表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/7

7. 失われた言葉の断片


 大きな門構の家だった。飛石が奥へと続いている。ドアホンを押した。

「どなた様ですか」

 年配の女性の声が返ってきた。

「村瀬と申します。亡くなったKさんの事でお伺いしたいことがありまして」

 マイクの向こうで躊躇する様子が伝わってきた。

「大阪から来ました。有賀(ありが)(みつる)さんにお会いしたいのですが」

「裁判前ですのでちょっと」

「ご迷惑はおかけしません。満さんに聞いてもらえないでしょうか」

「Kさんとは?」

「友人です」

「しばらくお待ち下さい」


 飛石の向こうに長身の男が姿を見せた。ゆっくりとこちらに向かってくる。背は高い。痩せている。金縁の眼鏡をかけている。近づいてくると、目がすずしい。美男子だ。向こうも私を見て驚いている。彼は軽く頭を下げた。

「有賀です。どうも」

「村瀬です。お忙しいところをすみません」

「忙しくないですよ」

 明るく笑った。

「僕の部屋でお話しましょう」

 部屋というより家だった。

「日差しもよいし。ここがよいですね」

 縁側に並んで腰掛けた。女がお茶を運んできた。

「Kキャンプ場にあなたと一緒に行きたいのです」

 彼は黙ってお茶を飲んだ。前には池がある。まだ早いが、紅葉(もみじ)の木が植わっている。手入れの行き届いた落ち着いた庭だ。

「いいですよ。その前に少し話していいですか」

 彼は言った。私は頷いた。

「僕はロープを用意した。彼が死ぬのを見ていた。それが罪ですか?」

「一緒に死ぬと嘘をついた」

「死ぬのが怖くなって逃げたんですよ」

「助けなかった」

「助けなかったって」

 彼は小さく笑った。

「彼が望んでいたことですよ。でも、あなたみたいな人がいるのにどうして死んだのでしょうね。一生片思いでもよかったのに」

 また、長い指を曲げてお茶を飲んだ。とても優雅に。

「自殺サイトに一緒に死んでくれる人、手を挙げてって書いたんですよ。足も挙げるよって言う人がいた。チンボコも挙げるよって言うのもいた。こんな人は多分嘘つきだ。彼は手を挙げますだったから」

「前にも一度同じ事を」

「うん。全く同じ」

「なぜ」

「僕には人を殺せない。そんな勇気はない」

「模擬的に殺すのですか」

「いいや、彼らは自分で死んだ。同時に生きることも出来た。僕は傍観者。何もしない。彼らの行動を見ていただけ」

「性的に興奮するのですか」

「そんなレベルじゃないですよ。人間が自分で死ぬのはそんなのじゃない。自分で自分を殺す。自分の世界を消す。絶対にそんなレベルじゃない。それに彼は僕が死ぬのを望んでいたか分からない」

 少しの沈黙があった。気持ちの細波を収めるように彼は言った。

「僕は不能ですよ。肉体的にも、精神的にも」

 彼は楽しそうに笑った。

「変態!」

 私は叫んだ。彼の目に一瞬殺意が浮かんだ。私はナイフを握りしめた。冷静をよそおうように彼は上唇をなめた。

「女は醜い。きれいなんて思ったことがない。肉のかたまり。でも、君は違うなあ。少し」

 不意に家にいる猫のミミを思い出した。彼の膝の上にミミがいたらすべてが変わっていたような気がした。

「目の前で生と死が交叉している。僕は傍観者であり続ける。そんな状態に興奮する。それが悪いのですか。僕の個人的な趣味だ」

「趣味……。あなたこそ死ぬべきだった」

 彼がN記者の前でつけていた正常という皮膚を一枚、私は剥いだ。私は有賀を知りたいために来たのではなかった。興味もなかった。Kさんの失われた言葉を求めてやってきたのだ。だが、ここにいる男は何者なのだろう。理解出来ない人間がここにいた。

「分からない。もういいから事実だけを話して下さい」

 私は言った。

「私はあなたに会いに来たのではない」

 ふっと有賀に嫌悪の表情が浮かんだがすぐに元に戻った。

「煙草、いいですか」

 私は頷いた。

「大分空港で初めて会った」

「サインは」

「当然サインはV。僕の提案です。男一人で、キョロキョロしている。そんな人は多くない。僕は彼にVサインを送った。一人目で当たりだった」

 年配の女の人が不意に姿を見せた。

「満君、お友達」

「こっちにくるな」

 女の人の足が止まった。

「どげんしちそげなにおこっちょんの」

「だいじなはなしをしちょんから」

 女の人はたじろいて、私に軽く会釈をしてきびすを返した。

「お母さんですか」

 彼はそれには答えなかった。

「まじめな人だと思った。お土産に粟おこしをもらいましたよ。野球の話をしていたなあ。ヤフードームにもよく行くって言ってた。それ以外何を言っていたんだろう。覚えていない。喋らなかったかも知れない。でも、楽しそうだった。一緒に死ぬのがそんなに楽しいのだろうか。終始ニコニコしていた」

 彼は目を軽く閉じ、一月前を思い出しているようだった。

「仕事の話も世間話もしなかった。彼は野球の話を楽しそうにぼそぼそと話し、僕はそれを聞いていた。お互い名前も知らなかった。僕は童貞ですと言ってましたよ。どうでもいいことだけど」

 猫が塀の上を歩いている。烏が鳴いている。静謐な午後の時間。

「タクシーに乗って、一緒にここに来て、遺書を書いた。こんなのでいいですかって僕に見せましたよ。僕は見なかった。僕のを見ますかといったら、いいですって。それで遺書を置いてKキャンプ場に行った」

 そこで言葉を切った。暫く何かを考えていた。澄んだ目で池の方を眺めていた。

「いや、その前にごはんを食べた。何か食べますかと聞いたら、カレーライスが食べたいって。どれがいいですかと聞いたら、ボンカレーを指さした。サトウのごはんをレンジして、ボンカレーをかけて作ってあげた。料理と言うほどのものではなかったけれど。氷水も作ってあげた。カレーライスを美味しそうに食べて、氷水を一気に飲んだ。おかわりしますかと言ったら、ごちそうさまでしたと手を合わせた。それから、トイレを貸してくれと言ったなあ。長い時間だったから、大の方だと思う。それで」

「遺書に」

 私は言葉を挟んだ。有賀は言葉を止めて私を見た。少し不思議そうな顔をした。

「遺書……。持ってきましょうか、コピーを取ったから」

「いいえ、いいです。妹さんのことを書いてありましたか」

「なかった。あなたのこともなかった。彼は一番書きたかったことを書かなかった。一番残したかったことを残さなかった。仕事とか、会社とか、つまらないことばかりが書いてあった」

 短い沈黙があった。

「あなたの遺書が見たい」

 有賀は初めて顔色を変えた。

「何のために」

「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」

 私ははっきりと言った。私は繰り返した。

「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」

 有賀は新しい煙草に火をつけた。まずそうに煙を吐き出した。随分長い間二人は黙っていた。深い闇のような沈黙だった。

「捨てましたよ。とっくに」

 彼は立ち上がった。

「それじゃ、そろそろ行きましょうか」

 と彼は言った。その後に脈絡のないことを言った。

「僕はかすかに車には興味がある」


 私はトヨタセンチュリーの後部座席に乗り込んだ。

「九州は初めてですか」

「修学旅行に来たことがあります」

「高校のですか」

「ええ」

「僕は九州以外に出たことがありません。仕事をしたこともない」

 トヨタセンチュリーは静かに動き出した。

 母親らしい人が、不安そうに車を見送っていた。


「Kキャンプ場は七月と八月しかキャンプを受け付けないから、それ以外は人も少なく静かです。下の公園はウォーキングの人や散歩の人が多いけれど、展望台まで行けば、滅多に人はいない。でも、キャンプっていやだなあ。あんなの何が楽しいんだろう」

 彼はゆっくりとアクセルを踏んだ。自動車に自分を同化させるような、車が自分の意志で動いているような安全運転だった。


 まだ、日は落ちていない。駐車場に車を止めて、歩いた。何もないところだと思った。淋しい場所だった。荒野だ。

「冬は雪が積もります。九州は暑いなんてとんでもない」

 山道を歩いた。やがて、頂上に着いた。薄闇の中に、町が広がっていた。町が一望できた。こんな所に場違いなブランコがあった。それと、石のベンチ。その後ろに、名前の知らない木があった。Kさんは木に紐をかけ、ベンチから飛んだ。常夜灯が一本。小さな展望台。

「彼はこのベンチに腰掛けていた」

 私はベンチに腰掛けた。

「今はあの時より日の入りが三十分ほど早いから、まだ、日が暮れてなかった」

 辺りは暗くなり、常夜灯に明かりが入った。

「何も話さなかった。話す事もなかった。僕は煙草も吸わなかった」

「隠れていても、匂いはする」

「そう。煙草は持っていなかった」

 有賀は笑った。冷たい笑いだった。

「大切な事を一つ忘れていた。三十分ほど待ってくれますかと聞いた。彼はいいですよどうぞと気持ちよく言った。大切な事の内容も聞かなかった。僕も言わなかった」

 少し寒い。つるべ落としに日が暮れる。

「三十分ほどして、日が暮れるのを待って僕は戻った。彼は同じ場所に同じ姿勢で腰掛けていた」

 彼は植え込みの方に歩いた。

「僕はここから見ていた」

 声のする方向を見たが、彼の姿はなかった。

「彼は一時間ほどじいっとしていた。時々虫除けスプレーを噴霧しながら、僕は彼にもらった粟おこしを食べていた。音をたてないように気をつけながら。お腹が空いていたんでね。秋の虫が喧しいほどに鳴いていた。今はみんな死んじまったけど」

 Kさんは何を考えていたのだろう。

「ブランコに乗って暫く揺れていた。ルビーの指輪を口ずさんでいたなあ。上手い。誰にでも一つぐらい取り柄があるもんだ」

 目をこらすと、常夜灯の加減で有賀の姿が薄い影のように見えた。有賀は正面の芝生に腰を下ろしている。Kさんは知っていた。

「僕は隠れていない。彼が見なかったのだ僕を。僕が見えなかった」

「私にはあなたが見える」

 有賀は私の言葉に反応しなかった。だから、もう一度言った。

「私にはあなたが見えるわ」

「見えていたのかも知れない」

 十メートル程隔てて二人は対面していた。

「だけど、あいつは見えていないんだよ他人が」

「見ていた、あなたを」

 私は叫んだ。私はナイフを握りしめた。自分を守るためか、有賀を刺すためか分からなかった。

 彼は笑った。

「そうかも知れない。でも、確かめようがない」

「人殺し!」

 私は叫んだ。

 有賀に人の血が流れた。私に走り寄った。私のナイフが、腕をかすった。彼はひるまずに、私の首に手をかけた。彼と私が人間として繋がった。はっと気づいたように、有賀は私から離れた。

「わいの胸を刺せ」

 有賀が左胸を叩いた。

「わいの胸を刺せ。今なら死ねる。死なせてくれ。頼む」

 私はナイフを捨てた。恐怖心はなくなっていた。この男に抱かれてもいいとさえ思った。

 有賀から人間の血が引いていった。無機質な男がそこに立っていた。彼は生きながら死んでいる。そんな気がした。有賀の腕から血がにじんでいた。彼は気にならないようだ。痛覚もないのか。

「人殺し!」

 私はもう一度言った。だが、有賀に人間の血は戻ってこなかった。

「かわいそうな人」

 私は言った。有賀はさびしそうに笑った。

 彼はまっすぐに私を見つめた。

「三時間たって、携帯電話を操作し始めた。操作はすごく速い。君のメールだけ残して全て消した。彼は動いた。ベンチに乗って、ロープを木にかけた。僕が見ていたのはそこまでですよ。醜い物は見たくない。結局、後で聞くまでは名前も、職業も、年令も知らなかった」

 彼は静かに言った。

「人が死ぬのにそんなに理由がないんですよ。ちょっと旅に出るみたいに人は死ぬ。そして二度と帰ってこない。残されたものが伝説を作る。でも、旅にでられない人間もいる」

 言いようのない怒りがこみ上げてきた。やがてそれは虚無と絶望に変わった。

 菊の花を木の根っこに置いた。太い幹を見上げた。彼は頷いた。二人は暫く黙っていた。そして、手を合わせる私に有賀は言った。

「花は美しい。人間は嫌だ」

「また同じ事をしますか」と、私は聞いた。彼は答えなかった。とても深い沈黙だった。

 

 トヨタセンチュリーは静かに動き出した。


 大分駅まで送ってくれた。教科書通りの安全運転だった。一言も言葉を交わさなかった。 車を降りた時も、涼しい目でじっと前を見ていた。彼は自分に正直なのかも知れない。そんなことをと思った。憎まなければならないのに。不思議に憎悪はなかった。体についた塵を払うように私は自分の狂気を振り払った。

 小倉で新幹線に乗り換えた。ぎりぎり間に合った。アパートに着くのは明日になるだろう。自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲んだ。水は一瞬に吸収された。メールを打った。

『今から帰ります』

 宛名は空欄のまま、携帯電話をたたんだ。長い間、車窓に浮かんだ私の顔を眺めていた。電車は広島を通った。六十一年前、原爆が落ちた町が夜のしじまの中に沈んでいた。

 広島の人々も次の瞬間に自分が死ぬとは思っていなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ