7,キューピッドの魔法
ジュールはアリエルの姿を捜し、周囲に視線を向けた。
狩猟場ではハンティングも無事に終わり、片付けを始めている。彼も帰り支度を始めた参加者のお供や、見物をしていた貴婦人達の相手など忙しく動いていた。
ハウスと狩猟場を何往復もして、前を通り過ぎる侍女を見掛ける度に顔を上げるが、彼女ではなかった。
片付けは全て終わり、彼ら使用人も皆引き揚げて来た。
だが彼女の姿は遂に一度も見なかった。
アリエルはもう既に戻っているのか?
それとも、バイロン子爵以外の誰かに誘われたのだろうか? 彼は嫌な予感がして堪らなかった。
ジュールはランドリールームへと向かうリンダの姿を見付けて、声を掛ける。
彼女は公爵夫人の着替えたドレスを両手で抱え、廊下を歩いていた。小柄な彼女が抱えていると、ドレスが歩いているようにも見えなくない。
彼は彼女の行く手を塞ぐようして聞いた。
「リンダさん、邪魔してすまないが、アリエルさんは戻って来たかな?」
「あっ、ジュールさん」
リンダは彼を見ると、キラキラした目を向けてくる。
「あの、アリエルさんだけど、戻っているよね?」
アリエルの名前を聞いてその瞳が曇った。
「それが、まだなんですよ。わたし一人で、てんてこ舞いなんです」
ジュールは念のため彼女に確かめる。
「その、まだ、奥様にも顔を見せてないのかな?」
「はい、奥様も機嫌が悪くなられて……わたし、恐いんです」
リンダは不安そうに呟いた。
やはり、アリエルはまだ、狩猟場のどこかにいるのかもしれない。何故かは分からないが、事情があり戻って来れない場所にいるのだろう。
「分かった、ありがとう。捜してみるよ」
半泣きのリンダの背中を優しく撫でると、彼女はホッとしたようにジュールを見た。
「ジュールさん、お願いします」
リンダはドレスを抱えたまま、ペコリと頭を下げた。
リンダと別れた後、ジュールの足はある場所へと向かっていた。
アリエルが彼と別れた後に行ったのは、バイロン子爵夫人の元だ。彼女はきっと、何かを知ってる筈だった。
途中でトムの姿を見掛けると、彼に近寄って行く。
「ジュール、何してんだ? 旦那様がお呼びだぞ」
怪訝な顔のトムに手を合わせると、苦笑を浮かべた。
「すまない、トム。先程バイロン子爵と奥方に地酒を所望されたんだ。あちらの侍従では分からないだろうから、探して来る。旦那様のことはお願いしてもいいかな?」
「バイロン子爵と言うと、オズボーン公爵家の?」
「ああ、そうだ」
トムは考えるように目を閉じると、溜め息を吐いた。
「仕方ないな。お客様のお召しだ。旦那様には旨く話しておくよ」
「迷惑を掛けるな。本当にすまない、恩に着る」
ジュールは頭を深く下げてトムに詫びた。
トムは彼の態度に目を丸くして驚くと、歯を見せて笑う。
「何だ? 可笑しな奴だな。お前も厄介な仕事をするんだろう」
ジュールは翳りのある笑顔を見せた。
「ああ……」
だが、自分が探すのは酒ではない。トムが好きなアリエルなのだ……。
トムと別れると再びジュールは急ぎ出す。彼は客人の為の寝室がある階上へと足を向けた。
アリエルは、頭に鈍い痛みを感じて目を覚ました。彼女の目に風に揺れている雑草が映る。
(わたし、どうしていたのかしら?)
アリエルは体を起こそうと、腕に力を入れた。
「痛っ!」
激痛が走り再び俯せになる。途端に今まで気にならなかった痛みが、全身から一斉に主張してきた。
いったい、いつから気を失っていたのか?
辺りは薄暗くなりかけていた。夜が近いのは間違いないだろうと思える。
不自由な体で彼女は周囲を見回した。
目の前には丘陵が続いていて、後ろを振り向くと、二メートルくらいの高さの断崖があった。
あそこから落ちたのだろう。
落ちる時は崖のように感じたが、下から見ると角度はそれほど急ではない。登ろうと思えば出来そうだった。
アリエルは痛みを我慢して立ち上がる。
幸い捻挫などはしてないようだ。裾の長い侍女のお仕着せが、足を固い岩肌から守ってくれたのだろうか? 何にしても良かった、これなら歩くことは出来そうだ。
断崖に生えている草や木の枝を持ち、力を込めて体を支えると足を踏み出した。一歩一歩、支えになる木や草を探し登って行く。
だが中程まで登った時、伸ばした手が草を引っ張れずに空を舞った。思わず声が出る。
「ああっ!」
握り締めていたもう片方の手も枝から完全に離れ、アリエルの体は再び下まで落ちてしまった。
背中を強く打ちつけ暫く動けなかった。服も破れたようで、彼女は汚れた我が身を虚しく見る。
「誰か? 誰かいない?ジュール……」
知らず知らず声が出た。情けない程、小さな声だった。
このままここで夜を過ごすのだろうか? そんなの、恐くてどうにかなりそうだ。
アリエルは大声を出した。叫んでいなければ、気が狂いそうになる。
「ジュール! ジュール、いないの? ジュールの馬鹿! わたしが戻ってないことにも気付かないなんて、とんだ間抜けね!」
返ってくる返事はない。彼女は溢れる涙を拭った。
「何よ、あなたなんか! 後悔するといいわ。わたしはここで儚くなってしまうけど、わたしのように完璧な友人は二度と現れないんだからあ!」
大声で叫んだアリエルは肩で息をする。
ジュールに対する憎まれ口を言うと、少しだけ胸がスッとした。
「馬鹿、馬鹿、本当に大馬鹿者! もう二度と会えないんだからっ、……それでもいいの……?」
最後は酷く頼りない声になった。強がりを言って誤魔化していたが、心の中は心細くて仕方なかったのだ。
「うっ……」
もう駄目だ、泣き声しか出ない。アリエルは顔を両手で覆って泣き出した。
「もう二度と会えないのは御免だから、助けたいんだけど許してくれる?」
その時、彼女の耳に慣れ親しんだ声が聞こえてきた。
誰かが、彼女が落ちた断崖を滑り降りてくる音がする。
暖かい手が解れた髪の毛を撫でて、掠れた声が安堵したように囁く。
「可哀想に、恐かっただろう?」
アリエルは茫然としたまま、両手を顔から離して目の前に立つ人物を見た。
ジュールが顔を歪ませて、痛ましそうな視線で彼女を見つめていた。
「……ジュール?」
「ああ、大丈夫かい?痛いところはないのか?」
「……どうして?」
「捜しに来たんだ。君が戻って来ないから」
「……どうして、ここが?」
ジュールは悪戯っぽく片目を瞑って笑った。
「ああ、そのことなら、君の僕を罵倒する声が聞こえてきたからね。分かったんだよ」
彼は彼女をそっと抱き締めると、絞り出すような声を出す。
「ありがとう、お陰でまた会えた」
アリエルの目からは、止まっていた涙がまた出てきた。ジュールの顔を見て、一気に気が緩んだようだった。
彼は労るように微笑んで、彼女の背中をトントンと軽く叩く。それは小さい子供に母親がするみたいな、優しい仕草だった。
彼女の涙が治まると、彼は元気よく声を出した。
「さっ、帰ろう。リンダが一人で困ってるよ」
アリエルはジュールを不安気に見上げる。彼女の顔は涙と鼻水と汗とでぐちゃぐちゃだ。
「どうやって?」
彼はクスリと笑うと断崖の上に声を掛けた。
「今から上がりますので手伝ってください」
上から二人の見知らぬ男性が、顔を覗かせて頷く。
アリエルはびっくりして顔を隠すと、焦ったようにジュールに叫んだ。
「だっ、誰?」
ジュールは彼女の片腕を自分の肩に回して握ると、反対の手も腰をしっかりと支えて歩き出した。
「アリエル、僕に掴まって」
「え? あの……」
アリエルは彼との思わぬ密着に動揺して、そわそわと落ち着かなくなる。
「今からそこを登るんだから、さっ早く」
「え、ええ……」
アリエルは遠慮がちに彼の腰に手を置いた。その手をジュールの手が、強く持てとばかりに押さえ付ける。
彼はアリエルの体を抱き抱えるように支えると、器用に断崖を登って行く。
「彼らは、バイロン子爵の侍従だよ。……子爵が人手を、……貸して下さったんだ」
「何故……?」
アリエルの心臓は変だった。さっきから煩い動悸が止まらない。きっと、高い断崖など登っているせいだ。彼女はそう思った。
「……子爵夫人がね、……君のことを、……心配されてね」
ジュールの額に汗が浮いている。アリエルはその汗が頬を滑り落ち、顎を伝って落ちて行くのを見ていた。
「……子爵夫人……が?」
ジュールはいっそう腕に力を込めると、歯を食い縛って最後の力を振り絞る。
「くっ!」
すると、上から四本の手が伸びてきて、二人の体を強い力で引き揚げてくれた。
「……ありがとう、……ございます」
ジュールは子爵の侍従にお礼を言うと、地面にグッタリと手をついてハアハアと荒い息をしている。
アリエルも頭を下げると彼らは笑顔を見せた。
「……大丈夫?」
アリエルはジュールの横顔に囁いた。
彼は汗を掻いた顔を上げるとニヤリと笑った。
「君って、意外と……」
「何よ、重たいって言いたいの?」
アリエルは赤い顔をムッとさせる。
「いや、羽根のように軽くてびっくりした」
「しらじらしい人ね。一生懸命だったくせに」
「バレたか……」
「もう! 本当に、口が減らないんだから!」
アリエルがムッとして頬を膨らますと、ジュールは我慢出来ないとばかりに噴き出した。
「冗談だよ、アリエル」
彼は笑い過ぎて涙を浮かべている。いつしかアリエルもその笑いに引きずられていた。
公爵のカントリーハウスに戻ったアリエルは、体の汚れを手早く落とし髪を整える。それからお仕着せを綺麗な物に着替えると、主である公爵夫人の元へ急いだ。
公爵夫人は眉間に皺を寄せ目頭を押さえると、深い溜め息を吐いた。
「心配しましたよ」
彼女は低い声で一言呟く。
アリエルは恐縮して体を硬くした。
「申し訳ございませんでした。わたしの不注意で館に戻るのが遅くなり、奥様にご迷惑とご心配を」
「ああ、いいのよ、アリエル。わたしは怒っている訳では、ないのよ」
公爵夫人グレースは、アリエルのお詫びの言葉を遮るように声を被せる。
彼女は下げていた頭を上げてグレースを見た。夫人はいつになく優しい瞳で、アリエルを見ている。
「実はね、あなたが戻っていないとわたしが気付いた頃、バイロン子爵夫人がこちらにお見えになって、あなたとのことを話してくださったの」
「えっ?」
アリエルは驚いて声が出た。彼女は夫人の視線にハッと気が付くと、慌てて口元を押さえる。
そう言えば、ジュールも子爵夫人のことを話していたような気がする。
助かった安心感で忘れてしまい、結局うやむやになっていたのだが、何故あの時、彼にちゃんと聞いておかなかったのだろう。
アリエルは今更ながら後悔をしていた。
公爵夫人は彼女の表情を見てクスリと笑うと、驚くべき言葉を口にする。
「子爵夫人が是非あなたに話したいことがあるそうよ。そうね、疲れているだろうけど、今からでも彼女の話を聞いてあげて欲しいの」
グレースはアリエルのサッと青冷めた顔に、ホホホと軽やかに笑い声を上げた。
「急なことなんだけど、ご夫妻は明日にはこちらを発たれることになったのよ。だからあなたには悪いんだけど、今夜の方が時間が取れるみたいなの」
公爵夫人の話を聞きながら、アリエルの顔色はどんどん悪くなっていく。
子爵夫妻が明日には出発する? それはいいのだが、彼女に話とは一体何だろう。
まさか、館内でも嫌がらせをされてしまうのだろうか。
「アリエルったら、そんなに心配しなくても大丈夫よ。あの方にも顔を見せて上げて、安心させておあげなさい」
「……かしこまりました」
にこやかに微笑む公爵夫人を前にして、アリエルは暗い顔をして承知するしかなかった。
「ほら、彼女が驚いているだろう? 君が悪いのだよ。分かったかい?」
バイロン子爵は、妻の目を愛しそうに見つめながら、優しく甘い声色で話し掛ける。
「ええ、反省しているわ、あなた。だから彼女には謝ろうと恥を忍んで来て貰ったのよ」
一方、子爵夫人は、夫の視線に照れながらも嬉しげに頬を染めて、幸せそうに彼に寄り添っていた。
その顔には昼間の冷たさなど、微塵もない。
アリエルは呆然として、目の前で繰り広げられている光景を見ていた。
彼女を待っていたのは子爵夫人だけではなかった。
そこには、昼間アリエルを誘惑していた張本人、夫のバイロン子爵も居たのである。
確かに、この部屋は夫妻の為に用意されたものなので、当然と言えば当然で異存はない。
だけど、彼女にはそのイメージが無かった。だから、いきなり驚いてしまったのだ。
そしてこの二人ときたら、アリエルが部屋に現れてからというもの、ずっと熱々の新婚夫婦のように、彼女の前でベタベタといちゃついているのだった。
しかし、昼の二人から受けた印象は、全く逆のものだった。
夫は妻を省みない浮気者に見えたし、妻はそんな夫の浮気相手に嫉妬して、嫌がらせを繰り返しているという最悪の状態だった筈だ。
それがいったい、どうしたと言うのだろう。
アリエルが彼らの前から消えていた数時間の間に、キューピッドが現れたとでも言うのだろうか?
(だとしたら、わたしの前にも早く出て来て欲しいものだわ)
アリエルがしらけたような表情でいると、バイロン子爵が妻に目で合図を送る。
子爵夫人は夫の目線に覚悟を決めたように頷くと、アリエルを正面から見つめてきた。
「アリエルさん、本当にご免なさい」
アリエルは驚いて目を丸くする。
子爵夫人のように気位の高い女性が、素直に謝るなど信じられない。しかも、相手は自分より身分の低い侍女である。きっと、誰でもびっくりするだろう。
険の取れた夫人の顔は柔らかいあどけなさしか、なかった。
「わたし、あなたに嘘をつきました。あの帽子には最初から羽根飾りなど付いてなかったの。あなたが、こんな目に合ったのはわたしのせい。本当にご免なさい」
彼女はビクビクとして顔を伏せると、アリエルの言葉を待っているようにじっとしている。
アリエルには何もかもが、現実味のない光景だった。
だけど全部、夢ではない。
彼女の前で泣きそうな顔で神妙にしている子爵夫人も、その後ろで妻を心から愛していると言わんばかりに見守る子爵の姿も、全て……現実だ。
「奥様、お顔を上げて下さいませ」
夫人は恐る恐るアリエルの方へ視線を上げた。彼女の瞳はいつの間にか涙で濡れている。
アリエルは苦笑を浮かべた。
「もったいないお言葉です。わたしは無事だったんですもの。どうぞ、お忘れ下さいますよう」
「忘れるなんて……、あなたを傷付けてご免なさい。……わたしを許して下さる?」
子爵夫人はボロボロと涙を溢す。円らな瞳から溢れる真珠のような美しい涙だった。
アリエルは息を飲んだ。
(駄目だ、勝てないわ)
「はい」
彼女はゆっくりと頷く。
「ありがとう、アリエルさん」
夫人はアリエルに抱き着いてきた。
「奥様、いけません! 汚れてしまいますわ」
アリエルは慌てて夫人から逃げようと身動きをする。彼女は館に戻った後、簡単にしか身支度を整えていない。汗や汚れは完全には取れていなかった。
だが、夫人はアリエルから離れようとはしない。彼女はか弱い女性とは思えない力強さで、アリエルをしっかりと抱き締めた。
「いいの、わたし、嬉しいんですもの。とても幸せで」
子爵夫人は泣きながら、にっこりと微笑んだ。邪気のない可愛らしい笑顔だった。
二人は部屋の外までアリエルを見送りに出て来た。
こんなことは異例中の異例なことだ。
アリエルはすっかり恐縮してしまい何度も断ったが、押し切られてしまった。
子爵と夫人は仲良く寄り添いながら立っている。
彼女は当てられっぱなしで目のやり場に困った。
「わたし達は明日から、急遽予定を変えて旅行に行くことになった」
「そうで、ございますか。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
(この方、昼間の方と同一人物よね? 双子のご兄弟とかではないわよね)
「新婚旅行の仕切り直しなんだ。前回は妻と楽しく過ごせなかったからね」
「は……あ」
子爵は夫人に「ねっ?」と笑い掛ける。彼女はコクンと真っ赤になって頷いていた。
明らかにアリエルはお邪魔虫のようだ。もう帰った方がいいだろう。
「では、わたしはこれで。失礼致します」
彼女は頭を下げて立ち去ろうとした。
「あ、君」
子爵に呼び止められてアリエルは振り返る。
彼は青い瞳を煌めかせて聞いてきた。
「君は、あいつをどう思っているの?」
「……あいつ?」
「ああ、ジュールの奴だ」
子爵はウインクをしてニヤリとする。
「え?」
ジュール?
アリエルが虚をつかれたように茫然としていると、夫人が子爵を引っ張った。
「あなた、あまり立ち入ったことをお聞きになっては……」
子爵は少し拗ねたような顔をする。
「だが、ジュールは友人だ。少しぐらい構わないじゃないか。それに、君も見ただろう? あいつが彼女を捜す為に、ここを尋ねてきた時の顔を。尋常ではないくらい慌てていたよ。常に顔色を変えないジュールらしくない……」
「あなた!」
子爵はやれやれと首をすくめると、諦めたようにアリエルに告げた。
「引き止めてすまなかったね。わたし達は部屋に戻るよ」
アリエルはハッと我に返りお辞儀をする。
「はい。失礼致します」
彼女の耳に扉が閉まる音が入ってきた。
だが、アリエルはなかなか頭を上げることが出来ないでいた。
子爵はジュールを友人と言った。
思い出せば、湖で初めて子爵と会った時、彼はジュールの顔を見て不思議な表情をしていた。
それは、意外な場所で友人に会ったからだったと言うのか?
でも、どういうことなのだろう。
バイロン子爵はいずれ公爵を継がれる、とても身分の高い方だ。
方やジュールは、商人の次男で今は貴族の使用人でしかない。
二人の身分には天と地ほどの差がある。普通だったら友人になどなれる筈はないのに。
「ジュール、あなたは……」
何を隠しているのーー?
アリエルの呟きは、声にならないくらい小さなものだった。