31,母と息子 2
「あ、あの女って……?」
訝しんで小声を漏らすアリエルに、リチャードは微笑み返す。
「分からない? 公爵夫人のことだよ」
返事を聞いた途端、スッと青ざめる彼女を、彼は馬鹿にしたように口の端を上げ見下ろした。
「お、お母様のことをそんな呼び方で……」
「構わないだろ、それだけのことをあいつはしたんだ!」
笑っていたかと思うと、次の瞬間には怒声で喚き散らす青年に、アリエルは為すすべもなく追い詰められていく。
結局黙り込んだ侍女を一瞥して、リチャードは荒い息を吐いて脱力したように側にある机に腰を下ろした。
長い足をだらしなく前へ広げ、寛いだように背中を曲げる。興奮した我が身がおかしいのか、彼は力が抜けた笑みを顔に貼りつけたままだった。
アリエルを暴力めいた行為で抑えつることには、何の抵抗も感じてないらしい。リチャードが座ったからと言って、彼女はどこにも彼の隙を見つけることなど出来なかった。
「どこまで話したっけ?」
脳天気な口振りで、彼は問いかけてくる。
「そうそう、友達が出来たとこまでだ」
青年は自分で質問に答え、再び軽薄な笑い声を上げていた。
初めての友人が出来たリチャードの日常は、驚くほど様変わりした。
早く館を出て彼らに会いに行きたいがために、生活態度を改めるようになったのだ。
朝起きるとすぐに身支度を始め、朝食、学習と決められたスケジュールを真面目にこなす。以前のようにこっそりと、人目を盗み館を抜け出すようなことはしなくなっていた。
元々他人を煩わせる子供ではなかったが、前にもまして大人の言うことをよくきくようになる。彼についている使用人、それから家庭教師、皆の前でとにかくいい子を振る舞った。
それらは全て自由な時間を、正々堂々手に入れるため。やんちゃな素振りを見せなくなったリチャードを、彼らは大人になったと口々に褒めそやした。
それからのリチャードは、いつも午後を館の敷地外で過ごすようになる。大人達がくれた自由に使える遊びの時間に、彼は勇んで出かけて行った。
午前中は領地の子供達も家業の手伝いをしなければならない。午後からの自由時間は少年達と遊べる、ベストなタイミングだったのだ。
リチャードは外出の際には、大抵猫を連れて行っていた。彼がいない間、猫が館内をさまよい家人に見つかるのを恐れたからだ。
それでなくても、猫に関しては慎重にならざるを得ない。常に他人の目を気にして一緒にいなければならなかった。夜は同じベッドで寝て、食事は自分の残した物をこっそり与えた。ミャアミャアと可愛い声で鳴き出したら、わざとらしい咳払いで必死になってごまかした。
彼は本気で、小さなこの生き物を自分一人で育てていく気だったのである。
しかし部屋で粗相をしたりする猫の存在が、使用人達に気づかれない筈がない。
猫の存在は、実はとっくに周囲の人間には周知の事実となっていた。リチャード付きの近侍や侍女は、分かった上で上手に彼を手助けしてくれていたのだ。
そのことに気がついてからのリチャードは、度々彼らに猫の世話を頼むようになっていく。使用人達は言うなれば彼の味方。最大の敵である両親にバレなければそれでいい。
猫は彼にとても懐いていたので、一緒に連れ出しても逃げていなくなることはなかったが、やはり日中の暑い野外を連れ回すのもかわいそうだと思い始めていた。
父や母は相変わらず彼に対し関心がない。リチャードはいつしか、安心しきって猫の世話を他人に任せるようになっていた。
「えっ、探検?」
「うん。今度一緒に探検しようよ、うちの屋根裏」
リチャードが弾むように声をかけると、リーダー格の少年ーージムが遠慮がちに尋ねてきた。
「だって、お前んちって高台にあるお屋敷だろ。いいのかよ、俺ら見つかったらめちゃくちゃ怒られるんじゃないか? 俺嫌だぜ、父ちゃんに張りまわされるの」
ジムの声に周りにいる他の少年達も同意して頷く。その目は皆、恐ろしいことに自分達を巻き込むな、とでも訴えているようだった。
リチャードは彼らの意外な反応に、目を丸くして口を噤む。
ここが地元の彼らには、とっておきの秘密基地だと念を押され連れて行かれた古い時代の建物あとや、奇妙な形で野生する大木、見たことや聞いたこともない珍しい遊びなどを教えてもらっていた。
そのどれもがリチャードの心を掴み魅了していったのだ。
都会っ子のリチャードになど、及びもつかぬほどの勇気や知識に溢れた勇ましい友人達。そんな彼らが、たかだか貴族の屋敷に入ることを尻込みしてるなんて。
「平気だよ。屋根裏に上がるのは召使い用通路からだから、お客様や父様や母様には絶対に会わないし。だから大丈夫、見つかったりしても怒られたりしないよ。だって相手は皆召使いだもの」
「でもなあーー」
ジムを始め少年達は苦い顔を止めようとしない。しょせんお坊ちゃんのリチャードは、現実の厳しさを知らないと決めつけているみたいだった。
ここでリチャードが彼らを言い負かし纏め上げ先導出来たとしたら、彼のことを「やるな」と少年達も見直してくれるかもしれない。
リチャードは必死で説得を始めた。なんとしても彼らに認めて欲しかったのだ。
「あのね、うちの館はすっごい広いんだよ。古い歴史があってね、今では使われてない部屋もいっぱいあるんだ。屋根裏はそんな部屋の一つだけど、冒険にはもってこいだろ? 薄暗くてちょっと怖いかもしれないけど、勇敢な君達ならもしも幽霊に出会ったとしても平気だよね」
「ヒィッ!」
「ゆ、幽霊なんて出るのかよ」
「ーー出るかもしれないってことだよ。僕は見たことないけど」
リチャードのからかうような口振りに、少年達は度肝を抜かれたような間抜け面をした。それから、笑う彼に覆い被さるように倒れ込み、大きな声で抗議を繰り出した。
「おい、てめぇ、リチャード!」
「アハハ、君達の顔ったら」
「ーー本当にいいんだよな?」
躊躇いがちに聞いてくるジムに、胸を張ってリチャードは答える。
「勿論だよ。僕らは友達だろ」
「うわ、やったー!」
「すげっ! お屋敷の探検だってよ。どうするよ?」
嫌な顔をしていたくせに少年達は興奮したように、誰もが叫び声を上げていた。どの顔も未知なる世界への好奇心で、キラキラと輝いている。
「約束だぞ、リッチ」
「うん、任せといて。絶対楽しいから」
その日リチャードは、間違いなく彼らのヒーローとなったのだ。いつもいつも新鮮な驚きをくれる友人達の中で、初めて自分が話題の中心となることが出来たのである。
彼は期待感で胸を膨らませながら、少年達の喜ぶ顔を眺めていた。
館に帰って来たリチャードは、出かける前と様子が変わっていることに気がつく。
遊びから戻って来た彼に、いつもお茶やお菓子を用意してくれる優しい侍女の姿がどこにも見当たらない。
リチャードは不思議に思い、彼の着替えを手伝う近侍に侍女の行方を尋ねた。
「ねえ、侍女のラウラはどうしたの?」
それに、猫の姿も見えないようだ。彼が部屋に戻って来れば、いつだって待ちかねたように柔らかい体を足に擦り付けてくる、温かくて小さな生き物の姿が。
ピクリと体を硬くする近侍が、口を開き答えを言う前に、いきなり部屋の扉が無遠慮に開く。
「その者なら暇を出しました」
冷たい声音を張り上げて入って来たのは、母親である公爵夫人、グレースであった。




