8,黒の侯爵
「君は綺麗な手をしてるね。とても滑らかで柔らかで、侍女とは思えないよ」
ミルドランド伯爵はアリエルの手を撫で回すと、彼女の顔を見てゲフッゲフッと笑った。
「まあ、伯爵様、ありがとうございます」
アリエルは伯爵の吹き出物でデコボコの顔を、にこやかに見つめる。伯爵は目尻を下げて鼻息を荒くした。
ここは、グルム公爵の客人の一人、ミルドランド伯爵の客室である。
アリエルは彼に、昨夜の晩餐からそれとなく視線を送り、彼女に気付いた伯爵に誘われ今朝この部屋へと訪れていた。
伯爵は夜に弱いらしく、早朝からの呼び出しである。
そんな訳で、朝の仕事の合間を抜けて、彼とソファーに共に座り見つめ合っていたのだが……。
(き、気持ち悪い……)
彼女は心の中で悪態をついていた。
アリエルはバイロン子爵との一件で、美しく財産もある男性との結婚は諦めた。
そのような好条件の男性は、彼女でなくても誰もが妻の座を狙っている。
その中には子爵夫人のような嫉妬深い女性も、彼女とは天と地ほどの差がある高貴な身分の女性もいるのだ。
結婚に行き着くまでに、そんなライバル達に打ち勝たなければいけないなんて、今の彼女には無謀な賭けでしかない。
それでなくても彼女の望む結婚は、万に一つの可能性に賭けているようなものなのだ。
これ以上障害を増やしていては、ますます玉の輿から遠退いてしまうではないか。もっと現実的にいかなくては……。
だから次に狙うなら、その逆の男。つまり女の影が全く見えない、このミルドランド伯爵のような男だ。
この男は、中年と言っていい年齢にも関わらず独身だった。
今度はアリエルも、彼の身辺を慎重に調べて回ったから間違いないだろう。またジュールに、知らなかったのか? と馬鹿にされるのは堪らない。
ミルドランド伯爵は奥方同伴ではなかった。
上位貴族の公爵の屋敷に招かれて、既婚であるにも関わらず夫人同伴ではないなど考えられないことだ。
そうだ、伯爵は独身に決まっている。
友人らしき貴族達との会話にも夫人の話は出ていなかった。それに……。
アリエルは隣に座る伯爵をチラリと見る。伯爵は彼女の視線に気付き、にやけた顔を更に崩して笑みを深くした。
「なんだね? 可愛い人」
(うっ……)
「何でもありませんわ、伯爵様。あまり見つめないで下さいまし。照れてしまいます」
アリエルは伯爵の頬に手を当て、さりげなく顔の向きを変える。
(お願いだから、向こうを向いていてちょうだい)
「そうかい? 照れなくてもいいんだよ」
ゲフッゲフッと笑い声が続いた。
彼女は心の中で溜め息をこぼす。
確かにこの伯爵は、今のアリエルにとっては理想の相手だ。
だが、いくら女にモテない、浮気の心配がない相手だとしてもこの顔はどうだろう?
伯爵の顔は、沢山の吹き出物と余分についた肉のせいで醜く崩れていた。分厚い唇から漏れる笑い声は、喉の奥に何か挟まっているかのような不気味なものだ。そう、ゲフッゲフッっという声である。
彼は手にも疣のような突起物がいくつかあり、彼女は正直触られるのにも抵抗を感じていた。
一言で言うなら醜悪なのだ。
いったい何を食べたら、このような有り様になるのだろうか? きっと、何年も贅沢な料理を、人一倍貪ってきたツケが身に付いてしまったに違いない。
伯爵はこの国でも有数の資産家だった。
(だけど……)
もし、結婚できたとして、この男を愛せるだろうか? 一生を添い遂げることが出来るのだろうか?
だが、アリエルは弱気な自分を叱責した。
(何よそれが、何だと言うの? この方は誰かと取り合いになる相手とは思えないし、裕福な貴族の殿方よ。まさに理想じゃないの……)
アリエルの目に新たに浮かんだ決意の光を、伯爵は勘違いして彼女の肩を抱く。
「そんなに熱い目をして僕を見つめて、君は意外と情熱的なんだね」
ミルドランド伯爵はアリエルの瞳を覗きこんだ。
「えっ?」
気が付くと、いつの間にか伯爵の顔がすぐ側にある。肩を凄い力で抱かれて、逃げ場はなくなっていた。
「震えないで、可愛い人」
伯爵は似合わないセリフを吐きながら、どんどん彼女に迫ってくる。
「え? あ、あの……」
アリエルの目の前に、垂れた瞼を閉じてる伯爵の顔があった。ぶよぶよとした芋虫のような唇が、彼女の唇に今にも触れそうになっている。
(やっぱり、無理ー!)
「い、いやっ!」
アリエルは悲鳴を上げながら、伯爵の口づけから逃げようと暴れていた。
「失礼します。お部屋のお掃除に参りました」
いきなり部屋の扉が開いて、侍女のアンナが入って来た。
彼女は、ソファーの上に押し倒されたアリエルを見ても平然としている。
「あら、お取り込み中でしたか……?」
そう呟きながら閉めてあるカーテンを開け、掃除の準備をテキパキと始め出した。
アリエルと伯爵は、アンナの態度に呆気に取られて固まっていた。
しかし、何の躊躇もなく掃除を始めたアンナに、伯爵は遅まきながら抗議の声を上げる。
「な、何だ、お前は! 了承も得ず入って来るとは!」
「申し訳ありません。いらっしゃるとは思いませんでした」
アンナは悪びれもせず言ってのけ、そのまま掃除を続けていく。顔には薄笑いを浮かべ、まるで伯爵を馬鹿にしてるようだ。いや、馬鹿にしてるのはアリエルの方だろうか?
伯爵は顔を真っ赤にして叫んだ。
「いい加減にしろ! 今すぐ出て行け!」
その声に、アンナは漸く手を止める。それから、ゆっくりとした動作で伯爵を振り返った。その表情には妙な迫力がある。
「本日のお掃除はよろしいのでしょうか、伯爵様?」
伯爵はアンナの雰囲気に飲まれてタジタジとなっていた。
「あ、ああ。……よいから出て行け!」
彼は小さい声でびびったように呟くと、彼女と目も合わさず追い出すように素早く手を振る。
「畏まりました、では……」
アンナはダルそうに手を動かすと掃除道具を片付け、のんびりとした動きで扉に手を掛けた。
(待って、アンナさん……)
アリエルはアンナの背中に向かって、心の中で叫んでいた。
その瞬間、アンナがふと振り向く。まるでアリエルの心の声が聞こえて、こちらを向いたように見えた。彼女は必死でアンナに目で訴える。
だが、アンナはアリエルを見ると、クスリと口元に笑みを浮かべるだけだった。
それはいつも彼女に会うと見せる、あの馬鹿にしたような笑みでしかない。
アリエルはショックのあまり顔が強ばっていくのを感じた。彼女の体から力が抜けていく。
アンナは笑みを残し扉の向こうへ消えて行った。
「やれやれ、なんだあの無作法な侍女は……?」
伯爵はアンナが出て行くと、大袈裟に溜め息を吐いて顔をしかめる。
そして、ぐったりとソファーに横たわるアリエルに目を向けると、いやらしい笑みを浮かべた。
「やっと邪魔者は、いなくなったね。これで、君とぼーー」
「失礼致します、ミルドランド伯爵」
しかし、伯爵の言葉は一方的に遮られた。
再びノックの音が聞こえたと思うと、返事も待たず扉を開けて誰かがズカズカと入って来るではないか。
伯爵はムッとしてアリエルから視線を外し、声を出した人物の方に目をやる。彼の顔には、幾重にも青筋が浮いていた。
明らかに身分の高い客人に対して、礼儀のないまずい行為である。いったい誰が? アリエルも力なく扉の方に目を向けた。
アンナとすれ違うように入って来たのは、ジュールだった。
(嘘、ジュール?)
アリエルには信じられない。
接客とマナーには定評のあるジュールらしからぬ行動だ。何故こんな無礼なことを彼がするのだろうか?
(でも、そんなことより……)
アリエルはジュールの視線から逃れるように顔を背けた。彼女はただ、恥ずかしかった。
彼の前から今すぐ消えてしまいたい、だが伯爵に押さえ付けられ身動きは出来なかった。彼女の顔はカッと熱くなる。
(嫌だ、また、ジュールにこんなところ……)
だが、彼はそんなアリエルには一瞥もせず、伯爵の顔だけを見つめながら近寄って来た。
伯爵は又もや了解もなしに入って来た使用人に、顔を真っ赤にしてキレたように怒鳴り付ける。
「何だ、貴様は? 公爵殿はろくでもない人間ばかりを使っているのか? 礼儀を知らない奴ばかりだな。我が伯爵家では考えられない失態だぞ?」
「ご無礼をお許し下さい。実は……」
ジュールは伯爵の耳に近付いて、何事かを小さな声で囁いた。ミルドランド伯爵はジュールの囁きを聞くと、紅潮させた顔色をどんどん青くしていく。
「それは、ほ、本当なのか……?」
伯爵はジュールに不安気に尋ねた。その瞳にはもう怒りの色は消えている。
「当家の執事より聞きましたから、確かなことだと思います」
ジュールは控えるように一歩下がると伯爵に問うてきた。
「いかが致しましょうか?」
アリエルは目の前で、というより体の上で繰り広げられる会話に疑問符が浮かんでいた。
二人の男が何について話しているのか、まるでピンとこない。
彼女の耳には、肝心なところが聞こえてないのだから仕方ないのだが……。
(何なの? いったい……)
「こうしちゃ、いられないぞ」
伯爵は青い顔でブツブツと呟くとアリエルを見て叫んだ。
「おい、出て行け!」
「えっ?」
突然の暴言に彼女は呆気にとられる。
伯爵は彼女の体の上からのそのそと降りると、醜悪な顔を更に歪ませて睨み付けた。
「早く出て行け! 忌々しい小娘が!」
「なっ!」
なんですって! と思わず声を上げそうになったところを、ジュールに素早く口を塞がれた。
彼はアリエルを抱き寄せるかのように自分の方へ引っ張ると、「この者が大変失礼を致しました。お許しを」と伯爵に頭を下げる。
(ちょっと、ジュール。どういう意味よ!)
アリエルは抗議の声を上げようとするが、彼の口を塞ぐ力は強く一言も発することは出来ない。
「うむ」
ミルドランド伯爵はチラッとアリエルを見ると舌打ちをした。下品な顔に似合いの下品な態度だった。
「もう、よい。連れて帰ってくれ」
「畏まりました。それで、この後はいかように?」
「せっかく招いて頂いたところ公爵には申し訳ないが、僕は失礼する。急用が出来たと断わっておいて欲しい」
「わたしがお伝えしてもよろしいのですか?」
「ああ、一分一秒でも早く出立したい。公爵には失礼のないよう申しておいてくれ」
伯爵は苦い顔をして、自分の侍従を呼ぶために続き部屋へと向かう。
ジュールは心得たように頷いた。
「承知致しました。では厩舎の方にも連絡を入れ馬車の手配をしておきます。ご用意が出来次第ご連絡に上がりますので。では、失礼を」
「頼む」
伯爵は顔も向けないで一言返し、続き部屋に消えて行った。アリエルのことは一切無視だった。
彼女は手のひらを返したような伯爵の態度に腹が立ったが、ジュールに強引に部屋の外へと連れ出され文句などは勿論言えない。
彼は廊下に出て伯爵の部屋から離れるまで、彼女の口から手をどけようとはしなかった。
「ふう、ここまで来れば大丈夫だろう」
ジュールは辺りを見回して安堵の溜め息を吐く。それから、ムグムグ言い体を動かしているアリエルに気が付くと、笑いながら彼女の体を離した。
「あ、すまない、アリエル。悪かった……」
アリエルは漸く自由になって大きく息を吐く。
ジュールが、彼女の疲れたような顔を見てニヤニヤ笑っている。彼の笑顔が鼻についた。
「ちょっと、ジュール? さっきのーー」
「ジュール」
背後から、甘えたようなアンナの声が被さった。伯爵の部屋を出た後、この辺りでジュールを待っていたらしい。
アリエルは話の腰を折られて何も言えなくなった。
アンナが笑顔を浮かべて近付いて来る。ジュール相手だと優しげで魅力的な笑顔だ。
「アンナ、ありがとう。無理を聞いてくれて」
ジュールが彼女に微笑んで礼を述べていた。彼の意識も恋人へと変わっている。
「いいえ、伯爵様は怒ってなかった?」
「いや、それどころではないようだったよ。君のことはすっかり忘れていらした。もうこちらを引き揚げるらしい」
「そう……よかったわ」
アリエルはまた、蚊帳の外にいた。彼女の分からない話を二人は親しげに話している。何だがとても不愉快だ。そろそろ本来の仕事に戻った方がいいかもしれない。
アンナが、剥れているアリエルの顔を見てまた笑っている。彼女はカッと顔が熱くなった。
「それでアンナ、悪いんだけどもう一つ頼まれてくれないか? ミルドランド伯爵がお帰りになるということと、馬車の手配のことを執事のハンスさんに伝えて欲しいんだ」
ジュールだけが、二人の侍女の微妙な空気に気付かずのん気に言葉を挟んでくる。
「……わたしが?」
アンナがキョトンとした表情でジュールを見た。
「ああ、申し訳ないが……駄目かな?」
彼は手を合わせ拝むように頼んだ。高い背中を丸め小さくなっているが、その顔は悪戯っぽく笑っていて本気で悪いと思っているか甚だ疑問に感じる。だが、どこか憎めない顔だった。
それどころか、魅力的でさえある。
アンナは呆れたように息を吐いた。
「仕方ないわね、その代わり、今度たっぷり埋め合わせしてもらうわよ」
「ああ、何でも言うこと聞くよ」
ジュールは軽い調子で請け負う。そんな彼にアンナは片眉を上げた。
「何でも? じゃ、キスしてくれる?」
彼女は何故かアリエルの方を見ながら彼に切り返す。
「えっ?」
ジュールもさすがにアンナの視線に気付いた。彼はアンナに釣られてアリエルを見る。
(何よ……わたしは関係ないでしょ?)
「あ、じゃあ、後で……」
ジュールは慌てて返事をしたが、少し戸惑っているようだった。
「嫌よ、今すぐここでしてちょうだい……」
アンナは拗ねたように唇を尖らせて、彼に近付くとそっと肩に手を置く。
「簡単でしょう? だっていつもしてるじゃないの、わたし達。ねえ」
彼女はアリエルの目の前で彼にしなだれかかった。
アリエルは益々不愉快になった。
アンナは彼女に見せつけたいのだろうか? 自分達は恋人同士だと、お前はただの友人だろう? と。
「アンナ、ここは人目がある。後でゆっくり……」
ジュールがアンナの髪の毛を優しく撫でて囁く。その言い方はアリエルが邪魔だと言わんばかりに聞こえてくる。
「くすっ」
アンナがアハハと声を上げて笑い出した。
ジュールとアリエルは、彼女が突然笑い声を上げたので驚いて見つめる。
「ごめんなさい、冗談よ」
「冗談?」
「ええ、ちょっと意地悪言っただけ……、じゃ、わたしは行くわ。ハンスさんに言って来るわね」
「……ああ、頼む」
アンナはにこやかな笑みを残して階段の方へ消えて行った。
ジュールが彼女の背中を見送ってふうっと溜め息を溢す。
彼の横顔を盗み見て、アリエルはおもむろに口を開いた。
「あ、じゃ……わたしもそろそろ……」
彼女がそっと歩き始めると、彼が凄い勢いで振り向いた。
「待ちたまえ、君には話がある」
彼の顔は珍しく怒っているようだった。
「何よ?」
アリエルも何だがムッとする。先程からいちゃつく恋人達を無理矢理見せつけられて、不愉快度指数は半端なかった。
「何故、ミルドランド伯爵と朝からしけこむんだ? 随分……好みが変わったみたいだが、趣旨変えしたのかい?」
「ええ、そうよ。モテる男性は懲り懲りなのよ。他の女の嫉妬なんてない男性がいいの、わたし悟ったのよ」
「それで、伯爵を? 確かにあの方は独身だが……、だが……」
ジュールは咳払いをして言い淀む。
「あなたの言いたいことは分かるわ。確かに伯爵の容貌は……少し……いえ、……かなり慣れるのに時間がかかりそうだけど、そこがいいのよ! 浮気の心配が減るじゃない?」
ジュールは目を丸くしてアリエルを見た。それからブッと噴き出すと笑い出した。
「何よ……」
彼の屈託ない笑い声を聞いてると、彼女は顔が赤くなってくる。
「わたし、何か可笑しなこと言ったかしら?」
ジュールは笑い声を噛み殺して告げた。
「ミルドランド伯爵は独身だが、長年連れ添った愛人がいらっしゃる。とても嫉妬深い女性がね」
「えぇっ?」
「奥方と言ってもいいくらいだ。一緒に暮らしてはいらっしゃらないが」
「嘘……何故? ……って言うか、そんな方がいるのにどうして結婚しないのよ?」
「よくは知らないが、伯爵には年老いた母上殿がご健在で、ずっと反対されているらしい」
「何故、反対を?」
アリエルは我が身のことのように不安になった。
「……確かなことは分からないが、その女性というのが若くして未亡人になられた方で再婚になるのに対し、伯爵の方が初婚だったのが気になったという噂だ」
「そう、……だけどその愛人の女性にとっては、痘痕もえくぼって訳なのね」
アリエルはがっかりして力が抜けていった。
あんな、誰も振り向かないと思ったブ男中年にも……嫉妬深い愛人がいるなんて……、彼女には結婚相手を探すなど不可能な気さえしてきた。
「わたしには、相手を見抜く力がないのかもしれないわ」
「そのようだね、君は本当に危なっかしい」
アリエルは、ふと気が付いて彼に尋ねた。
「もしかして、わたしが伯爵と一緒にいるのに気付いて、助けに来てくれたの?」
ジュールはグッと声を詰まらせる。目を丸くして彼女を見た。
「ああ、アンナが教えてくれたんだ。君が担当でもないのに伯爵の部屋に入って行くのを見かけたらしい」
「そう……」
(アンナに聞いたの……?)
アリエルは何故か淋しく感じていた。
「ねえ、でも伯爵に何て言ったの? あの後、急に人が変わったみたいに慌てられて……」
「ああ、それは……」
ジュールはニヤリとして声を潜めた。
「実はね、伯爵は愛人の女性を恐れていらっしゃるんだ。彼女はこちらに一緒にお出でにはならないがスパイを送り込んでくる可能性は充分あるのさ。何しろ伯爵は無類の女好きだから」
「まあ……」
男と言うものは老いも若きも、美しい者もそうでない者も一緒なのね、アリエルはそんなことを思った。
そうでなければアリエルの夢など、見るだけ無駄になってしまうのだから構いはしないのだが。
「伯爵は愛人のご友人方を一番恐れている。その方達は間違いなくスパイだからね。だからその内の一人が、もうじきこちらの屋敷にお見えになると教えて差し上げたのさ。結果は君も見ていた通り。彼は早々とお帰りになるらしい」
ジュールはよほどおかしかったのか肩を振るわせて笑っている。
アリエルは気になってしまった。
「その話、本当なの?」
彼は彼女の顔を見て、また笑う。笑いの虫が止まらなくなってしまったようだ。
「残念ながらその予定はないよ」
「まあ、では嘘なのね!」
「そういうことに、なるかな?」
アリエルは呆れたように彼を見つめた。
彼が助けてくれたことに心の中では感謝をしているくせに、口をついて出てくるのは礼とは程遠い言葉になってしまうのを、自分で腹立たしく思いながら。
山間では夏の天候は変わりやすい。
ここグルム公爵のカントリーハウスがある荘園も、山や森と湖に囲まれた田園地帯だ。
荘園の北と西には山々があり、夏場は急に雨がはげしく降り出したりすることもある。そしてその後、稀に美しい虹を見せることもあった。
この地方に住んでいる者は慣れっこだが、公爵の客は雨が降るとうんざりしたような顔を見せて不機嫌になる。
何しろ外での遊びが楽しめないので暇をもて余してしまうらしい。
そうなってくると、アリエルにまで不機嫌が伝染してしまうのだ。彼らは手近な侍女に当たり散らすこともあるからだ。
公爵夫人付きの侍女としてならまだいいが、客人のもてなしとなると最悪だ。
その日も昼を前に空の様子が一変した。
北の方から黒い雨雲が伸びてきて荘園の上空を覆い隠し、青い色をしていた空は昼間とは思えないほど色を変え、まるで夕方のように辺りを薄暗くさせていた。
「一雨きそうだな……」
雨が降りそうだということで外出を控えた客人が集うサロンで、給仕を任されていたアリエルは部屋から出たところで偶然ジュールと会う。
彼女は少なくなった飲み物を補充しようと、サロンを出たところだった。
彼は窓枠に手をやり外を見て呟いている。
アリエルに気付いて口にしたのか、ただの独り言なのか、後ろ姿からは分かりにくい。
窓の外は真っ暗だった。
彼女がジュールに話し掛けようと口を開けると、焦った様子の男性が近付いてくるのが視界の隅に入った。
「ああ、君達よかった、ちょっと手を貸してくれないか?」
二人に声を掛けてきたのは執事のハンスだった。
「どうかしたのですか?」
ジュールが窓から離れ、ハンスの元へ行く。アリエルも仕方なしに彼の後に続いた。
「急な電報が入った。今日この後、お客様がお見えになる」
ハンスは足早に廊下を進みながら話し出す。ジュールとアリエルも同じように彼の後に付いて行った。
「こんな天候の中を?」
ジュールがチラッと窓の外を一瞥して尋ねた。
「あちらでは悪くはないのだろう、何しろもう向かっておられるそうだ」
ハンスは苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
「とにかく急いでお部屋を用意せねばならない。誰も捕まらないんだ、すまないが頼めないか?」
「分かりました、で、どのお部屋を?」
「客室棟の一番奥の南向きのお部屋だ」
アリエルとジュールは驚いてハンスを見上げた。
何故なら、その部屋はこのカントリーハウスの中でも最も上等な客間で、主が特別に用意したとされ滅多に使われることはなかった。
上位貴族である公爵が、特別な部屋に招く客人とはいったい誰なのか?
「あの部屋は暫く使われていない、充分な掃除を頼む。時間はないが……」
ハンスはそれだけ言うと、急いでその場を離れようと体の向きを変える。
「お待ち下さい、ハンスさん」
ジュールがハンスを呼び止めた。
「どうした、まだ何か?」
ハンスが苛立つように言葉を返す。
彼はこの後も、新たな客の為に色々手配しなければならない。さしあたっては、昼食だ。急に増える人数を厨房に伝えなければ……。
「いったい、お客様はどなたなのですか?」
ハンスは苦い顔をした。あまり考えたくないことだった。
「ロックストーン侯爵。……あの黒侯爵様さ」
その時、眩しく稲光が光り大きな雷の音が響いた。




