34,母と息子 5
アネット・バウリーは、リチャードより五歳年上の侍女だった。
元々は彼の二人いる子守の内の一人だったが、リチャードが成長して子守が必要でなくなったため、彼女は荘園に常駐する侍女へと転身したのだ。
年齢は彼より少し上ではあったがどこか幼い風貌の外見と、それに見合うおっとりとした気性の女性だった。
アネットの仕事の中身は主に館内の清掃だったので、主家族や客人の前に姿を見せる機会はなかった。
そんな理由から、リチャードは彼女に何年も顔をあわさずにいたのだ。その存在すらも忘れていたようなものだった。
ある日リチャードは、家庭教師の行う授業と称する退屈な暇つぶしを、とうとう抜け出して庭をうろついていた。さぼったのはその時が初めてだった。彼のたまりにたまった鬱憤は、いい加減限界値を超えていて、むしゃくしゃしてどうにもならなかった胸の内を晴らさずにはいられなかったのだろう。
あの日、もしも彼女に会わずにいたら、彼の運命も変わっていたのかもしれない。
もしかしたらなどと仮定の話をして、過去から現在までの出来事を予想してみることに何一つ意味などないが、それでも考えずにはいられない。ーー出会わなかったら、と。
しかし起こってしまった出来事を、今更なかったことにするなど出来る筈もないのだ。きっと、あの日でなかったとしても、遅かれ早かれリチャードは彼女に会っていた。そして会ってしまったら、惹かれずにはいられなかったのだから。
「リチャード様ですね?」
そう声をかけてきた侍女を、彼はまじまじと見つめ返して返事に詰まる。
こんな場所など誰も来ないだろうと、逃げ込んだ館の裏手にある雑草に囲まれた一角。そのうら寂しい場所で息を詰めて潜んでいた彼を、朗らかな声の主は目ざとく見つけ出していた。
「お元気でしたか? そんなところで何をしておられたんです?」
気さくに話しかけてくる侍女は、リチャードの驚きようをものともせず親しみを込めた笑顔を見せる。
使用人とは本来、主に対して自分から話しかけたりはしない。余程主の方が気を許しているか、あるいは自分が年若い主を指導する立場にあるとか、特殊な場合を除いて両者の間には明確な線が引かれてあるのが普通だ。
それなのにこの侍女は、何のためらいもなくそれを乗り越えてきた。その上その内容も、酷く個人的なものだったのだ。
「私をお忘れですか、坊ちゃん」
侍女は幾分寂しそうに瞳を翳らせた。
彼女が口にした「坊ちゃん」と言う柔らかい口調に、リチャードは幼い子供の頃を思い出す。自分に向かって何度となく投げかけられた呼び名。
「君、まさか……」
「子守のアネットですよ。やっと思い出してくれたのですね」
にっこりと頬を崩す笑顔は見覚えのあるものだった。
アネットーー、覚えてる。幼い彼のあとをいつも心配しながら追いかけてきた、まるで姉のような友達のような子守の少女。
もう一人いたちょっとおっかない年配の子守と違って、アネットは彼にとても甘い性格だった。単に主の要求をはねのけるほど、経験も知識もなかっただけに過ぎないのだが、守を受ける小さな少年はベテランの熟練者よりその彼女に懐いていた。
あの、とうに記憶の中からいなくなっていた子守の少女が、成長して娘らしい雰囲気を漂わせて彼の前にいる。童顔のため、年齢よりはずっと幼くは見えるけれど、背も伸びて丸みを帯びた体は、紛れもなく大人の女性のものだ。
リチャードはくすぐったいような気恥ずかしさを覚え、顔を伏せた。
アネットはリチャードの座る雑草の中をかいくぐり、その奥にある木の下にしゃがみ込む。
彼女の手には、パンの欠片と割れた菓子の欠片が握られていた。それを木の下に置いてある大きな平たい石の上に置くと、彼女はふうっと軽く息をついて黙り込んだ。
リチャードは彼女の不思議な行動に興味が湧いてきて、後ろから覗き込んで尋ねる。
「何してるの?」
いきなり真後ろから顔を出したリチャードに、アネットは少し慌てたように早口で答え始めた。
「え? あ、ああ……、こうして置いておくと可愛い友人が食べに来るんです」
「友人?」
リチャードは呆気にとられ彼女の横に座る。アネットの声と同じくらい柔らかそうな頬が、目の前に迫ってきて少しだけびくついた。うっすらと色づいて見える頬に、彼もつられて顔が赤くなっていくようだった。
「ええ、前ここにいた子からの預かりものなんですけど。その子が飼えなくなった猫がいて、近所の農家に引き取って貰ったんです。その猫が、時々この庭にふらっとやって来るんですよ。ほら、あの隅に塀が欠けたところがあるでしょう。あそこから入って来るみたいで。だからこうやって、おやつを用意して待ってるんですよ。今日も来るかしらと思って」
アネットが指差す先に、なるほど石造りの立派な塀にもかかわらず、小さな穴があいている部分がある。その穴からやってくると教えられた影は、今はまだ見えなかった。
「そのパンとか菓子とかは、誰のなの?」
リチャードのささやかな疑問にも、アネットはすらすらと答える。
「わたしのです。食べきれなくて残したものなんですよ。あの……、残り物で悪かったでしょうか」
横に座る侍女は恥じらったように頬を染めた。公爵家の子息から見れば、あまりにも貧しい食生活に急に羞恥を感じたのだろう。
「ううん、そうは思わないけど……」
でも、君はその分お腹が空いているのではないのーー、とはどうしても聞けなかった。
フフと笑うアネットが「今日は来ないかな、猫……」と歌うように呟く。リチャードは頭を殴られたような衝撃を受けた。そうだ、猫と言ってた。
「猫って言ったよね? もしかして辞めた子って言うのはラウラのこと?」
「え、ええ……。そう言えば、ラウラさんは坊ちゃんのお側付きでしたね」
「じゃ、猫ってラウラの猫だったんだ」
「ええ」
アネットはハッとしたようにリチャードへ視線を向けると、懇願するように頭を下げた。
「坊ちゃん、このことは奥様には内緒にお願いします。あの、奥様には、猫のことは秘密でして……」
「言うわけないだろう」
拗ねたように唇を突き出して、リチャードは語尾を強めた。
「あの猫は元々僕が飼ってたんだから」
「坊ちゃん……?」
そうに違いない。ラウラは猫など飼ってはいなかった。飼っていたのは自分。だから彼女と一緒にいたのは、間違いなくリチャードが可愛がっていた弟のような奴だ。
目を見開くアネットに、リチャードは瞳を曇らせて顔を背けた。猫が生きており、元気にしているのが分かったのは嬉しかった。だがその代わり、ラウラ一人に責任を押し付け逃げてしまった自分を、とてつもなく恥ずかしい存在と思えた。
そしてそのことを、関係のないアネットにまで知られている。
「ねえ、アネット。ラウラは、田舎に帰ったのかな。僕のこと恨んでたりして……」
「いいえ」
ポツポツと呟く背中を丸めた少年を、隣に座る侍女は優しく見つめていた。暖かくて温もりのある声が、震える肩に落ちてきた。
「彼女は新しいお屋敷に移って行きましたよ。きちんと紹介状も頂けたので、勿論お勤め先もちゃんとしたお屋敷です。坊ちゃんのことは、最後まで心配してました。恨んでるとか絶対にありません」
「本当?」
「はい」
力強く頷くアネットの姿が見えない。リチャードは不覚にも涙が出ていた。みっともないと思って堪えたかったが、堰を切ったように出て止まらなかったのである。
「ごめん……、ありがとう」
「いいえ、坊ちゃん。わたしの方こそ、彼女のことをお伝え出来てよかったです」
にこやかに微笑むアネットの柔らかく緩む口元は、少女だった頃と同じようでいて、ほんのりと艶があった。リチャードは子供のように泣いている自分が無償に嫌だった。いや、彼はまだまだ子供と呼んでも、少しもおかしくない年頃だったけど。
「坊ちゃんはやめてよ。なんだか情けない気持ちになる」
「そうでした。大変申し訳ございません。リチャード様はもう学生におなりでしたのにね」
「まだ入って数年だけのお子様だけどね」
涙を見せて強がりを言うリチャードを見て、アネットはクスクスと噴き出す。彼が振り向くとしまったと言うように手で抑え、慌てて謝罪を口にした。
「も、申し訳ございません」
アネットが肩を竦めて神妙な態度を取るから、リチャードのふてくされたような気分も、きれいさっぱり晴れやかなものへと変わっていった。
彼は彼女と並んで、しばらく猫の訪れを待っていた。全てを母親に奪われたように感じてから、初めてこの荘園に来たことを喜べた日だった。
「その日から、僕は彼女と人目を忍んで会うようになった。彼女の姿が見たくて、よく裏庭をうろついたもんだ」
リチャードの灰色の瞳には何の感情も表れない。冷たくアリエルを見返したまま、いや、彼は目の前に立つアリエルすら見てないのかもしれない。
「リチャード様は、その……、アネットさんと……」
アリエルのつっかえるような質問に、彼は弾けたように笑い声を立てた。苦しそうに笑って、それから力をなくしたように遠い目になった。
「そうだよ。僕は彼女が大好きだった。凄く凄く大切で、ずっと守っていきたかった。子供がそんな気持ちを抱くなんて、君はおかしいと思うかい?」
アリエルの肩を強く掴んで大きく揺さぶり、リチャードは声を荒げる。突然の変貌に、アリエルは呼吸を忘れ揺さぶられるままとなってしまった。
「僕達は時間をみつけては会って色んな話をした。猫とも数年ぶりに再会して遊んだよ。その時もアネットは僕の側にいた。彼女は僕の横でいつも優しく笑っていてくれて、僕は一生このままだと思った」
リチャードの腕がだらしなく滑り落ちる。
「馬鹿みたいだろう、一生だなんて。あっという間に消えてなくなる儚いものだったのに」
アリエルの肩を押しやって、リチャードはフラフラと歩き出した。彼は部屋に残されていた衣装箱に近寄ると、屈み込んで蓋を開ける。
そして「あった、あった」と再び笑った。醜く崩れた酷い顔で。
「ある日ね、僕はあの女に呼び出されたのさ」
「あの女……?」
リチャードが側から離れたというのにアリエルは動けないでいた。彼の放つ見えない網に捕らわれた獲物のように、足を動かすことさえ出来ないでいるなんて。
「本当に誰か分からないのか? 君の主人だよ! 僕の母親だとか言う人さ!」
苛立ちを覗かせた大声。アリエルは泣きそうになるのを懸命に堪えて返事をする。目頭から滲んでくる涙と、震えだしそうになる唇に必死に力を込めていた。
「い、いえ……」
「あの人は僕に言った。お前は今すぐ王都の屋敷に戻りなさいとね。理由も何も口にせずに横暴に」
アリエルは譫言のように小さく呟く。
リチャードの手にあるものから視線を外すのだと。彼女は耐えられなくなりそっと目を閉じた。
見てはいけない。見たら嫌な想像しか出来なくなる。
だって、あれは違うから。あれはきっと、彼女を脅すために見せているだけ。それだけのために違いないのだから。
彼はそんな人ではない。他人に暴力を振るうような、そんな人間である筈ないのだ。
青年が片手で衣装箱の蓋を閉じて立ち上がる。その手には何かが握られていた。彼はそれを振り回すように腕を振って力説した。
「僕にはすぐに理由が分かったよ。アネットさ! 彼女とのことをどこからか耳に入れたから、あの女は行動を起こしたんだ!」
リチャードの手にあるもの。それは酷く使い込まれたように傷んだ、古い鞭だった。




