9,侯爵家の執事
「ねえ、ジュール」
アリエルは椅子やテーブルに掛けてある埃よけの白い布を取り払いながら、声を掛けた。
「なんだい?」
彼は高い位置にある家具や壁の絵画、ランプなどの点検を手際よくしながら、ついでにそれらからゴミも取り除いていく。
「黒侯爵って……?」
「君はあの方を知らないのか?」
ジュールは踏み台を降りてアリエルの手伝いに回って来た。家具等の確認は既に終わったようだ。
二人は執事のハンスから部屋の鍵を受け取り、ロックストーン侯爵を迎える部屋の用意を協力して行っていた。侯爵は何時頃にお見えになるか分からない。作業を急ぐ必要があった。
この部屋は長いこと使われていなかったが、定期的に清掃がされており、思ったより綺麗でアリエルはホッとする。
「知らないわ、だってわたし社交界にはデビューしてないし……家に引き籠っていたのですもの」
「僕だって、ロックストーン侯爵が有名な方だから存じ上げてるだけさ。侯爵という高いご身分をお持ちながら、幅広く事業もされているなど、大変な財産家なんだ」
「まあ、そうなの」
「他にも有名なことがある。実はあの方は、社交の場がお嫌いらしくあまり表には出てこられない、とかね」
床の清掃も終わり、テーブルの上には急いで用意してきた花も生けた。
最後にもう一度調度品などのチェックを済ませ全ての用意が整うと、開けていた窓を閉めジュールはアリエルを促し部屋を出る。
「だからこちらへお見えになるのは、意外だな」
「侯爵は難しい方なのかしら? ハンスさん嫌な顔してたわよね」
アリエルは執事のハンスの苦い顔を思い出して頬を緩めた。いつも気難しい顔をして、偉そうにしている男が困っている様は面白い。
「笑ってる場合じゃないよ、アリエル。確かにカイル様は難しい方だ。滅多に表へ出てこられないから彼の嗜好の情報も少ないんだ。ご友人も少ないしね。おもてなしをする身としては気が抜けないんだよ」
ジュールが咎めるような顔を向ける。
「カイル?」
「カイル・グレアム・スタンリー、ロックストーン侯爵のお名前だ」
「素敵なお名前ね。カイル様は奥様とご一緒なのかしら?」
アリエルの問いに、ジュールは足を止めて彼女を射抜くように見据えた。
「何よ、恐い顔して……」
アリエルは彼の視線に怯んだように呟く。そのくらい恐い顔だった。
彼女は急いで言い訳を口にする。
「もう、向こう見ずなことはしないわよ。わたしだって自分を大事にしたいもの。奥様のことを聞いたのは、わたしは侯爵のお年も知らなかったから、ご結婚されているか分からなくて、それで……」
ジュールは硬い表情を崩すと、やれやれと言うように呆れ顔をして微笑んだ。アリエルはホッと息を吐く。
「侯爵は、ご結婚されていない」
「えっ?」
「侯爵はこの前、君が朝から一緒にいたミルドランド伯爵と年齢はそう変わらない筈だ。そして、同じく独身でいらっしゃる」
「え? もしかして、ロックストーン侯爵もお顔がその……」
アリエルは嫌なことを思い出して、ゾッとしたように首をすくめた。
ジュールは彼女の表情に目を細めている。
「侯爵は見目麗しい方だと聞いたことがある。と言っても僕は勿論直接お会いしたことはないから、確かなことかは分からないが」
「そう……」
美しい顔立ちの中年の独身紳士。そして侯爵でありながら事業をするなど財産家でもある。その半面、社交界が苦手で表には出てこず、屋敷に引き隠もっている交遊関係の少ない男性。
そんな人なら、女の影は少ないのではないか?
今現在、適齢期の有力貴族であるならば、たとえ表に出なくとも周りの方で彼を放っておかないだろうが、侯爵はもう年頃と言える年齢ではない。
きっと侯爵が屋敷に閉じ籠っている長い間に、世間の方では、彼が独身だということを忘れてしまっているに違いない。
つまり、ライバルは少ないーー。
アリエルは胸がときめくのを感じた。
もしかして、侯爵こそが彼女の探し求めている相手……?
ジュールが、黙り込む彼女を鋭い視線で見ている。
「アリエル、君、まさか……?」
「えっ? なあに。わたし何も考えてないわよ?」
アリエルは急いで歩き始めた。彼は彼女を不審がって険しい顔つきで見つめてくる。
「アリエル、侯爵は止めた方がいい。これも噂だから気軽に口にするのは憚れるが、侯爵が結婚をしてないのには理由があるんだ」
「えっ、何よ? わたしは別に……」
ジュールのいつにない真剣な声に、アリエルは本心を隠すことが出来なくて目線を泳がせてしまう。
「実はーー」
ジュールが口を開き掛けた時、再び窓の外で空を揺るがすような激しい雷鳴が響いた。
暗かった周囲の景色が一瞬、光で明るくなる。
「きゃっ」
窓の方を向いていたアリエルは、まともに稲光を見てしまった。
凄まじい地に響くような轟音と、目を開けているのも辛い程の眩しさが、彼女の耳と視界を直撃する。
大きな雷だった。
きっと近くに、落ちたに違いない。
彼女は雷が苦手だった。少女の時ならいざ知らず、大人になった今でも恐いだなんて、恥ずかしくて誰にも言えやしない。
だが、苦手だった為に体は無意識に反応してしまったようだ。
「……アリエル、大丈夫か?」
突然、ジュールが気遣うように声を掛けてきた。
「えっ?」
何が? と彼の方を振り向いてアリエルは驚く。
何と信じられないことに、彼女の手はしっかと彼の手を握り締めているではないか。
「やだ、御免なさい!」
アリエルは急いで手を離した。
「いや……」
彼女の取り乱した態度に、彼は戸惑っているようだった。
二人が少しだけ呆然としていると、突然雨が音を立てて降り始めてきた。
雷とともに降ってくる、激しい雷雨だ。
「……とうとう降り出したな」
ジュールが小さな声で呟く。
アリエルも窓の外に目を向けた。
辺り一面に叩きつけるかのようなどしゃ降りの雨が、眼下に広がる美しい荘園の風景を黒い雨雲と共に覆い尽くしていた。
どこから湧いて来たのか、侍女や近侍が出てきて開け放たれていた窓を次々と閉めて行く。アリエルとジュールも、急ぐ彼らの輪に入り共に窓を閉めて回る。
その時、来客を知らせるベルの音が、雨の為に騒がしい館内に一際大きく鳴り響いた。
アリエルが思わずジュールの方へ顔を向けると、彼も緊張した顔つきで彼女を見ていた。
それは、ロックストーン侯爵の来訪を報せるベルの音だったーー。
「ようこそお出で下さいました。あいにくの天候で道中は、さぞや難儀をされたのではございませんか? 何か今すぐ御入り用のものはございますか?」
執事のハンスが、背の高い男性に声を掛けている姿が見える。
あの男性がロックストーン侯爵、その人なのだろうか。
アリエルは、たまたま窓を閉めながら通路を移動していて、ホールへと近付いてしまっていた。
カントリーハウスの広い正面玄関ホールで、ハンスは雨に濡れた黒いシルクハットと、同じく黒い外套を男性から受け取っている。
帽子を脱ぐと、男性の艶々と光る見事な長い黒髪が、流れるように肩から落ちていった。
季節は初夏なのだが、きっちりと着こなされた黒のモーニングコートの上に黒の外套まで羽織っていたその姿は、自身の背中までもある黒髪と合わさって全身黒づくめ、といった趣である。
その黒で統一された侯爵の姿は、まるで外の黒い雨雲を連れて来た異界からの訪問者のようで、近寄りがたい雰囲気を放っていたーー。
「あの方が黒侯爵と言われる由縁だ」
アリエルの耳元でジュールが囁く。
「黒だけを好んでお召しになるから、らしい。本当だったんだな」
アリエルはジュールの言葉に頷くと、こっそりと黒侯爵を垣間見た。
こちらを振り向く侯爵の揺れる髪の毛を、視線が捉える。
遠目からでも、彼の整った顔立ちが分かった。噂に違わず美しい、少し影のある愁い顔。
アリエルはロックストーン侯爵から目が離せなかった。
「ねえ、アリエルさん、新しくお見えになられた侯爵様をご覧になりましたか〜?」
公爵夫人付きの同僚侍女のリンダが、作業の手を止めて話し掛けてくる。
アリエルとリンダは、頭痛がすると寝室で休んでいる夫人の、ドレスに付けるレースを編みながら午後の時間を過ごしていた。
今夜はロックストーン侯爵を交えて、盛大なパーティーが開かれる予定だ。
公爵夫人からは、その支度をする時刻まで起こさぬようにと言われている。
アリエルには不思議に感じられたが、夫人の態度は侯爵の訪れを喜んでいるようには見えない。すぐれないその表情は、表面上は歓迎の意を表した夫のグルム公爵とは対照的であった。
だが、館の侍女達の間では、美貌の侯爵のことは歓迎する話題としてもてはやされていた。
彼女達は仕事の合間にすれ違うたびに、侯爵の姿を見掛けたことをお互い自慢し合う。
侍女達だけではない、館に滞在している他の招待客も、彼の突然の訪問に興奮を隠しきれてなかった。
侯爵は、普段は世捨て人のように世間と関わりを持たずにひっそりと暮らしているのだが、決して忘れ去られた存在ではない。
勿論、平生は人々の話題に上ることはないのだが、何かの折りには存在感を発揮して、社交の場でも彼の噂が飛び交うこともあるようだ。
何しろ忘れ去るには難しい程の財力や力を、引き籠っているにも関わらず、彼は持っているのだから。
そんなある意味とても有名な、隠者のような人物に、思わぬ所で偶然にも出会えたのである。
普段は取り澄ましたような顔をしている貴族の面々も、男も女も老いも若きも、好奇心丸出しで騒いでしまうのは仕方のないことだと言えるだろう。
侯爵が呼びつけでもしたように、彼の訪れと共にこの荘園の周囲を襲っていた雷雨も静まり、今はしとしとと弱い雨が降るだけとなっていた。
「アリエルさん、聞いてます?」
なかなか返事をしないアリエルに、焦れたようにリンダが詰め寄る。
「えっ? 何?」
ぼんやりとしていた彼女は、リンダの話を聞いていなかった。
「もう! また、わたしの話聞いていないんですね、アリエルさんは!」
「ご免なさい」
アリエルは苦笑を浮かべてリンダに頭を下げる。リンダは頬を膨らまして唇を曲げていた。
「アリエルさんも、あの侯爵様のこと……考えていたんですか? 皆、あの方を見てキャアキャア騒いじゃってますからね」
「あら、あなたは違うの?」
リンダは考えるように上を見詰めていたが、やがて大真面目な顔をして断言する。
「違いますね。そりゃ、素敵なおじさまだとは思いますけど、わたしの好みではありません!」
アリエルはその言い種に噴き出した。
「おじさまって、仮にも侯爵様よ?」
「おじさまには違いありません! わたし……父親と同じくらい年上の人に興味ないです」
アリエルはびっくりして目を丸くする。あまりに整った容貌の為気にならなかったが、確かに侯爵はその位の年齢のようだ。
アリエルの父親位、いやもしかしたらもっと上かもしれない。
そのアリエルよりも若いリンダにとって、侯爵が恋愛対象にならないのは当然と言えるだろう。
「それに侯爵様は何を考えてるのか分からない感じがして、ちょっと恐いです。やっぱりわたしは、爽やかな美男子がいいですね〜、ジュールさんみたいな……」
リンダはニヤニヤとしながらアリエルの様子を窺うように見ていた。
「あ、でも、ただの憧れですからっ! 本気じゃないですから、安心して下さい」
(リンダったら、また始まったわ……)
アリエルは辟易したような顔をした後、リンダを軽く睨んでやった。
その夜のパーティーは、盛大なものだった。
パーティーの主役は言わずと知れた、ロックストーン侯爵である。
滅多に人前に現れないかの人を一目見ようと、滞在客は勿論、近隣の荘園主の貴族達まで出席している有り様だ。
アリエルは今夜も公爵夫人付きを解かれ、パーティー客の接待を受け持っていた。
しかし、肝心の侯爵は貴族達の人だかりに囲まれていて、その姿を見ることさえままならないでいる。ましてや、近付くことなど出来よう筈もない。
しかも侯爵のすぐ側には、常に若く見目の良い彼の侍従が張り付いており、全く隙のようなものがないのだ。
アリエルはロックストーン侯爵の後ろ姿を、溜め息と共に見詰めるしかなかったのである。
宴もたけなわという様相を呈してきた。
アリエルは酷く酔っ払った男に目を付けられて、絡まれていた。
彼女は、しつこいその男に部屋の外へと強引に連れ出されそうになる。だが、それを得意の艶っぽい流し目で止めさせると、可愛い声で男の耳元に囁いた。
「お酒をお持ち致しますので、空いたお部屋でお待ちになっていて下さいませ」
彼女が科を作ってにっこりと微笑むと、男はご機嫌になり「待ってるぞ」と鼻歌を唄いながらパーティー会場となったホールを出て行った。
アリエルは、その後ろ姿を見送りながら顔をしかめる。
それから彼女も廊下へと足を進めた。
だが行き先は勿論、男の待つ部屋などではない。彼女が会場を後にしたのは、足りなくなった飲み物や食事などを厨房へ取りに行く為だったのである。
アリエルにとって、酔った客をあしらうなど簡単なことだった。何故なら、彼女はこんなことを、もう何年も繰り返してきて慣れっこになっているのだから。
それに彼女の色香に惑わされて寄ってくる男など、実際そんなに恐い存在ではない。
彼らは大抵アリエルをものにするまでは、彼女に嫌われたくない一心で強く出てこれないのだ。
だから、酔った勢いでやっと彼女を誘う男など、恐れるに足りないという訳である。
そう、本当に気を付けなければいけないのは、酔った振りをしている人間であり、色事とは別の思惑があることを隠しもせず、近付いて来る人間であるのだからーー。
そういう人間は、何を考えているのか読めないところが何より恐い。
「お若いのに、随分世慣れておられる」
突然、背後で嘲笑うような声が聞こえてきた。
アリエルがその声に驚いて振り向くと、すぐ後ろに若い男が立っていた。
「お助けしようと思ったが、必要なかったようだ」
男は飄々とした様子で話し掛けてくる。
「あなたは……?」
薄い金髪の繊細な面差しの男だ。ちょっと見ることはない程の美しい顔をしている。だが、アリエルはこの男にどこかで会ったような気がした。
不思議なことに酷く懐かしい感じがしたのである。
「これは、失礼を。名乗るのを申し遅れましたか……」
男はニヤリと笑って頭を下げる。
「ロックストーン侯爵家で執事をしております、アルフォードと申します。どうかお見知りおきを願います」
侯爵家の執事と聞いてアリエルは思い出した。彼はパーティーの席で侯爵の側に常に付いていた、あの侍従だ。
「ロックストーン侯爵家の……? あ、わたしはアリエルと申します。当家で侍女をーー」
アルフォードは、慌てて挨拶を始めたアリエルを軽く手で制する。
「ああ、存じております。わたしはあなたに、お話があって声を掛けたのですから」
「わたしに、ですか? ……何でございましょう?」
アリエルは、耳を疑った。
彼女の名前を含め存在を知っていたことにも驚いたが、彼が侯爵から離れ独りでいたことに一番驚いていたのである。
どうして、この男がここへいるのだろう。
そして、いつの間に彼女の後ろにいたのだろうか? いつから彼女を見ていた?まさか、彼女と酔客とのやり取りをずっと観察していた訳ではあるまい。
それにしてもこの男は先程まで、侯爵の側に張り付いていた筈ではなかったか? まるで、侯爵に近付く人々から彼をガードするかの如く、常に側に控えていたように見えたのに。
その大事な侯爵から離れて今、彼女の目の前にいてもいいのだろうか?彼の主の侯爵は今どうしているのだろう。
「驚いた顔をされていますね?」
「え、ええ……」
アルフォードは苦笑を浮かべた。困ったような、笑いで誤魔化すようなそんな顔は、やはり彼女のよく知る人物に違いないと思わせる。
だけど、思い出せない。アリエルはどうしても確かめたくなった。
「あの、どこかでお会いになったことがありますでしょうか?」
「あなたと、わたしが?」
「はい」
「いえ、お会いしたことはありません。今日が初対面です」
しかし、彼はその問いに気分を害したようだった。
緩く浮かんでいた笑みを消して、彼女を睨むように一瞥すると素っ気なく答える。
「そうですか……、わたしってば、大変失礼なことを」
アルフォードはアリエルの怯えた様子に溜め息を吐き、苦々しく吐き出すように口にした。
「あの方もよくよくこの顔に囚われる。何故、こんな……」
「えっ?」
アリエルの声に気付くと、彼は言葉を切った。そして、覚悟を決めたように口を開く。
「あなたが不思議に思うのも無理はない。わたしの顔はあなたに似ているのです」
「わたしに?」
「ええ、正確には少し違うのだが……」
アリエルにはさっぱり分からなかった。目の前の男が何を言いたいのかが。
彼女には、自分が彼と似ているかどうかすら分からない。
彼と彼女は髪の色すら違う。それでも似ていると言うのだろうか?
自分と似ているから、彼を懐かしく思ったのだろうか? ……分からない。
人は得てして、自分の顔のことは分からないものなのだ。似ている、似ていないというのも他人の評価で気付くことが多い。
「わたしは孤児でした」
突然、アルフォードが身の上のようなものを語り始めた。
彼の語る内容にアリエルは体を固くする。
しかし、彼女の躊躇いなど目にも入らないらしく、彼は一方的に話を続けていく。
「わたしは、あなたが想像も出来ないような商売をして生きてきました。十五の年にカイル様に出会い、拾われるまでね」
それからアリエルを見つめた。
まるで彼女を憎んでいるようにも見える、底冷えのする視線だった。