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6. 大分市


 十一月三、四、五の三連休に私は大分市に行くことにした。飛行機で一時間の距離だ。飛行機に乗るのは何年ぶりだろう。もっとも嫌いな乗り物だった。事故も怖いけれど、巨大な鉄の固まりが飛ぶこと自体が怖い。帰りは電車にしようと飛行機に乗った後、考えた。Kさんも飛行機に乗った。帰らない旅の始まりだった。

 私は何でここまで来たのだろう。自分の行動に理屈を考え出したらきりがない。私達は理屈のために生きているのではない。飛行機がぐんぐん高度を上げる。私の住んでいる街が段々小さくなる。毎日同じ回路を私はぐるぐる回っていた。その回路から抜け出す。それが旅の目的であっても良いのではないか。私はそう考えることにした。

 三連休なのに空席が目立つ。いつの間にか窓の下は雲だけになっていた。ビールを一本もらって、目を閉じた。シートベルトを促すアナウンスで目が覚めた。


 海がどんどん迫ってくる。突然滑走路が現れる。ガリガリと派手な音を立てて、滑走し、突然止まった。


 地方都市の空港は小さく、淋しい佇まいだった。空港ビルも人はあまり多くない。二人は空港で初めて出会った。地方紙を取り寄せた同僚が言っていた。サインは何だったのだろう。帽子ではない。Kさんの頭に合う帽子はない。阪神のユニホーム。それもない。Kさんは意外と照れ屋なのだ。有賀に会ったら聞いてみよう。


 昨日ネットで辿った道を行く。大分空港から大分駅まで、バスで一時間かかる。

 まず中心街にあるコンパルホールを目指す。ネットで調べた。九州は温かいイメージなのに少し寒い。

 中庭は吹き抜けになっていて空が望める。

 エントランスに入ると、私は広い空間に迷い込んだ小さな虫のようだ。

 大分市民図書館はコンパルホールの一階にある。図書館なんて何年ぶりだろう。親と一緒に行った記憶しかない。カウンターで新聞閲覧について聞く。今年の十月四日の地方紙を見たいと言った。

「大分合同新聞でいいですね。書庫にありますから、少しお待ち下さい」

 係の女性は笑みを浮かべながら言った。十分ほどすると、新聞を持って帰ってきた。

「バインダーから外すのに時間がかかって」

 自分のドジを可愛く笑った。私は恐縮した。知らない土地で受ける好意は素直に嬉しい。

 かなり大きく取り上げられていた。二面コピーして、新聞を返した。

「ありがとう、助かったわ」

 係の女性は、微笑んで小さく頭を下げた。

 コンパルホールを出て喫茶店に入った。私は一人で喫茶店に入ることはない。人ともあまり入らない。小ぎれいな店内には、静かな音楽が流れていた。人もまばらだ。窓際の席に腰を下ろした。

 記事は概ね全国版と同じだが、一面と、三面に渡っている。自殺幇助の男、有賀の住所も載っている。お腹が空いたので、サンドイッチとコーヒーを頼んだ。署名入りで自殺サイトへの警鐘もある。この地方ではかなり大きな事件だ。食事を済ませたら、新聞社に行ってみよう。携帯電話で新聞社の場所を聞く。ここからあまり離れていない。歩いても行けるが面倒だし多分迷う。タクシーにしよう。友人は軽いから、恋人にしよう。「恋人……」。なぜかおかしかった。私は今まで恋人はいない。Kさんも多分そうだろう。いない者同士が恋人。Kさんがあの日私に会いに来なかったら、この旅はなかっただろう。そして、もう、忘れ去っていただろう。だが、本当にそうだろうか。分からない。

 窓から大分市の空を眺めた。快晴の空には雲一つなかった。私は今、異境にいるような気になった。誰も私を知らない土地にいる。私も誰も知らない土地にいる。急に不安になった。


 大通りで空車を見つけた。

 乗り込むと年配の運転手が言った。

「どこへいくのかぇ」

「大分合同新聞社」

「あんいたほうがはやいや」

 歩いた方が速いということだろう。黙っていると走り出した。不意打ちの方言に私は急に不安になった。誰も知人のいない世界に私はいるのだ。帰ろうかと思った。今なら、引き返せる。「大分駅と言えばいいのだ」。その瞬間、タクシーが止まった。

「つきたで」

 七十才位のの運転手が言った。大分合同新聞社のビルは想像していたよりも新しく巨大だった。エントランスに入り、受付に向かう。

「社会部のNさんにお会いしたいのですが」

「アポイントメントはお取りですか」

「いいえ」

「ご用件は」

「十月二日の自殺幇助事件についてお伺いしたいことがあります。大阪から来ました」

「しばらくお待ち下さい」

 受付嬢は電話を取った。声を潜めたので私はカウンターから離れて電話が終わるのを待った。広いロビーに記者と思われる人がせかせかと歩いている。面会は断らないだろう。時間がなければ待つつもりだ。まだ休みは二日ある。

 受付嬢が電話を置いた。

「お会いするそうです。会議がありますので、短い時間ならと言っていました」

 場所の説明を聞いて、立ち入り許可書をもらった。

「終わりましたら、お返し下さい」

 エレベーターで九階に上がる。長い廊下を歩く。社会部の矢印を見てほっとした。エレベーターまで戻れるか心配になる。私は方向音痴でもある。

 社会部と書かれたドアを押す。一気に騒がしい部屋に立っていた。机の上は雑然としていて、喧嘩腰で喋っている男もいる。

 一番奥のデスクの男が私を見た。あの人がNさんだろう。五十過ぎの白髪だった。立ち上がり私に近づいてきた。

「村瀬さんですか」

 私は頷いた。

「ここは喧しいでしょう。会議室に行きましょう」

 また、廊下を行く。帰りは絶対に迷う。パンくずを落としていく童話があったと思う。ティッシューを小さく丸めて落とそうかと思っているうちに着いた。Nさんは「空き」という札をひっくり返して、会議中にした。テーブルに向かい合って腰掛けた。

「遠いところをどうも。Kさんとは?」

「同僚です」

 恋人という言葉は出なかった。だが、Nさんは多分そう感じていたと思う。

「あの日のKさんを辿ってみたくて来ました」

「それじゃ、有賀にも会いますか」

「お会いしたいと思います」

「トラブルになってもねえ」

「話を聞くだけです。約束します」

Nさんは少し考えていた。

「まあ、いいでしょう。小さな町だから、どっちみちあなたは有賀に辿り着くでしょう。それに彼は危険ではないと思います」

「今はどうしていますか?」

「家にいますよ。保釈中だから、自由に動けない。裁判は来年になるでしょう」

「保釈?」

「あのあたりの名士ですよ。それも一人息子。収監もされなかった。てんかんの持病があるという理由でね。診断書が出たそうですが、医者の知り合いもありますしねぇ。よく分からんですよ」

 Nさんは人差し指でテーブルを叩いた。コツ、コツ。小気味のよい音を立てたコツ、コツ、コツ。

「人が死ぬのを見て喜ぶ。異常ですよね。それも二度目です。また、やりますよ。死ぬまでやる」

 Nさんは小型の冷蔵庫から、お茶のボトルを取り出して、紙コップについだ。

「お構いなく」

「自分も飲みますから」

 Nさんは背を向けたまま言った。

「自殺サイトがあるからダメなんです。規制しなけりゃ。一人で死ぬのが怖いから仲間を求める。心中はある意味で分かったけれど。死ぬのを一緒にと言うのは分からんですよ。それも見知らぬものどうしが。人と人は実際に出会ってから関係が始まるんですよ。ネットで何がわかるんですか」

 Nさんは九州男児なのだ。声が大きい。

「九月の半ば、東京でオフ会があったそうです」

「オフ会?」

「ネット仲間が実際に会うのですよ。それにKさんは参加していた」

神宮球場に行くと言っていた。ヤクルト・広島戦を見に行った。その時オフ会があったのだ。

「有賀さんも参加していたのですか」

「有賀は参加していません。そんなところに出て行く男ではない。年もいってますしね」

 Nさんは音を立てて、お茶を啜った。

「自殺サイトのオフ会って……」

「普通みたいですよ。自己紹介して。結構楽しそうです」

「同じ趣味の人が集まるんですか?」

「まあ、そうですね。あの死に方より、こっちの方がいいとか。全然暗くないそうですよ。仲間内ですから」

「みんなKさんみたいに普通の人なんだ」

「普通じゃない人なんていないですよ。だけど間違っている。生きててなんぼですよ人間は」

 Nさんは力をこめて言った。少しの沈黙があった。話が横道に逸れた。Nさんは修正した。

「逮捕の理由は、ロープを用意した。細いロープと太いロープ。どっちにすると聞いたら、K君は太いロープを選んだ。有賀はどうしても生きているうちにやらなければならない事がある。三十分ほど待ってくれと言った。それから、三時間、有賀は物陰に隠れて、K君が死ぬのを待っていた。K君はベンチに腰を下ろして有賀を待っていた。だが、有賀は帰ってこなかった。K君は木にロープをかけて、ベンチからぶら下がった」

「有賀さんは止めなかった」

「人が死ぬのを見る。それが彼の目的だから。当然止めませんよ。何を考えているんでしょうね。そんなものを見ても何も楽しくない。私らの世代にはさっぱり分からない」

 私にも分からない。自殺なら分かる。考えたことがないでもない。人が死ぬのを見て何が嬉しいのだろう。Kさんは三時間待った。三時間。Kさんは何を考えていたのだろう。例のおっとりとした感じでベンチに腰掛けていたのだろうか。夕闇は深くなる。その時、私のメールが入った。

「有賀に会って一番驚いたのは、彼が全く普通の青年だったということです。きっちりと敬語も喋れる。こちらの気持ちも分かる。理想的な青年だった。私の前ではという条件付きですが。一応父親の会社の役員と言うことになっていますが、大学を卒業後は家でぶらぶらしています。結婚歴はなし。A型。前回の相手は二十九才の男性です。今回と同じで、ネットで知り合った。懲役二年執行猶予三年です」

「何年前ですか」

「三年ちょっと経っているんですよ。上手い具合に。これが私が知っている全てです」

 Nさんは静かに言った。そして、Nさんは私の前に名刺を置いた。

「タクシーの運転手です。彼が二人を空港から、有賀の家まで送った。私も取材しましたから」

 Nさんの携帯が鳴った。

「分かっているよ。先に始めておいて」

 語気が激しかった。

「もう少し有賀を追いたかったんですが。学生時代とか、家族関係とかね。上から止めろと言われた。止めろと言われたら仕方がないですよ。サラリーマンですからね。でも、何でそんなことをするんですかねぇ。自殺なんて。生きててなんぼじゃないですか」

 また、同じことを言った。

「私はKさんは人生を楽しく生きている人だと思っていました。趣味も色々あったし。私の人生の中でもっとも意外なことだった」

「そうですか」

「ここに来た理由は、自殺する前の日に私に会いに来てくれたからです。誰にでもない、私にです。恋人じゃない私にです」

「好きだったんですよ、あなたが」

 Nさんは簡単に言い切った。

「私は、人を好きになったことがありません。有賀と同じですよ、多分。好きという感情が分からない」

「だけど、今、ここにいるじゃないですか」

 また、携帯電話が鳴った。

「そろそろ、行かないと。二階だから、一緒に行きましょう」

 かくして、私は迷路から脱出した。



 ホームセンターで護身用に小さなナイフを買った。有賀はやはり怖い。菊の花も買った。何か混ぜようと思ったが、結局菊の花だけにした。一色が好きだ。

 タクシー会社に連絡をする。近くにいるから、直ぐに行くという返事だ。また、年配の運転手だった。

「どげんしちわいを」

 分からないふりをした。

「前に乗ってもらったかなあ」

「いいえ初めてです」

「どこへ」

「有賀さんの家へ」

「有賀? ああ、有賀さんねぇ」

「一月ほど前、自殺をした人を乗せたでしょう」

「乗せたよ」

「その人の友人です」

 運転手は黙った。長い間黙っていた。

「二人とも上機嫌だったなあ。野球の話で盛り上がっていた。ピクニックに行くような感じだったなあ。死にに行くとは思いもしなかった」

 車はいつの間にか郊外を走っていた。刈り取られた田んぼが続く。すすき。コスモス。すっかり秋だ。運転はかなり荒い。Kさんはこの空間で、野球の話をしていた。有賀は相槌をうつこともなく黙って聞いていた。

「着いたよ」

運転手が言った。


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