35,広がる波紋
その頃、ジュールは、リチャードの夜会服に、ブラシをかける作業に没頭していた。
長い間クローゼットにしまい込まれていた、テールコートは、最高の状態とは言えなかった。
それを生き返らせるべく、ジュールは時間をかけて手入れを施していたのである。
つい先ほどまでは、釦などの不備はないかをチェックして、簡単な繕いものに時間を費やしていたほどだ。まるで侍女がするようなことを、彼は慣れた手つきでこなしていく。
この後は皺を取り除くべく、アイロン作業に取りかかる予定だった。
これには細心の注意を要する。なにしろ相手は仕立てのよい夜会服、失敗は許されない。
ジュールは当て布として用意した、自身の持つ一張羅をアイロン台の上に広げた。勿体ないとは思ったが、同じ素材といえばそれしか思いつかなかった。
輝くような光沢を見せるミッドナイトブルーの襟が、目に飛び込んでくる。リチャードの持つテールコートに、負けずとも劣らずの上質の一品。
こちらに世話になると決まった時、父が用意して荷物に忍び込ませてくれたものだ。そんなものはいらないと言い張ったのに、備えあれば憂いなしだと強引に持たされたのだ。
「やっぱり親父は違うな。爺さんと同じで先見の明がある。この通り、役に立ったんだからね」
ジュールは軽く冗談を言って、リチャードの衣服の上に自分のそれを重ねた。
長いこと主から忘れ去られていた夜会服。
これを再び身につけるにあたっては、どうあってもアイロンをかける必要があった。そのためわざわざランドリールームまで足を運んで、作業をしていたのである。そうでなかったらリチャードの側で、彼の支度を整えることに専念していた。
リチャードの様子は、明らかにおかしいと言えただろう。苛ついて物に当たり散らし、抑えきれない衝動を撒き散らしていた。
だが、それは表面に表れたほんの一部分に過ぎない。彼の内面はもっと複雑な感情で乱され、混沌としている。
あんな状態の彼から目を離すのは危険だった。ジュールにはそれがよく分かっていたから、だからなるべくなら離れたくはなかったのだ。
だがーー。
彼らの前に異変が降ってわいたのは突然だった。
ジュールとリチャードがいつもと同じように、何ら代わり映えのしない時間を過ごしていた時、それはやって来た。
今から思えば、最初はあれでも遠慮がちだったのである。こちらの様子が分からなかったのだから当然だろう。
だがその内、リチャードの様子を聞きつけた一団が殺到した。彼女達は他に遅れを取るものかとむきになって押しかけた。
そう、見舞いと称して騒がしく現れた貴婦人らのことである。
元々あちらはリチャードと見合わせようと、公爵夫人が招待した花嫁候補達だ。公爵家の嫡男に会えるチャンスを、みすみす見逃す筈はなかった。
彼女達はしつこく、彼らの部屋の扉を叩き続ける。
そして、その音は、しばらく途切れることはなかった。
見舞いに現れた客人は口を揃えて、夫人の許しを得たと、まるで免罪符であるかのごとくまくし立てた。こちらの都合などお構いなしだ。
どやどやと部屋に入り込み、回復期とは言え、大怪我をした人間に延々相手をさせた。静かに過ごすことに慣れていた彼らには想像以上のダメージであった。親切心を傘に降る相手は、それが迷惑な行為などとは夢にも思いはしなかっただろう。
こうなることが予想出来たから、リチャードの存在を隠すよう、彼は公爵に進言したのだ。
リチャードの精神状態は決して万全とは言えない。まるで薄氷の上を歩くように崩れやすい時がある。表面上は真面目で気さくな、気のいい奴だ。だが、その中には壊れやすくて脆い部分を抱えている。
それが分かっていたから怪我を理由にリチャードを隠したのだ。そして、それはうまくいっていた筈だったのに。
ジュールはため息をついて、生地からアイロンを離し手を休めた。ざわめく精神を落ち着かせるよう深呼吸を繰り返す。
急がなければならないが、苛立ったり焦ったりすれば失敗のもとだ。
深く息を吐いて、彼は再び手元に集中していった。
リチャードの事情を知っているのは、昔偶然目撃してしまったジュールだけかもしれない。いや、もしかしたら、王都で彼と二人で暮らすバートも気づいているかもしれない。
どちらにしろジュールは、そのことについてリチャードに意見するつもりはなかった。それどころか、二人の間でまともに話し合ったこともない。
偶然にも現場に鉢合わせたジュールに、彼が原因らしきものを簡単に説明してきただけだ。あとはジュールが勝手に想像を働かせて、つなぎ合わせているだけ。リチャードを少し観察していれば、自ずと分かってくることもあった。
それから、ジュールはそのことに干渉しないことを決めた。
彼がリチャードの秘密に気づいていながら、全て無視することにしたのは、あくまでも友人でいたかったからだ。今は友人に加え近侍という立場もあるが、気兼ねなく付き合える友情を繋げていたかった。
バイロン子爵であるマキシムと同じく、暗い影など差すことのない、心からの友人でいつまでもいたかったのだ。
そのためリチャードに王都へ行こうと誘われた時、その願いを断った。王都で一緒に住むようになれば、どうしてもリチャードの闇に深く関わってしまうことになる。何も知らないバートと違って事情を知るジュールには、彼は遠慮なく振る舞うに違いないからだ。
見舞い客の騒々しい話を聞きながら、リチャードの顔が恐ろしいほどに色をなくしていく。グレイの目が一切の感情を消してしまい、虚ろな目線を女性達に向けていた。とてもまずい兆候だった。
見舞い客の波が途切れたあと、ジュールはすぐに抗議に出向く。リチャードには自分が帰るまで、誰が来ても絶対に扉を開けないよう念押しをした。
騒動の元凶は公爵夫人だ、それは分かっている。
だが彼女に直接文句を言いに行くつもりはない。公爵夫人の元へ行ったところで、反対にリチャードの現状を伏せていたことについて、激しい叱責を受けるだけだったろう。
ジュールは公爵の元へ急いだ。そしてーー。
結果は、こう。
ジュールはせっせと、リチャードの夜会服を準備する羽目に陥っている。
つまり、公爵は息子を匿うどころか、今夜のパーティーへ出席するよう命じてきた訳だ。全て夫人の差し金だった。
「ジュールさん」
声をかけられてジュールは振り向いた。
ランドリールームの入り口に誰かが立っている。思いつめたような表情で、睨みつけるようにきつい眼差しを向けてきていた。
「リ……ンダーーさん?」
ジュールは戸惑いながらその人物に視線を合わせた。
素朴な顔立ちの小柄な少女。
そこにいたのは、アリエルの同僚でもある、公爵夫人付き侍女のリンダだった。




