46,別れの晩餐 2
(今、何て……?)
予想もしてなかった内容に、アリエルは一瞬息が止まりそうになる。
ハンスが言った言葉を理解するにも、時間がかかった。
水を打ったように静まり返る場内。そこに一呼吸遅れて、人々のざわめきが戻ってくる。
「な、何だってえ?」
「本当なの?」
突然の報告にアリエルだけでなく、他の人間も皆騒然となっていた。
彼を陰で慕っていたらしい年若い侍女達の、悲鳴にも似た叫び声がきれぎれに届く。
驚愕して口々に騒ぎ出す集団に負けじと、ハンスは声を限りに叫んでいた。
「本当だ。急な話でわたしも驚いているところだ。ジュールには旦那様の近侍として、またお客様の接待係として大変に素晴らしい働きをしてもらった。今夜の晩餐は、旦那様より特別に設けてもらった、彼の送別の意味もある。そういう訳だから、皆、充分彼との別れも惜しんでほしい」
(嘘、ジュールが……)
ハンスの台詞も最後の方は、耳にも入ってこなかった。
ジュールがいなくなる。もう少しすると、彼が目の前から消えてしまう。
アリエルは茫然として、突如送別会へと形を変えた晩餐を、言葉もなく眺めていた。
顔なじみの同僚達から揉みくちゃにされながら、楽しげに酒を酌み交わすジュールが目に入る。次から次へと現れる話し相手に、彼は飾らない笑顔を見せていた。
アリエルの前では、もう二度と見せてくれない自然な笑顔。その笑顔が段々とぼやけていくのに、さほど時間はかからなかったように思う。
アリエルは目に溜まる熱い涙がこぼれ落ちる前に、そっと指で拭い取った。濡れた指先が視界に入り、それがまた滲んで霞んでいく。
(嫌だ、こんなわたし……)
沈みがちな気分を振り払うように、彼女は目を閉じて大きく息を吐き出した。
「アリエルさ〜ん、本当に何にも聞いてなかったんですかぁ」
横でリンダが拗ねたように呟いた。
彼女はいつの間にかワインを手に入れたらしく、ほのかに赤らんだ顔をしていた。
「わたし、ジュールさんに失望しちゃいました。あの人は絶対、アリエルさんを大切にする人だと思ったのに……」
「あのね、リンダ」
思い込みの激しいこの少女は要注意だ。何しろ今に至っても、アリエルとジュールを恋人同士だと信じ込んでるふしがある。その、恋人であるジュールが、大切な筈のアリエルに素っ気ないのが気に入らないらしい。
気持ちはありがたいが、この場で余計なことを口走りでもされたら大変だ。
「何度も言ってるけど、わたしはーー」
「ーーねえ、アリエルさん、ちょっといいかしら?」
顔の前に影がかかり、誰かが目の前に立った。
「あ、アンナさん!」
リンダが素っ頓狂な声を上げて、アリエルはつられて前に立つ妖艶な女性を見上げる。
侍女仲間のアンナが、赤い唇を柔らかく持ち上げて、アリエル達を微笑みながら見下ろしていた。
「そんなに固くならないで。意地悪なんてしないから」
アンナは目を細めてふんわりと笑う。
九才年上の妙に迫力のある美女は、色香の漂う魅力的な微笑みを浮かべ、ゆったりと隣に座っていた。
その優雅な仕草が酔った男の視線を知らず集めているのだが、アンナの持つ独特の雰囲気のせいなのか、誰も声をかけてくるようなことはなく、遠巻きにこそこそとこちらの様子を窺っているだけだ。
当のアンナは、周囲を全く意識してないようだった。
「意地悪だなんて、そんな……」
アリエルは居心地の悪さを感じながらも、愛想笑いを返しつつ、つい先ほどまで共にいた年下の同僚を恨めしく睨みつけた。今では離れた場所に席を移したその少女は、他の侍女仲間とのおしゃべりに夢中になっていて、こちらのことなど既に忘れてしまっているようだ。
何故、リンダとアンナが入れ替わる事態に陥ったのか。
それは、いつもはあまり気の利かないリンダにしては珍しく、「こちらへどうぞ」とアンナに席を譲ったからだった。それで自分はちゃっかりと気安いところへと移動していったのだから、アリエルにしてみれば、見捨てられたも同然だったのである。
(もう、リンダったら。わたしを一人にするなんて……)
リンダはジュールとアンナの関係を知らない。だから、アリエルとアンナの間に流れる微妙な空気に気づいてもない。仕方ないと言えば仕方がないのだが、アンナが苦手なアリエルにはため息をつきたくなる状況であった。
騒々しい周囲を横の女性は軽く一瞥すると、赤く上気した頬をアリエルへと向けてきた。
「皆、とても楽しそうね。そう、思わない?」
「え、……ええ」
それはそうだろう。
ここにいる連中は皆、忙しい仕事に追われ、目の回るような日々を過ごしている反面、娯楽は少ない生活をしている。それがこんな機会を得てしまったのだから、たまった鬱憤を晴らすがごとく、羽目を外してしまうのも無理はない。
いつもは何かと口うるさい執事のハンスでさえ、率先して酒と食事を楽しんでいるぐらいだ。ジュールの周りに至っては言うに及ばないほどであった。
「でも、あなたはそうでもないみたい」
アンナの鋭い指摘にアリエルは息を飲んだ。確かにアリエルは、少しもこの時間を楽しんではいない。が、それを誰かに言い当てられるとは思ってもいなかったのだ。
「そ、そんなことは……ありません」
「そう? わたしの気のせいかしら」
否定したアリエルを見て、アンナは肩を竦め笑う。だが、アリエルは笑う気になどなれないでいた。
たいして親しくもない自分に声をかけてきたアンナの行動に、不安と疑問を感じていたからだ。
「アンナさん、わたしに何か用事でも?」
「ーーフフ、アリエルさんて本当に可愛い人ね。わたしは前からそう思っていたのだけど、今日は本当に実感したわ」
「えっ?」
何が言いたいのだろう。そんな話をするために、この席へやってきたのだろうか。
「普段のあなたは取り澄ましていて、鼻持ちならないくらいの自信家でしょう? 美しい外見もさることながら、奥様からの信頼も厚いし、わたし達のようなただの侍女なんか鼻にもかけてないみたいじゃない?」
酷い言われようだ。アリエルは思わず反論しようとして身を乗り出した。
「そんなーー」
「まだ続きがあるの。黙って聞いていてちょうだい」
しかしアンナはピシャリとそれを跳ねつけ、アリエルの抗議を退ける。強気なアンナに言い返せる筈もなく、アリエルは唇を噛んで椅子に深く座り直した。
「でもね、そんな高嶺の花のアリエルさんが、何故かわたしの前では怯えたような顔をして、萎縮してしまうのよ。それがなんだか子供みたいに思えて……。だからかしら、あなたのこと、いつも可愛いと思っていたの」
「えっ?」
「フフ、それでね、あなたを苛めたくなる気持ちをどうしても抑えることが出来なくて……、ついつい意地悪ばかりしちゃってたわ。ごめんなさいね」
「アンナさん……?」
クスクスと笑いながら、アンナはワインの入った器を傾ける。
アリエルは何も口にすることが出来なかった。
いつもアンナがアリエルに見せていた嘲笑は、本人曰くただの悪戯だったらしい。だがそれが原因で、こちらは彼女を苦手にしていたのだ。今更単なる意地悪だったと言われても、正直返答に困るというものだった。
「今夜はそのことを謝りたかったの。彼はもういなくなるんだし、あなたとの仲をより良いものに戻しておきたかったのよ」
アンナの視線がジュールを追っていく。彼の方は相変わらず、こちらに何の関心も向けていないようだ。
「あなたはいいんですか?」
アリエルは思いきって問いかけてみた。
アンナはジュールがいなくなることを、特に寂しがっている様子はない。だが二人は特別の間柄であったのだ。にもかかわらず何の感慨も浮かばないなど、普通では考えられないではないか。
それにアンナは彼を愛しているようにも見えた。その彼女が今回の件をどう思っているのか、どうしても知りたくなってしまったのだ。
「いいって、何が?」
アンナは不思議そうに首を傾げた。
「……だ、だから、ジュール……さんのことです。彼がいなくなっても、あなたは構わないんですか?」
彼女は目を見開いてアリエルを見つめてくる。そのままじろじろと、遠慮もなく顔を覗き込んできた。勿論、いくら待っても何の答えも返ってこない。
アリエルはいたたまれなくなって、彼女から目を逸らして俯く。
「あ、あの……立ち入ったことを聞いて申し訳ありませんでした。わ、忘れてください」
何故こんな反応を返されるのだろう。アンナからは不躾な質問をしたアリエルへの、怒りのようなものは感じられない。だから尚更分からないのである。彼女が何を考えているのか。
「アリエルさんたら」
プッとアンナが噴き出した。
「あなたは平気じゃないの?」
「わ、わたしは……」
クスクスと笑うアンナにせかされるように、アリエルはかすれた声を絞り出す。
「へ、平気ですわ。わたしと彼はただの同僚でしたもの」
そうだ、最早友人ですらない。いや、そもそも最初から友情などなかった。
だから、ジュールがこのお屋敷を辞めようが、どこへなりと行ってしまおうが何も関係ない筈だ。悲しむ理由など、どこにもなかったのである。
ふうん、とアンナは相槌を打って聞き流していた。ニヤニヤといやらしく緩む顔つきは、どう見てもこちらの反応を楽しんでるようにしか見えない。
「わたしには、とてもそうは見えないけど?」
「ア、アンナさん!」
「はいはい」
声を張り上げたアリエルを面倒くさそうに手で制し、アンナは悪戯っぽく瞳を煌めかせる。
「実はね、わたしあなたにもう一つ話があったの」
「は、……話ですか?」
「ええ」
戸惑うアリエルの耳元に、アンナはそっと唇を近づけた。その瞬間、辺りを覆うざわめきが消え、微かな囁きが耳たぶを掠めていく。
「あのねーー、わたしと彼は恋人でも何でもなかったのよ」
「……えっ?」
(今、何て言ったの?)
「あれはね、彼に頼まれてそう振る舞っていた、ただのお芝居だったの。彼の困った顔が見たくて、わたしもつい、あなたの前でキスしてなんてやりすぎてしまったこともあったけど」
アンナは軽やかに告げて離れていった。
「あれは全部、彼の嘘に口裏を合わせていただけ。全部演技だったのよ。本当のわたし達はただの同僚なんかより、そうね、もっとよそよそしい間柄だったわ」
「な、何故、そんな……」 意味が分からない。
驚きのあまり震えるアリエルを、慈愛の籠もった優しい眼差しで彼女は見つめていた。
「さあ、何故かしら。分からない?」
「わ、分かりません!」
アリエルは激しく首を振ってアンナを見返した。ジュールが何故そんなことを頼んだのか、考えても全く分からなかった。
興奮したアリエルを宥めるように、温かい手が肩に置かれる。アンナの柔らかい手だった。
「きっと以前付き合っていた相手も、わたしと同じようにお芝居だったんじゃないかしら。中には本気になってしまった子もいたみたいだけど、彼の方はその気もなかったでしょうからね」
「どうしてそんなことをする必要が……」
にっこりと口角を上げて、アンナは満面の笑みになった。
「さあ、どうしてかしらね」
「ーーアンナさん!」
その時、別の声が会話に割り込んでくる。
男の声だ。
耳に心地よい、ずっと聞いていたいような、とても懐かしい声。
アリエルはのろのろと顔を上げて、近づいてきた男を確かめた。
「き、君は、何を話してるんだ?」
そこにいたのは、息を切らしてアンナの手首を掴まえる、酷く焦った様子のジュールだった。




