!!」


大袈裟な雄叫びが教室内をこだまする。


「あんたみたいに、か弱い子をだしにして平気で嘘つくよつなやつの言葉は信用できないのよ!」


優奈の言葉に女子全員が首を縦に振った。

ていうか、優奈はもうクラスの女子たちをてなづけてしまったのか……。


「それにあんた、さっきロクに親しくもないあずみんを名前で呼んでたでしょ。はっきり言ってウザい!!」


僕がまさに言いたかった言葉を、優奈はストレートに吐き出した。女子からは「ホントそれ!」とか「マジありえないよね」とかそんな言葉を発している。


「くぅ……」


鮎川は拘束された腕をふりほどき(というより優奈が手を離した)、痛そうに押さえた。

さすがに鮎川もまいっているようだ。


「……」


その間に僕は久永さんを発見した。ことの成り行きをただ心配そうに見つめていた。それを見ているのは、とても悲痛だった……。

ゴメン、久永さん。僕のせいで嫌な思いをさせて……。


「だから、女子を代表して優奈が代わりに行く。文句ある!?」


「ひぃっ!!」


にじりよる優奈に鮎川はオーバーすぎるほど驚いた。たった今このいけ好かないナルシストは、完全なヘタレとなった。

そして優奈は僕のもとに近づいた。優奈の目はギラギラしていて、肉食獣そのものであった。


「あんたも、文句ないでしょ?」


少しのけ反ってしまったが、僕は了承した。


「わ……わかった」


「じゃあ決まり」


半ば勢いにおされる形で返答してしまったが、後悔はしていない。冷静に考えてみると、優奈は思ったより口が堅い。第一、親戚というのはあながち嘘ではない。それに、事情を話せば、優奈だってわかってくれるかもしれない。

だから僕は決意した。こうなったら優奈にはバラしてしまおう、優奈を信用してみようと。


「ちょ……ちょい待ちぃや!」


鮎川が横から口出ししてきた。


「ほんなら、もう一人別に男子も連れてってもらうで!」


そうやって鼻息荒く言うその姿は、まるでロバみたいだ……。

鮎川は教室中を見渡した。しかし、なかなか指名できないようだ。どうやら、あいつには親しい人がいないようだ。こういうウザキャラはやはり心からわかり合える友達がいない運命なんだろう。

そして、ようやくある一人の人物に目を付けた。鮎川は、その人物に向かってズカズカと進んでいった。


「お前に引き受けたで……」


相手の肩にズシリと手を置いた。やられる側はさぞ迷惑だったろう。


「僕?」


そう答えた少年は、短髪で裸眼の、僕のよく知っている人物であった。


「ああ、そうや……」


そう、その少年とは、いつの間に教室に戻ってきたコッキーである。


「ええか、変な真似したらブッ殺すからな……」


「そう。まあそのつもりはないけどね」


「……チッ」


いじめっ子特有の気迫でコッキーを脅したみたいだが、無駄なようだった。全く動じていない。むしろ冷静に対処している。さすが百戦錬磨のいじめられっ子……。

こうして、長かったようで短かったような休み時間は終わった。



* * *



雲が目立つ昼休み、クラスの間では未だに僕の噂が絶え間無かった。


「やっぱ梶田って久永さんの期待裏切ってるよな?」「ホントそれ、絶対梶田ってやつ天狗になってるな……」「けど、まだ事実だと断定してねえだろ?」「それにしても、優奈がグルって可能性も無くはないわな」「いや、それはない。他の女子に確認した」「まあ、小笠原って奴もいるし、大丈夫っしょ」


第三者から見たら他愛のない会話なのだろうが、僕にはもはや呪経にしか聞こえてこない。中耳炎ができる勢いで聞き苦しい。

僕は耐えられず、昼ご飯(白雪さん特製弁当)を片手にそっと教室を抜け出した。向かった先は屋上。座れるスペースを見つけ、一人寂しく食事をした。鉄製のフェンスに囲まれたバリケードの中で……。



* * *



昼食を食べ終え、僕は何となく図書室にいた。あれだけ噂を流されると、気まずくなるのは目に見えている。だからなるべく静かな場所にいたかった。

棚から適当に取り出し、長テーブルの椅子に座った。本の題名は、「吾輩は猫である」。いわずと知れた夏目漱石の代表作だ。なぜこんな渋い作品を手にしてしまったのか疑問だが、替えようとは思わなかった。前からどんな話なのか気になっていたのだ。

とりあえず黙読してみた。どうやら主人公である名の無い猫は野良猫らしく、一軒の家に忍び込み、何度も女中に追い出されるが、教師である家の主人がその猫を家においておくのだそうだ。

想像してたのと全くストーリーが違かった。というか、覚悟はしていたがやはり難しい言葉が多い。推測できるものはいくらかあるものの、何のことかさっぱりわからないものも多々ある。

例えばこの、『同衾』って何だ?


「ここにいたんだ……」


不意にそばから聞き覚えのあるおしとやかな声がした。僕は本から目を離し、顔を上げた。


「あ、久永さん……」


「……」


これはこれでかなり気まずい。

朝の騒動で久永さんには嫌な思いをさせてしまっただろう。そう思うと、胸が苦しい……。


「なんか、朝の時はゴメンね。嫌な思いをさせて……」


僕は謝った。何にせよ、あの時の騒動のきっかけは僕なのだから……。


「ううん。梶田くんは何も悪くない」


久永さんは笑みを浮かべながら─どこか後ろめたさを感じたが─そう言った。


「あの、トモ……山口智弘くんが言ってたこと、嘘だから……」


気まずさを打破するため、僕は伝えるべき事を口にした。


「え?」


「僕の親戚なんだ、その女の子っていうのは……。それなのに、山口くんは大袈裟に噂を広めちゃって……」


一つ言えることは、今回の騒ぎの元凶はトモだということだ。あいつはとんだトラブルメーカーだ。


「そうだったの……」


久永さんはそう言って目線を下に落とした。一応信じてくれているようで、僕はホッとした。

だけど、やはりまだなんとも気まずい……。


「……」


「……」


僕はこの雰囲気が大の苦手だ。今いるこの空間が凍りつくような、そんな冷たい恐怖がひしひしと迫り来るような感じが耐えられない。でも、何か話を切り出さなければ状況は変わらない。

僕はふと疑問に思っていたことを聞いてみることにした。


「ねえ、久永さん」


「……何?」


久永さんは顔を上げた。


「……どうして、僕を図書委員に選んだの?」


「え……」


「あ、いや……別に嫌なわけじゃないんだ。むしろ、すごく嬉しい。久永さんとお話するの、とても楽しいし」


「……ありがとう」


久永さんが小さく微笑んだ。これが暖かなシチュエーションなら、そのかわいらしさに僕は満面の笑顔になっていただろう。だけど状況も状況で、あまり笑えない……。


「その……梶田くんを選んだのは……」


『キーンコーンカーンコーン』


「あ、チャイムが……」


非常に悪すぎるタイミングで鳴ってしまった。こんな重要な時に……。


「そろそろ教室に戻らないと」


「うん……そうだね」


仕方ない、また今度の機会だな。僕は立ち上がり、教室へ戻ろうとした。


「あ、それ『吾輩は猫である』……」


久永さんは机の上にある本を指差して目を輝かせた。


「あ、そうそう、適当に取ってみたんだけど……」


そうだった、すっかり忘れるところだった。僕は置きっぱなしのその本を手に取った。


「私、漱石の作品はいくらか読んだことはあるけど、その作品は一番面白い」


「へぇー、そうなんだ」


「難しい言葉がたくさんあるから、わからないところがあったら、いつでも聞いてね」


この言葉を聞いた途端、僕の脳内で喜びの花火がパッと打ち上がった。なぜなら久永と会話するきっかけができたのだ。


「うん、わかったよ」


僕は心の中で誰にでもなく感謝した。せっかく不運続きの中から産まれ出た幸運なんだ。充分に有効活用しようではないか。


「じゃあ、まだ借りてないから、受付に行ってくるよ」


「うん。じゃあ私、先に行くね」


久永さんは笑顔で手を振りながら、図書室を後にした。それはまるで、天使の笑顔であった。



* * *



「ハァァー……」


本を借り終え、僕は様々な思考を含んだ溜め息をした。久永さんに心配かけられるなんて、僕も落ちぶれたものだ。でも、以前よりもグッと距離が縮まったような気がする。嬉しいな……。中学時代のシャイボーイだった自分がまるで嘘のように感じる。

……とここで僕はふと思った。


「あれ、教室ってどこだっけ?」

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