7. 失われた言葉の断片
大きな門構の家だった。飛石が奥へと続いている。ドアホンを押した。
「どなた様ですか」
年配の女性の声が返ってきた。
「村瀬と申します。亡くなったKさんの事でお伺いしたいことがありまして」
マイクの向こうで躊躇する様子が伝わってきた。
「大阪から来ました。有賀満さんにお会いしたいのですが」
「裁判前ですのでちょっと」
「ご迷惑はおかけしません。満さんに聞いてもらえないでしょうか」
「Kさんとは?」
「友人です」
「しばらくお待ち下さい」
飛石の向こうに長身の男が姿を見せた。ゆっくりとこちらに向かってくる。背は高い。痩せている。金縁の眼鏡をかけている。近づいてくると、目がすずしい。美男子だ。向こうも私を見て驚いている。彼は軽く頭を下げた。
「有賀です。どうも」
「村瀬です。お忙しいところをすみません」
「忙しくないですよ」
明るく笑った。
「僕の部屋でお話しましょう」
部屋というより家だった。
「日差しもよいし。ここがよいですね」
縁側に並んで腰掛けた。女がお茶を運んできた。
「Kキャンプ場にあなたと一緒に行きたいのです」
彼は黙ってお茶を飲んだ。前には池がある。まだ早いが、紅葉の木が植わっている。手入れの行き届いた落ち着いた庭だ。
「いいですよ。その前に少し話していいですか」
彼は言った。私は頷いた。
「僕はロープを用意した。彼が死ぬのを見ていた。それが罪ですか?」
「一緒に死ぬと嘘をついた」
「死ぬのが怖くなって逃げたんですよ」
「助けなかった」
「助けなかったって」
彼は小さく笑った。
「彼が望んでいたことですよ。でも、あなたみたいな人がいるのにどうして死んだのでしょうね。一生片思いでもよかったのに」
また、長い指を曲げてお茶を飲んだ。とても優雅に。
「自殺サイトに一緒に死んでくれる人、手を挙げてって書いたんですよ。足も挙げるよって言う人がいた。チンボコも挙げるよって言うのもいた。こんな人は多分嘘つきだ。彼は手を挙げますだったから」
「前にも一度同じ事を」
「うん。全く同じ」
「なぜ」
「僕には人を殺せない。そんな勇気はない」
「模擬的に殺すのですか」
「いいや、彼らは自分で死んだ。同時に生きることも出来た。僕は傍観者。何もしない。彼らの行動を見ていただけ」
「性的に興奮するのですか」
「そんなレベルじゃないですよ。人間が自分で死ぬのはそんなのじゃない。自分で自分を殺す。自分の世界を消す。絶対にそんなレベルじゃない。それに彼は僕が死ぬのを望んでいたか分からない」
少しの沈黙があった。気持ちの細波を収めるように彼は言った。
「僕は不能ですよ。肉体的にも、精神的にも」
彼は楽しそうに笑った。
「変態!」
私は叫んだ。彼の目に一瞬殺意が浮かんだ。私はナイフを握りしめた。冷静をよそおうように彼は上唇をなめた。
「女は醜い。きれいなんて思ったことがない。肉のかたまり。でも、君は違うなあ。少し」
不意に家にいる猫のミミを思い出した。彼の膝の上にミミがいたらすべてが変わっていたような気がした。
「目の前で生と死が交叉している。僕は傍観者であり続ける。そんな状態に興奮する。それが悪いのですか。僕の個人的な趣味だ」
「趣味……。あなたこそ死ぬべきだった」
彼がN記者の前でつけていた正常という皮膚を一枚、私は剥いだ。私は有賀を知りたいために来たのではなかった。興味もなかった。Kさんの失われた言葉を求めてやってきたのだ。だが、ここにいる男は何者なのだろう。理解出来ない人間がここにいた。
「分からない。もういいから事実だけを話して下さい」
私は言った。
「私はあなたに会いに来たのではない」
ふっと有賀に嫌悪の表情が浮かんだがすぐに元に戻った。
「煙草、いいですか」
私は頷いた。
「大分空港で初めて会った」
「サインは」
「当然サインはV。僕の提案です。男一人で、キョロキョロしている。そんな人は多くない。僕は彼にVサインを送った。一人目で当たりだった」
年配の女の人が不意に姿を見せた。
「満君、お友達」
「こっちにくるな」
女の人の足が止まった。
「どげんしちそげなにおこっちょんの」
「だいじなはなしをしちょんから」
女の人はたじろいて、私に軽く会釈をしてきびすを返した。
「お母さんですか」
彼はそれには答えなかった。
「まじめな人だと思った。お土産に粟おこしをもらいましたよ。野球の話をしていたなあ。ヤフードームにもよく行くって言ってた。それ以外何を言っていたんだろう。覚えていない。喋らなかったかも知れない。でも、楽しそうだった。一緒に死ぬのがそんなに楽しいのだろうか。終始ニコニコしていた」
彼は目を軽く閉じ、一月前を思い出しているようだった。
「仕事の話も世間話もしなかった。彼は野球の話を楽しそうにぼそぼそと話し、僕はそれを聞いていた。お互い名前も知らなかった。僕は童貞ですと言ってましたよ。どうでもいいことだけど」
猫が塀の上を歩いている。烏が鳴いている。静謐な午後の時間。
「タクシーに乗って、一緒にここに来て、遺書を書いた。こんなのでいいですかって僕に見せましたよ。僕は見なかった。僕のを見ますかといったら、いいですって。それで遺書を置いてKキャンプ場に行った」
そこで言葉を切った。暫く何かを考えていた。澄んだ目で池の方を眺めていた。
「いや、その前にごはんを食べた。何か食べますかと聞いたら、カレーライスが食べたいって。どれがいいですかと聞いたら、ボンカレーを指さした。サトウのごはんをレンジして、ボンカレーをかけて作ってあげた。料理と言うほどのものではなかったけれど。氷水も作ってあげた。カレーライスを美味しそうに食べて、氷水を一気に飲んだ。おかわりしますかと言ったら、ごちそうさまでしたと手を合わせた。それから、トイレを貸してくれと言ったなあ。長い時間だったから、大の方だと思う。それで」
「遺書に」
私は言葉を挟んだ。有賀は言葉を止めて私を見た。少し不思議そうな顔をした。
「遺書……。持ってきましょうか、コピーを取ったから」
「いいえ、いいです。妹さんのことを書いてありましたか」
「なかった。あなたのこともなかった。彼は一番書きたかったことを書かなかった。一番残したかったことを残さなかった。仕事とか、会社とか、つまらないことばかりが書いてあった」
短い沈黙があった。
「あなたの遺書が見たい」
有賀は初めて顔色を変えた。
「何のために」
「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」
私ははっきりと言った。私は繰り返した。
「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」
有賀は新しい煙草に火をつけた。まずそうに煙を吐き出した。随分長い間二人は黙っていた。深い闇のような沈黙だった。
「捨てましたよ。とっくに」
彼は立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
と彼は言った。その後に脈絡のないことを言った。
「僕はかすかに車には興味がある」
私はトヨタセンチュリーの後部座席に乗り込んだ。
「九州は初めてですか」
「修学旅行に来たことがあります」
「高校のですか」
「ええ」
「僕は九州以外に出たことがありません。仕事をしたこともない」
トヨタセンチュリーは静かに動き出した。
母親らしい人が、不安そうに車を見送っていた。
「Kキャンプ場は七月と八月しかキャンプを受け付けないから、それ以外は人も少なく静かです。下の公園はウォーキングの人や散歩の人が多いけれど、展望台まで行けば、滅多に人はいない。でも、キャンプっていやだなあ。あんなの何が楽しいんだろう」
彼はゆっくりとアクセルを踏んだ。自動車に自分を同化させるような、車が自分の意志で動いているような安全運転だった。
まだ、日は落ちていない。駐車場に車を止めて、歩いた。何もないところだと思った。淋しい場所だった。荒野だ。
「冬は雪が積もります。九州は暑いなんてとんでもない」
山道を歩いた。やがて、頂上に着いた。薄闇の中に、町が広がっていた。町が一望できた。こんな所に場違いなブランコがあった。それと、石のベンチ。その後ろに、名前の知らない木があった。Kさんは木に紐をかけ、ベンチから飛んだ。常夜灯が一本。小さな展望台。
「彼はこのベンチに腰掛けていた」
私はベンチに腰掛けた。
「今はあの時より日の入りが三十分ほど早いから、まだ、日が暮れてなかった」
辺りは暗くなり、常夜灯に明かりが入った。
「何も話さなかった。話す事もなかった。僕は煙草も吸わなかった」
「隠れていても、匂いはする」
「そう。煙草は持っていなかった」
有賀は笑った。冷たい笑いだった。
「大切な事を一つ忘れていた。三十分ほど待ってくれますかと聞いた。彼はいいですよどうぞと気持ちよく言った。大切な事の内容も聞かなかった。僕も言わなかった」
少し寒い。つるべ落としに日が暮れる。
「三十分ほどして、日が暮れるのを待って僕は戻った。彼は同じ場所に同じ姿勢で腰掛けていた」
彼は植え込みの方に歩いた。
「僕はここから見ていた」
声のする方向を見たが、彼の姿はなかった。
「彼は一時間ほどじいっとしていた。時々虫除けスプレーを噴霧しながら、僕は彼にもらった粟おこしを食べていた。音をたてないように気をつけながら。お腹が空いていたんでね。秋の虫が喧しいほどに鳴いていた。今はみんな死んじまったけど」
Kさんは何を考えていたのだろう。
「ブランコに乗って暫く揺れていた。ルビーの指輪を口ずさんでいたなあ。上手い。誰にでも一つぐらい取り柄があるもんだ」
目をこらすと、常夜灯の加減で有賀の姿が薄い影のように見えた。有賀は正面の芝生に腰を下ろしている。Kさんは知っていた。
「僕は隠れていない。彼が見なかったのだ僕を。僕が見えなかった」
「私にはあなたが見える」
有賀は私の言葉に反応しなかった。だから、もう一度言った。
「私にはあなたが見えるわ」
「見えていたのかも知れない」
十メートル程隔てて二人は対面していた。
「だけど、あいつは見えていないんだよ他人が」
「見ていた、あなたを」
私は叫んだ。私はナイフを握りしめた。自分を守るためか、有賀を刺すためか分からなかった。
彼は笑った。
「そうかも知れない。でも、確かめようがない」
「人殺し!」
私は叫んだ。
有賀に人の血が流れた。私に走り寄った。私のナイフが、腕をかすった。彼はひるまずに、私の首に手をかけた。彼と私が人間として繋がった。はっと気づいたように、有賀は私から離れた。
「わいの胸を刺せ」
有賀が左胸を叩いた。
「わいの胸を刺せ。今なら死ねる。死なせてくれ。頼む」
私はナイフを捨てた。恐怖心はなくなっていた。この男に抱かれてもいいとさえ思った。
有賀から人間の血が引いていった。無機質な男がそこに立っていた。彼は生きながら死んでいる。そんな気がした。有賀の腕から血がにじんでいた。彼は気にならないようだ。痛覚もないのか。
「人殺し!」
私はもう一度言った。だが、有賀に人間の血は戻ってこなかった。
「かわいそうな人」
私は言った。有賀はさびしそうに笑った。
彼はまっすぐに私を見つめた。
「三時間たって、携帯電話を操作し始めた。操作はすごく速い。君のメールだけ残して全て消した。彼は動いた。ベンチに乗って、ロープを木にかけた。僕が見ていたのはそこまでですよ。醜い物は見たくない。結局、後で聞くまでは名前も、職業も、年令も知らなかった」
彼は静かに言った。
「人が死ぬのにそんなに理由がないんですよ。ちょっと旅に出るみたいに人は死ぬ。そして二度と帰ってこない。残されたものが伝説を作る。でも、旅にでられない人間もいる」
言いようのない怒りがこみ上げてきた。やがてそれは虚無と絶望に変わった。
菊の花を木の根っこに置いた。太い幹を見上げた。彼は頷いた。二人は暫く黙っていた。そして、手を合わせる私に有賀は言った。
「花は美しい。人間は嫌だ」
「また同じ事をしますか」と、私は聞いた。彼は答えなかった。とても深い沈黙だった。
トヨタセンチュリーは静かに動き出した。
大分駅まで送ってくれた。教科書通りの安全運転だった。一言も言葉を交わさなかった。 車を降りた時も、涼しい目でじっと前を見ていた。彼は自分に正直なのかも知れない。そんなことをと思った。憎まなければならないのに。不思議に憎悪はなかった。体についた塵を払うように私は自分の狂気を振り払った。
小倉で新幹線に乗り換えた。ぎりぎり間に合った。アパートに着くのは明日になるだろう。自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲んだ。水は一瞬に吸収された。メールを打った。
『今から帰ります』
宛名は空欄のまま、携帯電話をたたんだ。長い間、車窓に浮かんだ私の顔を眺めていた。電車は広島を通った。六十一年前、原爆が落ちた町が夜のしじまの中に沈んでいた。
広島の人々も次の瞬間に自分が死ぬとは思っていなかった。