4,子爵様の誘惑
アリエルは言葉も出せず男性を見つめていた。
男性はアリエルを労るように優しい瞳を向けている。
彼のプラチナブロンドの繊細な髪の毛は、肩までの長さで、湖の上を吹く風が時々さらっていく。瞳はエンジェルズ・ティアの美しい青色をそのまま映し撮ったように、眩しい位に青い。綺麗な形良い唇は、白い歯を見せて微笑を湛えている。
そして、背が高く逞しい体は、彼女をすっぽりと優しく包んでいた。
年の頃はジュールと同じ位だろうか。とても美しい魅力的な青年だ。
「どうしたの? そんなに驚いた顔をして」
男性はいたずらっぽく瞳を輝かせて笑う。
アリエルはハッとして目を伏せた。ずっと彼の顔を、まじまじと見つめていたことに、漸く気が付いたのである。
彼女は白い肌を紅潮させて急いでお礼を言った。
この青年は、高価そうな服装から見ても、公爵の招待客に違いない。彼女の態度は、失礼だと言われても仕方のないものだった。
「危ない所をありがとうございます。直ぐにお礼もせず申し訳ございませんでした。あの、もう大丈夫でございます。手を……」
しかし、男性は彼女の体を強く抱きしめ、離そうとはしない。彼は相変わらず他人を惹き付ける微笑を見せながら、片目を瞑って囁いた。
「こちらこそ、すまなかった。君の姿を見掛けて、驚かそうと黙って近付いたのだから」
「……あ、あの……?」
「思った通りとても可愛いらしい人だ。君に会えただけでも、ここへやって来た甲斐があった」
「あの……、狩りを為さっておられたのではないのですか?」
「いや、わたしは先刻到着したばかりなんだ。それで公爵ご自慢のこの湖を見に来たのさ」
男性はアリエルの目を覗き込むように見つめた。彼女は青い瞳に吸い込まれそうになる。
「エンジェルズ・ティアとは上手いことを言う。本当に天使がいるのだから」
「えっ?」
「君のこと」
彼はクスリと笑った。
「ねえ、君。わたしとこのまま消えないか? 君の主殿にはわたしの方から詫びを入れておこう」
青年の囁く声はとても魅惑的だ。
アリエルはどうかすると流されてしまいそうになる心を、必死で奮い立たせるしかなかった。心臓はドキドキと破裂しそうな程動いている。
「駄目かな? わたしはこんなにも君に心を奪われてしまったのに……」
彼は瞳を曇らせて彼女の顔に近付いてきた。そして耳に切なげな吐息を洩らした。彼女の耳が熱くなる。
「あ、……わたし……」
(やめて、そんな目で見ないで。でないとわたし……)
「ねえ、お願いだ。可愛い人。イエスと言って欲しい」
男性は懇願するように彼女に言った。それからアリエルの顔にそっと掌を当てる。彼の青い瞳に彼女の顔が映っているのが見え、それが段々近付いてきた。
気が付くと青年の唇が触れそうに近い。彼女はゆっくりと目を閉じた。
もう、どうなってもいい。頭の中から仕事のことなど全て消え失せる。彼の腕の中はなんて心地よいのだろう。
「こちらにおいででしたか? 随分探しました」
その時突然、彼女の耳に聞き慣れた声が聞こえてきた。
アリエルの目に、湖の側の林の中からジュールが出て来るのが見える。彼は男性の側まで来ると、頭を下げて控えるように立った。
アリエルは、彼に気付いて腕を緩めた男性から急いで離れる。その時手にしていた水差しが落ちて、慌ててそれを拾う為に屈んだ。
(ジュールが何故ここに? 嫌だわ、彼に見られたかもしれない)
彼女は突然のジュールの出現に酷く動揺していた。心臓は更に激しく動き出し、水差しを持つ手は震えている。
「なんだ、無粋な奴だな。邪魔をしないでくれ」
男性は不機嫌な顔をしてジュールに視線を向けた。そして忌々しそうに彼を睨んだ。
「申し訳ございません。ですが供の方々が、皆様総出でお姿を捜しておられます。どうか、ご容赦を」
男性は目を見開くと表情を和らげた。大きな溜め息を吐く。
「そうか、なら仕方ないな。わたしは湖にいると言って来てくれ。心配せずとも構わぬと……」
「かしこまりました。お伝えしておきます」
ジュールは顔を上げると真っ直ぐ男性を捉えた。
「遠路遥々ようこそお越し下さいました。当家の主が是非ご挨拶をと申しております。ご案内致しますのでどうぞ、こちらへ」
男性は顔を上げたジュールを見つめたまま、酷く驚いたような不思議な表情をしていた。
「君……?」
「さあ、どうぞ。こちらでございます」
しかしジュールは構うことなく、男性を促すように先に歩き始めた。
ジュールはアリエルの方を見ることもなく、彼女の視界から消えようとしている。アリエルはホッとして小さく息を吐いた。 男性は彼を追いかけようとして、思い返したのか彼女の前へと歩いて来た。
「直ぐに戻る。ここで待っていて」
そして彼女の頬に軽く口付けた。
「全く君ときたら、油断も隙もないな」
今だエンジェルズ・ティアで、ぼんやりと水面を見つめていたアリエルの前にジュールが再び現れた。
「嫌だわ。やっぱりわたしに気付いていたのね。なんて人かしら」
アリエルはぷっくりと頬を膨らませて拗ねた。
「気付くに決まっているだろう。見ないようにするのが僕らの礼儀だ」
彼も少しムッとしたように言う。だが直ぐに涼しい顔をして笑った。
「あの方なら暫く戻られないだろうね。何せ奥方に捕まっていたようだから」
「奥方? 奥方ですって!」
アリエルはびっくりして大声を出した。
「あの人、結婚していたの?」
興奮のあまり体が震えてきた。男性が結婚しているとは夢にも思わなかった。何故、そんなことも浮かばなかったのか。彼女は自分が情けない。
「やはり、知らなかったんだな。そうではないかと思ったが……、」
彼は呆れたように彼女の顔を見ると、苦笑した。
「ねえ、あの方は、何ておっしゃるの? ……ああ、結婚していたなんて」
アリエルはガックリと項垂れたように座り込んだ。
彼女は男性が結婚しているとは露程も思わなかったのだ。彼はジュールと同じ位の年頃に見えた。
随分早く身を固めたものだ。その割りには、腰が落ち着いたような感じが全然しなかったのは、謎でもあるのだが。
「あの方は、マキシム・ジョン・スペンサー様とおっしゃる。現在はバイロン子爵で、いずれはオズボーン公爵を継承される方だよ」
「何ですって? バイロン子爵ですって!」
アリエルは目を丸くした。
彼女はそのフレーズを今日は何度も聞いている。
そう、本人には今初めてお会いしたばかりだが、その奥方には何回も会っており、その度にあの侍女の口から子爵の名が飛び出して来たのだから。
「君、奥方にしつこく絡まれていたね」
ジュールは目を細めて笑った。なんだか面白がっているようだ。
「……あなた、それも見ていたの? 酷い人ね」
アリエルは彼を睨むと唇を曲げて怒った。
「見ていたのなら助けてくれたっていいでしょう?」
「君は立派に彼女を接待してたじゃないか。嫌な顔などすることなく」
ジュールは優しい瞳で彼女を見つめた。彼の眼差しはエンジェルズ・ティアを吹き抜ける風のように穏やかだ。いつの間にかアリエルはその風に包まれている。
あの、バイロン子爵の熱い眼差しとはまるで違う。それはつまり、ジュールがアリエルに友情以外感じていないと言うことだろう。彼女はほんの少しだけ寂しく感じた。
「当たり前でしょう、そんなこと。それで褒めてるつもりなの?」
アリエルは声のトーンを下げた。ジュールに当たっても仕方ない。あの子爵にのぼせてしまい、好きなようにされなかった幸運に感謝するべきなのかもしれないのだから。
「悪かった、そんなつもりじゃなかった、許してくれ。……それで、君はどうするつもりなの?」
ジュールは静かな低音で遠慮がちに聞いてきた。
「何を?」
「鈍いな。子爵に誘われていただろう?」
彼は呆れている。やっぱり見られていたらしい。アリエルは真っ赤になって叫んだ。
「既婚者はいくら素敵な方でも問題外よ! あなた、わたしが何の為に頑張っているか忘れたの?」
「玉の輿だろ?」
ジュールはニコニコしながら当然のようにのたまう。彼は何がおかしいのだろうか? アリエルは興奮したのが馬鹿らしくなる。
「忘れてないなら、わざわざ聞かなくてもいいでしょう?」
「そうだったね、すまない」
彼はまだ笑っていた。
「子爵が妻帯者ならこんな所で待っていても無駄ね。わたし帰るわ」
アリエルは笑うジュールに当て付けのように言った。
「そうした方がいいだろう。残念ながら今回も君のテクニックは披露出来なかったな」
彼は彼女をチラリと横目で見て、堪えきれないらしく肩を振るわせて笑う。
「君は子爵にうっとりしていたみたいだけど」
「なっ!」
アリエルは頬が熱くなった。この男は、いきなり何を言い出すのだろう。こちらをからかって遊んでいるとしか思えない。
何だか無性に腹が立ってきた。彼の余裕ある態度を崩せたら、どんなに胸がスッとするだろう。
「そんなに知りたければ、特別に教えて差し上げましょうか? わたしのテクニックを」
アリエルはジュールの側に近寄り、彼の顎に手を当てると上目遣いで彼を見上げる。そして、花びらが開くかのように艶やかに笑った。
(この笑顔で落ちなかった人はいないのよ)
ジュールは目を見開いて彼女を見ていた。二人はそのまま、声をなくして見つめ合う。
彼は何も言わない。てっきりふざけて仕返しでもしてくるかと思ったのに。
(何よ。……気まずいじゃないの)
アリエルがそろそろ彼の顎にある自分の手の処理に困り出した頃、彼がやっと表情を和らげフッと笑った。青年は両手を上げて完敗のポーズをとる。
「降参、参りました。君には敵わないよ」
「……分かればいいのよ」
アリエルは彼の言葉にそう返しながら、心の中では敗北感を感じていた。顔を上げたジュールは憎たらしい程涼しい目をしている。
そんな彼に比べ、彼女はどうだろう。自ら勝負を賭けたくせに心が平静ではいられないのだ。優位に立っていたはずなのに、何故自分の方が動揺しているのか?
(ジュールの顔が赤くなるのを見て笑いたかったのに……悔しいわ)
アリエルは自分の動揺の理由を、彼についてる嘘のせいだと思った。
ジュールは男だが何でも話せる親友だ。彼女にとっては家族を除けば誰よりも近い存在である。
だが、アリエルにはそんな彼にもどうしても話せない秘密があった。
その為、彼が誤解しているのをいいことに嘘をついていたのだった。