49,正体
あけて翌日。
アリエルは朝靄の中をバラ園へと急いでいた。朝になって突然リンダから、今日は仕事の分担を代えてほしいと頼まれたからだ。
先日二人の間で変えたばかりの仕事を、今日に限り、以前のものに戻してほしいと彼女は言ってきたのだった。
それはつい先ほどのことである。
眠れない夜を過ごしたアリエルに、リンダは酷く申し訳なさそうに肩を縮こまらせて、青い顔で頭を下げてきた。その姿は気の毒なくらいビクビクと怯えていて、アリエルはそんな彼女の様子を不憫に思うほどであった。
「本当にすみません。昨夜遅くまで食堂で騒いでしまっていて……、今朝はもう割れそうなほど頭が痛くて、わたし……」
リンダは頭を抱え込んで苦しげに言葉を漏らす。アリエルと目を合わせようともしないのは、後ろめたい気持ちのあらわれかもしれない。
頭痛がするとは二日酔いでもしたのであろう。翌日のことを忘れて飲むなど、のんきにもほどがある。だが、アリエルは自分も痛む額を押し隠し、リンダの訴えに頷いてやった。
「仕方ないわね、分かったわ」
昨夜は皆、浮かれていた。何もリンダばかりが浮ついて羽目を外してしまった訳ではない。
「いいこと、朝の清掃を済ませるまでに、顔でも洗ってしゃんとしておくのよ。分かったわね?」
少々きつめに当たるアリエルのつっけんどんな口調に、リンダは恐縮したようにおどおどと目元を上げてくる。
「本当に、ごめんなさい。アリエルさん」
「い、いいわよ、もう」
謝罪の言葉を吐き続けるリンダから踵を返し、アリエルは館をさっさと後にした。この一見鈍感な年下の少女には、何故か何もかも見透かされてしまいそうな気がして、怖くて仕方がなかったからだ。
昨夜はよく眠れなかった。
いや、ここ数日まともに眠れた夜などあったろうか。考えてみれば一日だってない。
どんなに疲れていても、どんなに疲労を感じていても、寝床の中に入るとアリエルの思考は、深い悩みで埋め尽くされてしまい、結果眠ることから遠ざかってしまうのが常だった。
だから厳密に言えば、今睡眠不足気味なのも、毎夜のことを昨夜もなぞらえただけに過ぎないのかもしれない。
だが、同じことであると言うのに、昨夜アリエルの身に起こってしまったことは、今までとは決定的に『重み』という点で違ってしまっていた。
そう、違ってしまっていたのだ。
昨夜、アリエルはジュールと決別することを決めた。自分の決心を鈍らせないために、彼にさよならまで告げてしまった。
そんなことをしなくても、いずれ彼とは別離がやってきていた。だが、敢えて口にしたのだ。何故ならーー。
「あんなことを言うから……、わたしを大事に思ってるなんて心にもないことを言うから……」
昨夜ジュールは、アリエルを何よりも大事であると伝えてきた。が、そんなことを彼が言ったところで、所詮友人としてはということでしかない。アリエルの欲しいものとはまるで違う。
似ているようで、まるで違う互いへの想い。それを思い知らされて余計に傷ついてしまうとは。
「馬鹿ね、わたし。もう考えるのはやめようって朝までに何度決心したの?」
そうだ。何度も何度も、ジュールを振り切った自分を後悔する度に厳しく戒めてきた。夜の間中、せめぎ合う気持ちと闘ってきたのだ。
そして夜が明けた時、やはり自分の選択に間違いはなかったとようやく思えたのである。これからは、新しい自分に生まれ変わらなくてはならないだろう。
アリエルは足を止めて、靄の中、おぼろげに届く朝日に向かって微笑んだ。バラ園はもう目の前に迫っていた。
「そう、終わったのよ」
彼女は胸を張って凛と響く声を出した。
「何が? 僕の中では何一つ終わっていない」
しかし、自分の声に誰かが横柄にも言葉を被せてくる。
「だ、誰?」
アリエルは驚いて辺りを見回した。すぐそばの生け垣が、ガサリと揺れて人影が現れる。
「誰だって? 言うよね、僕だって分かっているくせに」
アリエルを見下ろすように立つ男。朝日を背に受け立つ背の高い男。
クシャクシャに乱れたブロンドの髪と、くたびれたヨレヨレの服装。顔には幾つもの傷と大きな痣があり、いつものさっぱりとした印象はどこにもないが、目の前にいるのは間違いなくジュールだった。
「あ、あなた……、何故ここへ?」
突然現れた男に、アリエルの思考はうまくまとまらない。彼女は呆然としている間に、素早く近寄って来たジュールによって逃げ道を塞がれてしまっていた。
気づいた時には、狭い道の中ほどで身動きが取れなくなっている。これはどういう意味なのか。
ジュールは眩しげに目を細めると、口元を緩めて彼女へ話しかけてきた。
「何故って、君を張り込んでいたんだ。今度は逃げられたくなかったからね」
冴えない顔をしているくせに、どうしたことか彼のグリーンの瞳は輝いているように見える。その魅惑的な瞳でアリエルを翻弄するように、ジュールは顔を近づけてきたのだ。
「やめて、それ以上近づかないで」
図々しいジュールに対し、アリエルは自分でも驚くほど弱々しい声で応戦するしかなかった。昨夜のトムの時とは違い、男の行為を恐れている訳ではない。激しく踊り狂う心臓が、彼との接近に耐えられそうもなかったからだ。
その上、すぐ側にいる青年の態度に頭が酷く混乱していた。
何故ならジュールの表情や口調は、まるで以前の二人に戻ったみたいで随分気安いものになっている。それが根本的におかしい。だって自分は昨夜きっぱりと、縁を切ってやったのだから。
震えるアリエルを笑顔で見つめていたジュールは、一拍間を開けて彼女から上体を逸らし遠ざかった。だが、彼女を閉じ込めんばかりに、いまだ足元は密着したままである。どうやら自由にしてくれる気は、さらさらなさそうだった。
「ごめん、悪かった……」
男は渋々といった体で詫びてくる。アリエルはカッとなって叫んだ。
「は、張り込んでいたなんて……、リンダとグルになってわたしを騙したわね!」
「騙したって、そんな言い方しなくても……。確かにリンダさんには、君をバラ園に送り込んでくれるよう頼んだけど」
「やっぱり! 随分汚いことをしてくれるじゃないの。あの子を巻き込むなんて、酷いわよ」
「仕方ないだろう。こうでもしなきゃ君は僕の話を聞いてくれやしないんだから」
ジュールは少しも悪びれていない。悪いのは聞く耳を持たないアリエルの方だとでも言いたげだ。
「当たり前でしょう? あなたとはお別れの挨拶も既に済ませたわ。わたしにはあなたと話すことなんて、もう何一つだってないんだもの!」
アリエルは無理やり身を捩らせて、ジュールの足を踏みつけてやった。
「うっ……」
呻く男が足をかばって身をかがめた瞬間、彼が作っていた見えない檻の中から体を踊らせる。相手から素早く距離を取って男を見下ろす彼女に、ジュールは焦ったように唇を噛みしめ目線を合わせてきた。
言いようのない激しい怒りがアリエルを襲っていた。ここ数日アリエルに向けてきたつれない態度を、この男は忘れたとでも言う気なのだろうか。
「ねえ、いったいこれは何のまねなの? いい加減にしてよ、意味が分からないわ。いいこと、ようく胸に留めておいて。これ以上わたしにかかわらないでちょうだい、分かったわね?」
(でないとわたし、あなたを失う恐怖に打ち勝てなくなるじゃない)
「かかわるさ、僕の方では君に話すべき事柄が沢山あるんだ。ーーそれに、君は僕を拒否するなんて出来ない筈だからね」
ジュールが体を起こし立ち上がった。
「はっ?」
目を丸くして戸惑うアリエルを、又してもふざけたような笑顔で彼は見返してくる。
「知ってるんだよ、君は僕を好きだってことを」
「な、ななな、何を言って……」
「僕を好きな君は、表面上は拒否していても、結局は受け入れるしかない。本当の意味で僕を避けることは出来ないんだよ」
青年はニヤニヤと頬を崩し、余裕さえ覗かせながら近づいてきた。憎たらしいほどに傲慢な足取りだ。
「や、やめ……、こ、こな……いで」
アリエルは気が動転してしまい、この場から逃げ出すのが遅れてしまった。近づいてくる男を強く拒絶してやりたくても、どうにも体が自由にならない。ジュールの言うとおり、不甲斐ないことにはっきりと彼をはねつけることが出来ないのである。
アリエルはオロオロと男の妄言を聞いてる内に、気がつけば再びジュールの枷に捕らわれてしまっていた。
「ーー捕まえた」
ブリムで纏めた彼女の髪の毛に、熱い吐息が降りかかる。
「い、嫌……、離して……」
「嫌だね。もう、二度と離さない」
熱い吐息は髪を降りていき、項をかすめ肩にたどり着いた。
「アリエル、僕は決めたんだ。もう二度と君を離すような馬鹿なことはしないって」
「あ……、な、な……にを」
アリエルの体は、尋常ではないくらい震え始めている。肩も足も、寒くもないのに震えが止まらなかった。喉はカラカラに渇いており、声を出すのにも一苦労した。
それなのに、ジュールは彼女の動揺など素知らぬ顔で、力強く背中を抱き締めてくるのだ。我が物顔でアリエルを抱き寄せながら、熱い唇を耳や頬に遠慮もなく押し当ててくる。
アリエルは酷い目眩に襲われて、まともな思考も覚束なかった。このままでは男の思うつぼで、彼女の自尊心は粉々にされていた。
そんなこと、許されるのか。彼を受け入れるなんて有り得やしない。そうだろう?
甘い言葉を惜しげもなく吐きつつも、その実肝心なことは何も言わないこの男を。彼女についた多くの嘘を、今のでうやむやにしてしまうつもりのこの男を。
許せるものか、冗談じゃない!
「離して!」
大声を出したアリエルに驚いて、ジュールはビクリと体を固くして腕を緩めた。そのまま目を見開いて顔を覗き込んでくる。
「アリエル?」
怒りに震えるアリエルにジュールは本気で驚いているようだった。そのどこまでも自分勝手な考えに彼女の怒りは倍増する。
「何よ、あなた、どこまでおめでたいの? 散々わたしをからかってきたくせに、この上まだわたしを馬鹿にして遊ぶつもり」
興奮のあまり涙がこみ上げてくる。大事にしたい相手に平気で嘘をつける男を自分は愛してしまったのだ。酷く虚しくてやるせない。
「アリエル……」
「あなたはいったい誰なのよ……。いったい何者なの? 何のつもりでこんなふうに、わたしを振り回すのよ……」
「僕は……」
「何も真実を教えてくれない人など、信じられる訳ないじゃない。あなたの言うことなんか信じられる訳ないじゃない!」
大きく息をつくアリエルの上を、重苦しい空気が流れていった。
これでジュールはアリエルのような面倒くさい女など、嫌になって諦めることだろう。とんだ三文芝居を見せつけられたが、最後は呆気ない幕切れだった。
アリエル、とジュールの声が小さく届く。
「君はアーバンズ・カンパニーって知ってる?」
低い押し殺したような声だった。最初の頃のように浮ついた響きではない。
「アーバンズ・カンパニー?」
聞いたことはある。この国が唯一勅許を与えた貿易会社で、世界を股に掛けて遠い異国とも取引をしている大海運会社だ。
しかし、元はただの材木問屋でしかなく、今のように世界的企業にしたのは創業者である男が一代で築いたものだと聞いていた。それゆえか、大きな会社だと言うのに創業者一族の人間で経営は占められており、典型的な同族支配のファミリー企業だと言われている。
国王陛下の覚えもめでたい企業の名前ぐらい、世事に疎いアリエルとて聞いたことはあった。
だが、今、何故その名が関係あるのだろうか。
「アーバンズ・カンパニーを創業したのは、チェスター・アーバン、僕の祖父だ」
ジュールの声は相変わらず落ち着いていた。
「えっ?」
チェスター・アーバンの名は最近聞いたばかりだ。そう、あの、東方から訪れた客人が口にしていた名ではないか。そう言えばあの時公爵は、ジュールをチェスターの孫だと話していた。
だが、アリエルはアーバンズ・カンパニーの創業者の名など知らなかった。だからその男の孫だと言われても、かの会社と彼との間に何の結びつきも見いだせなかったのだ。
「う、嘘……」
「僕の本当の名はジュリアス・アーバン。ギャラモンは母方の親戚の姓を借りたもので、ジュールは学生時代の愛称」
ジュールは静かに笑った。朝の光が、彼の髪の毛の上を弾くように照らしていた。




