40,家族とは 1
自室の前まで戻ってきたアリエルを、まるで待っていたかのように佇む人影があった。
「あ、アリエルさん」
人影はアリエルに気がつくと、恐る恐るといった様子で近づいて来る。
アリエルは目を擦りながら彼女を見返した。酷く視界が悪くて見えにくかった。
指が冷たい感触に触れ、濡れたのだと分かる。ここにきてアリエルはようやく、泣いていたことに気づかされたのだ。
涙を急いで袖口で拭い、人影に声をかけた。
「……どうしたの? 奥様についていなくてもよかったの?」
見えにくくとも声を聞けば誰なのかは分かる。アリエルの帰りを待っていたのは、侍女仲間のリンダであった。
今、広間ではパーティーが宴もたけなわの筈だ。その席に彼女がいないのはおかしい。
ホストである公爵夫妻は当然その場にいるわけで、側つきを命じられた彼女も、近くで控えていなければならないからだ。
くぐもった鼻声でそう問いかければ、リンダは顔を歪めて大きく首を振った。
「パーティーは急遽中止になりました。わたしはアリエルさんを待っていたんです」
「中止?」
思ってもない答えにアリエルは驚く。中止とは随分思い切った事態だ。考えが纏まらず呆然とするアリエルに向かい合い、リンダは苦しげに声を詰まらせて「ごめんなさい!」と頭を下げてきた。
「えっ?」
「わたしが、わたしが奥様にお話ししたんです。若様のことを」
覚悟を決めて告白をしてきたのか、リンダの声には張りつめたような響きがあった。
彼女は肩を震わせてアリエルの前でうなだれている。
「ずっと、ずっと奥様に、アリエルさんのことを調べてくるよう言われてたんです。そ、それで、たまたま今朝、アリエルさんと若様の散歩を知って……」
リンダは顔を覆って泣き出した。
「言ってしまったんです、そのこと。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
そうだったのかーー。アリエルは一番の疑問が解けていくのを感じていた。
何故急に、リチャードの体調がグレースの知るところとなったのか、ずっと不思議だったのだ。
秘密を抱えるアリエルの行動は、やはりグレースに不審を与えていたのだ。それでグレースはリンダに厳しく命じたのだろう。この場合どう考えても、一番の被害者はリンダである。
リンダが知り得た情報をグレースに告げたとしても、何ら責められるような罪はない。彼女は当然のことをしたまでだ。
「いいのよ、リンダ」
声を詰まらせるリンダの細い肩を、アリエルは柔らかく包み込んだ。
不思議と心が落ち着いて冷静でいられた。
「元はと言えばわたしが悪いんだもの。奥様にもあなたにも誰にも言わないで、一人で立ち回り勝手なことをしていたのだから」
そう、責められるべきはリンダではなくアリエル。グレースという主に背き、リチャードの願いを聞き入れたのはいいが、そのせいで、本来の主を蔑ろにしてきたアリエルの方なのだ。
「わたしこそ、ごめんなさい。あなたに何も言わないで。黙っていることであなたにどれだけ迷惑をかけてしまうのか、そんな簡単なことにさえ、気がつけない大馬鹿者で」
「いいえ、いいえっ」
リンダは泣きじゃくりながら首を激しく振った。そんなに大きく揺さぶったら、きっとあとで気分が悪くなるだろう。子供のように涙を流すリンダを、アリエルは愛おしく眺める。
「わ、わたしは馬鹿なんです。一時の腹立ちで、あ、あんなこと言っちゃって……。あとでどんなことになるか、ちょっ、ちょっと考えれば分かった筈なのにっ……」
こちらにしがみついてきてしゃくり上げるリンダを優しく宥めながら、アリエルは諭すように話しかける。
「もう、いいのよ、本当に」
覚悟は出来ている。アリエルの処分は、いずれ主の口から出されるだろう。
息子と通じて母親をたばかり信頼を裏切った侍女を、きっとグレースは許さない筈だ。それはリチャードの過去の話からも充分想像出来る。
アリエルが何故こんなことをしでかしたのか。そんな理由など関係ない。考慮されることもないだろう。
彼女の身柄は風前の灯火だ。なにしろ二人の架け橋になるどころか、完璧に仲を違える結果をもたらしてしまったのだから。
しかし、アリエルは不思議なほどに落ち着いていた。自分自身がこんな結果を招いたことに焦燥感を抱くこともなく、全てを受け入れる準備が出来ていた。
(仕方ないわよね、失敗してしまったんだから)
今の彼女には怖いものなどなかった。唯一なくしたくはないと思った、たった一つの大切なものを、手に入れることも出来ず諦めなくてはならないと、知ってしまったからかもしれない。
「それであなたは、何故わたしを待っていたの?」
アリエルは微かに笑ってリンダに問いかける。彼女の胸元で派手に泣いていた少女が、ハッとして顔を上げた。
「あ、ああ……、あの……あの……」
青ざめてオロオロとするリンダを、アリエルは優しく促した。
「なあに?」
「奥様が……、い、いえ、旦那様と奥様が、お待ちでいらっしゃいます」
「わたしを?」
「は、はいっ。あ、アリエルさんが戻られたらすぐお連れするよう、申しつけられました」
「そう……」
どうやら、夜を超えることもなく暇を言い渡されてしまうようだ。
グレースのあまりに素早い対応に、アリエルは口元を引き締めてごくりと喉を鳴らした。
「よく来てくれたね」
部屋の主は柔和な微笑を浮かべ、うろたえるアリエルを見つめていた。
高い天井に大きな窓と、落ち着いた色味に囲まれた広い室内は、笑顔を浮かべる住人の、雰囲気そのものと言った暖かみを感じさせる。
「君を待っていたんだよ」
目尻に笑い皺を寄せた部屋の主が、椅子から立ち上がってアリエルへと近づいて来た。
「お、遅くなりまして申し訳ございません」
想像していたものとは全く違う歓迎ぶりに、彼女は喉を詰まらせて短く言葉を紡いだ。
てっきり首を言い渡されると思っていたのだ。だが、この雰囲気はどうも違うようだった。
慌てて顔を伏せて恐縮するアリエルを見た男性は、困ったように静かに微笑む。
アリエルが連れて来られたのはグレースの部屋ではなく、館の主であるグルム公爵ーージェームズ・エドモンド・セジウィックの居室だった。
いつもは部屋の前で用件を済ませるばかりで立ち入ることのない室内に、彼女は現在通されている。
当主であるこの男性と面と向かって対面したことなど、初めての経験だった。四年もの間、この館に世話になっているにもかかわらず、まともに顔を合わせたことすらなかったのだ。
きつい性格が表れたかのような、はっきりとした顔立ちの夫人とは違い、穏やかな人柄が面差しに滲み出ている初老の紳士。それがこの男性から受ける印象である。
こうして見てみると、イメージそのままの人懐っこいその笑顔が、リチャードのそれと全く同じだった。最初は彼を父親似だと思ったのも、この笑顔のせいに違いない。
だがーー、今のリチャードを見た時、アリエルはどう思うだろう?
果たして、公爵と似ていると思うだろうか。
「君には酷い目に遭わせてしまったようだね」
ジェームズの声にアリエルは顔を上げた。
「不肖の息子がすまないことをした」
淡々と謝罪の言葉を告げてくる公爵に再び驚く。
アリエルは急いで首を横に振った。公爵のような身分の高い人物が、一介の使用人に詫びるなど考えられないことだ。
言葉を返すことも出来ずに体で表現するしか出来ないアリエルを、公爵は変わらない笑みで見返してくる。
「君にこの場所へ来てもらったのはね、今度のことの当事者である君にも、聞いてもらいたかったからなんだよ」
そう言ってジェームズは視線を逸らした。
公爵の眼差しに釣られるように、アリエルも彼の目線を追って部屋の中へと視線を移す。
その先に、両手を床について座り込んでいる青年がいた。ボサボサの茶色い髪と、皺が寄ってくたびれて見えるシャツとスラックス。
アリエルは目を見開いてその姿を凝視する。彼女は、彼の存在に全く気づいていなかった。全く目に入ってなかったのだ。
肩を落として俯くリチャードは、屋根裏部屋で別れた時のままの服装だった。
両親に真実を告げてくると出て行ったが、本当にその足でここまで来たのだろうか。
だからこそ、パーティーは中止になってしまったのか?
リチャードが顔を上げて、彼女を苦しげな表情で見つめてきた。
笑顔を消したリチャードは、母親であるグレースにそっくりだった。
「リチャード、ミス・オルドが来てくれた」
グルム公爵の低い声が室内に響き渡る。
「さあ、お前の言う真実を話してくれ」
「はい、父さん」
リチャードはゆっくりと立ち上がって深い息を吐き出すと、アリエルから視線を外して前を向いた。




