5,シンデレラのついた嘘
アリエルがジュールにも、勿論他の誰にだって話してない秘密。それは……。
「バイロン子爵は以前からフェミニストで有名だったが、それだけじゃない。あの方は色んな女性と浮き名を流しておられるプレイボーイだ。どうもご結婚されてからも続いておられる様だね。もしかして君とはいい勝負だったかな?」
ジュールは眩しそうに目を細めて笑った。アリエルは黙り込む。
「……早く戻った方がいい。子爵夫人がお待ちかねだよ」
彼はそう言うと、彼女の水差しを強引に奪い取った。それから湖に近付き水を汲む。そしてそれを彼女の前へ差し出し、無理やり握らせた。
「今は子爵が奥様のお側にいらっしゃるのでしょう? お邪魔だわ」
「とにかく、早く戻って。遊びの時間は終わりだ」
ジュールは力ずくでアリエルの背中を押した。
彼女は湖の側の林に追いやられる。アリエルは唇から舌を出すと、彼に向かって突き出した。男爵令嬢のする振る舞いではない。
彼は屈託ない笑顔でそれを受け止めると、手を振って帰れと合図を送ってきた。
アリエルは、林の中を狩りが行われている狩猟場へ向かって歩き出した。
ジュールは用事があるのか湖に残ったようで、こちらに来る気配はない。
彼女は彼の姿が見えなくなると、手近な木に凭れて息を吐いた。
胸がドキドキしていた。彼が口にした言葉にまだ動揺している。少し、落ち着いて戻ろう。彼女は胸を押さえると目を閉じた。
アリエルは彼に限らず、ハウスで働く使用人や訪れる訪問客、もしかすると雇い主である公爵夫妻にも、経験豊富で奔放な侍女と思われている。
しかもその事を否定もせず、寧ろ自分からそのように振る舞ってさえいるのだ。
だが、最初からそうだった訳ではない。
彼女が公爵に採用され勤め始めたのは、まだ十四才の少女の頃だ。そんな小娘を誰がそんな目で見るだろう。当時は勿論いなかった。
しかし、彼女はその頃から美しく魅力的な少女で、とても目立っていた。
同じ使用人仲間の中には、早くからそれとなく誘ってくる男も多かった。彼らの目には彼女は初な箱入り娘。直ぐにモノに出来ると思えたのだろう。
だが、アリエルには玉の輿に乗るという壮大な夢がある。
しかも、自分自身も落ちぶれてはいるが男爵令嬢だ。ただの使用人など相手に出来るはずがない。
彼女は煩い虫を追い払うが如く振りまくり、自分の夢を口にして彼らを拒絶したのだ。
いつしかアリエルに話し掛ける男はいなくなった。彼女と会話をする男は、最初から友情以外の素振りを見せたことがないジュール一人になっていた。
公爵の男性使用人は皆、遠巻きに彼女を見るだけで満足するしかなかったのだ。
そして、やっと落ち着いて、自分の夢を目指すことが出来る環境になった。
そんな、どちらかと言えば積極的に動く美しい彼女が、ハウスを訪れる公爵の客人達の目に留まらないわけがない。
彼女は、彼らの間でたちまち噂の的になった。
公爵の客は賭けをするようになる。誰があの侍女を最初に落とすのか、と。
それからアリエルは、沢山の身分の高い男性に誘われるようになった。
彼女は充分に吟味をする必要があった。ほとんどの男性は、彼女を只の遊び相手としてしか見ていない。それを見極めなくては、自分が泣く羽目になるのは間違いないのだから。
彼女は上手に相手の誘いをかわしながら待った。
そして、とうとう理想の相手を見付ける。彼女が公爵の許で働き始めてから、数ヵ月が経っていた。
その相手は侯爵家の長男で、年齢はアリエルより三つ位上の、如何にも良家の子息という感じの青年だった。
彼はまだ学生だったが、学校の休暇中に両親に連れられて、公爵のカントリーハウスを訪れていた。
アリエルは一目見た時から男性に心惹かれる。
彼は自分の身分を鼻にかけるような素振りは見せず、彼女達使用人にも人当たりがいい。それにとても凛々しい外見をしていた。父親は侯爵で、次は彼が引き継ぐ。そんな有料物件にも関わらず浮わついた所もなかった。
彼も彼女に目を奪われていたようだった。何かと彼女に目線を送ってくる。
そして、彼女が客人の一人に用事を頼まれ部屋を出ると、後から追い掛けて来た。
「ねえ、君」
耳に心地よい爽やかな声が聞こえる。
「はい」
アリエルは胸をときめかせて振り返った。
彼は彼女を、廊下の暗がりの人目につかない場所に引っ張って行く。アリエルは期待で胸がいっぱいになった。
「君には決まった相手はいるの? 怒ると怖い恋人とか……」
「……いえ。そんな人はおりません」
アリエルは頬を染めて恥ずかしげに俯いた。彼女は彼から自分がどう見えるか計算して表情を作る。そんなテクニックは、公爵家で大勢の貴族を相手にして培われたものだ。
青年は目を輝かせる。彼女の返事に喜んでいるようだった。だが、彼は更に慎重に聞いてきた。
「では、心に思う人は?」
「そんな相手もおりませんわ」
アリエルは、心臓が痛い位緊張をしていた。侯爵子息は彼女を気に入っているとしか思えない。彼女の夢は、こんなにも早く叶うのだ。
「そうか。それは良かった」
彼はホッとしたように頷くと、アリエルの手を取って熱い視線を送ってきた。
「今夜、僕の部屋に来てくれないか? 仕事が終わってからでいい。どんなに遅くなっても構わないから。君をずっと待っている」
彼女は、ぼうっとして頷いた。あまりにもスムーズな展開に、夢の中の出来事のような気さえしていたのである。
アリエルが青年の部屋を訪ねたのは、夜分遅い時間になってしまっていた。
彼は約束した通り、彼女を起きて待っていた。彼の部屋には本人しか居らず、彼付きの近侍の姿はなかった。
「内緒の話があるからね、もう下がらせたんだ」
落ち着きなくキョロキョロと部屋を見てしまう彼女に、照れたように告げる。
「随分遅くなり申し訳ございませんでした」
アリエルは恥ずかしくなり下を向いた。仕事以外で、夜に部屋で男性と二人きりになったことはない。この時が初めてだったのだ。
彼女は頭の中で軽くパニックを起こしていた。なにしろ初体験だ。何をどうして、どうすればいいのか全く分からない。
(初めての時には、男の人に全て任せたらいいのよ。そうしたら万事上手くいくから)
彼女は先輩侍女が言っていた言葉を思い出す。彼のリードに任せよう。緊張を解すように微笑んでみた。
「君の名前は?」
青年は優しく聞いてきた。
「アリエルと申します」 アリエルは微笑んで彼を見る。落ち着きが大分戻ってきていた。
「アリエルか。いい名前だね」
彼はそう言った後、躊躇うように口を閉ざした。そして彼女を見つめたまま、苦しむような表情を浮かべる。
「……あの、いかがされましたか?」
アリエルは少し焦れてきた。何故、何もしないのだろう。
侯爵子息は意を決したように、口にした。
「君に頼むのは心苦しいんだが、朝、いや、夜明け近くまででいいんだ。僕とこの部屋にいて欲しい」
それから、眉をフッと下げて人懐こく笑って言った。
「頼むよ。何もしないから」
アリエルは驚いて目を丸くする。今この男性は、何と言ったのかしら。
「あの、わたしは何を?」
「何もしなくていい」
「えっと、では、戻っても?」
「……それは、困る。ここに居てくれないと」
「……いつまで、居ればよろしいのでしょうか?」
「出来れば朝まで、それが無理でも母の侍女が様子を見に来るまでは」
彼女は混乱してきた。彼の望みがまるで分からない。
「……侯爵夫人の侍女の方が、ですか?」
「ああ、ほぼ毎朝見に来る。母に命じられて僕を見張っているんだ。まだ薄暗いうちに来るから、僕が気付いていないと思っているのさ」
青年は顔を歪めて言った。アリエルにはさっぱり理解出来なかった。
「あの、つまり、わたしは朝まで、出来れば侍女の方が来られるまで、この部屋に居れば宜しいのですね?」
「そう、僕と二人で」
青年は深く頷いて捕捉する。彼女はその態度に少し苛ついた。
「……その間、わたし達は何もしない、のですね?」
「ああ、約束する。喩え同じベッドで休もうとも、君には指一本触れない」
彼はいやに自身満々で答えた。
アリエルは苛立ちが最高潮に達したが、表情には出さずに堪えた。
それよりも彼の話の要点をまとめると、頭が大分スッキリしてくるのが分かる。そして一番聞きたいことがはっきりと分かった。
「何の為にでしょう?」
彼女は大声で叫んでいた。
青年は苦い顔をして長い間黙っていたが、アリエルが部屋を出て行こうとすると慌てて話を始めた。
「僕は来年には学校を卒業する。卒業したら両親は、と言うより母は、僕と何処かの有力な貴族のご令嬢と婚約させたいのさ」
「は……あ」
彼はアリエルを結婚相手にしようとは、露程も思っていないらしい。彼女は数分前の、期待に振るえていた自分を呪いたくなった。
「お母上様のお気持ちは分かりますわ。何がお嫌なのでしょうか?」
自分が馬鹿みたいで話を聞くのも馬鹿馬鹿しい。つい、言葉使いも嫌味たらしくなった。
青年は悲しそうな顔をして彼女を見る。その表情は思わず同情を引いてしまう程、とても切なげだ。
「婚約など出来る訳がない。僕には愛する人がいるのだから」
そう言うと彼は、はらはらと涙を流す。男の涙を見るのは父親に続いて二人目だ。アリエルは驚いて息を飲んだ。
(この手の男性にわたしは縁があるのかしら? 泣かれると、どうしたらいいのか。困ったわ)
彼女は溜め息を吐いた。
「ええと、つまり、あなた様は」
「……僕の名前はジャックだ」
鼻水をすすりながらも、目の前の青年は言った。アリエルは額に青筋を立てそうになり、急いで深呼吸をする。
「つまり、ジャック様はとある伯爵家の未亡人という恋人がいらっしゃるのですね。その方は性悪……失礼、とても恋多き女性でジャック様以外にもお付き合いされてる方が複数いらっしゃる。と、ここまで宜しいですか?」
ジャックはハンカチで目元を拭くと頷いた。
こんなに外見と違って女々しい男だったとは。アリエルは貴族の男性というものに、ほんの少し落胆する。
「あの方はとても美しくお優しい、素晴らしい女性なんだ。僕より少し年が上の未亡人で、恋多き女性な為に両親は許してくれないが、あの方以外僕は考えられないんだよ」
「それで、お母上様はジャック様とその女性を引き離そうと、こちらへの旅行に無理矢理連れて来られたのですね」
「ああ、この夏は彼女が外国へ旅行すると聞いていたから、僕もそちらへ行く予定にしていたんだ」
「その方とお約束を?」
「……いや、約束はしてないが、向こうで落ち合えたらいいなと」
ジャックは顔を赤らめる。初恋にのぼせた少年のような表情だ。
アリエルは彼の母親に同情した。どう考えても、彼より母親の考えに共感出来た。
ジャックは年上の百戦錬磨の女性に、翻弄されている子供だ。その女性に係れば、彼など赤子のようなものだろう。
親なら質の悪い女に引っ掛かった息子を、心配するのは当たり前である。結婚したいなどと思い詰めて言われでもしたら、大変なことになる。
そこまで考えて、ハッとした。
正に、彼女はそれを狙っていたのではないか? 彼女も相手の家族にしたら、息子をたらし込む質の悪い女に違いない。
アリエルはコホンと咳払いをした。彼女は悪女になりたい訳ではない。
普通だったら絶対結ばれない相手を、少々強引かも知れないが結婚の為に誘惑させて貰ってるだけだ。無事に結婚した暁には、誰よりも貞淑な良妻になってみせるのだから。
「それで、お母上様の侍女の方にわたしと一緒にいる所を見せて、あちらを油断させたい、と言うことですわね?」
ジャックは拗ねたように呟く。
「……油断と、言うか。安心させたいんだよ。僕が彼女以外にも目を向けたと思えば、婚約もそんなに急がないだろうし」
油断で合ってるではないか! アリエルはそう思ったが指摘するのは止めた。
「それにしても、アリエルは最初に感じた印象と違うね」
ジャックはハンカチを握りしめてボソリと言う。彼女を見る目はジトリとしていた。
「謎めいた女を目指していますもの」
アリエルは澄まして答えた。既にジャックに対する態度は、幾分失礼なものになっている。だがもうそんな事、どうでもよくなっていた。
「……君の名誉を傷付けてしまったら申し訳ない。何かあった時は必ずお詫びをするから」
ジャックのベッドに共に入ったアリエルに、彼はすまなそうに小さく囁いた。
「わたしは只の侍女です。名誉など気になされませんように」
アリエルは毅然として返事をしたが、心の中では不安で泣きそうだった。
彼と朝を迎えたら、誰もが彼女を誤解するだろう。彼とは何もなかったと言っても、誰も信じてはくれないだろう。
こっそりベッドの隅で涙を流す彼女を、隣に横たわるジャックが悲しげに見ていた。
翌日早朝に、二人は一緒に寝ているところを、侯爵夫人の侍女に発見される。
醜聞を恐れた侯爵夫妻は、大騒ぎをすることはなく静かにハウスを発った。
騒ぎにならなかった為に、アリエルの名誉も表面的には守られた。
だが、人の口に戸は立てられず、だ。
彼女の姿を偶然見てしまった使用人から、少しずつ噂は広がり、そしてそれは公爵の客人の従者にも伝わっていく。そして、そこからその主人である貴族の耳にも、当然入っていくのだ。
アリエルが気付いた時には、すっかり噂が広まっていた。噂には尾ひれも付いてくる。彼女の手にはもう負えなかった。
ある日、噂を聞いたジュールが心配して彼女の前に現れた。
彼の瞳は暗く曇っており、彼女の身に起きた不幸を悲しんでいるようだった。
「アリエル、あの、何て言ったらいいのか……」
彼はそう言うと、黙り込んだ。彼女に掛ける言葉が思い付かないらしい。
ジュールは、玉の輿を夢見たアリエルが貴族の若者に結婚を餌に騙されて、一晩の慰み者にされた挙げ句に大事な純潔を奪われた、とでも思ってるらしかった。
彼女は恥ずかしさで体が震える。彼にかわいそうな娘だと思われるのが耐えられなかった。だから胸を張って答えた。
「あなたね、誤解しているようだから言っておくけど、ジャック様を振ったのはわたしよ」
「え?」
ジュールは驚いて彼女を見る。彼のグリーンの瞳は、彼女の言葉を理解出来ずに揺れていた。
「あの方とは……合わなかったんだもの。あなたならこの意味、分かるでしょう?」
「え、と、アリエル?」
ジュールは彼女の言葉にびっくりして、シドロモドロになっている。
「結婚してもあんな退屈なのは御免だわ。体の相性も大切よね」
アリエルは大人の女のように彼に流し目を送った。それは充分色気を感じさせる仕草だった。
「そ、そ、そうなんだ」
ジュールはすっかり騙されていた。彼は彼女の言うことを信じて、それ以降自分の赤裸々な話をしてくるようになる。彼女が毎回その手の話にドギマギして、必死で誤魔化していることなど微塵も気付かない。
その後、アリエルにも初体験のチャンスは何回か巡って来た。
だが、中々思う相手には巡り合えない。彼女は一時の恋人を欲しているのではなく、一生を添い遂げる玉の輿の相手を探していたのだから。
しかし、積極的な彼女は、他人には奔放な恋多き女に見える。思わせ振りに相手の心をくすぐるくせに、無理だと思えば最後はスルリと逃げてしまう。
彼女に後一歩で逃げられた男は、それを恥と思い嘘をつく。そう、彼女と楽しんだと。
かくして、彼女は未だ未経験ながら、経験豊富な女ということになってしまったのである。
最初は世間から、もう処女ではないと見られてしまうのが辛かったアリエルだが、これを逆手に取ることを考えた。
本当は彼女が未経験だと知れば、相手の男は感激するのではないか?
初めに悪い印象を与えたものが、後で良いものだと知った時、それがとても有り難く得難いものに感じるように。
だから、彼女は誤解をされても平気だ。
少しだけ悲しくて、演技をするのが骨だけど。
ジュールは、アリエルの去った後をじっと見つめていた。
彼女の気配が完全に消えると、安心したように息を吐く。
その時、アリエルが立ち去った林とは違う木陰から人影が出て来た。長身の貴公子、バイロン子爵だった。
バイロン子爵は、一人で湖に居たジュールに驚いて立ち止まる。
「君は……?」
ジュールには分かっていた。子爵は、近くにいる奥方や使用人達に見付からないように、こっそりと遠回りして湖に戻って来ることが。
だから、アリエルと途中で会うことはないだろう。彼女は近道である、行きと同じ道を戻って行ったのだから。
彼は微笑んで子爵を見ると、軽く会釈をした。
「お久しぶりです。マキシム様」
子爵は目を見張り、それからフッと表情を和らげる。彼は親しい者に向けるような、気安い笑顔を浮かべた。
「やはり、君だったのか、ジュール」
子爵とジュールはお互いの肩を抱いて笑い合った。
その姿はとても親密なものだった。