30,母と息子 1
「ど、どうし……、どうしてそんなに、母上様を……」
アリエルには分からなかった。何故、そこまで母親を忌み嫌うのか。
リチャードが館に戻って来たばかりの頃、グレースからの対面を願う声を、近侍の身でありながらきっぱりと退けたジュール。あの時の彼の態度から、リチャードとグレースの間にある因縁は、かなり深いものであるのは窺えた。
だが、アリエルには理解出来ない。
確かに母親であるグレースは、きつい性格をした女性だろう。その気性ゆえ対立した時期があっただろうことは、想像に難くない。
しかし、母親からの関わりを一切はねのけるのは、どう考えても異常だ。実際にアリエルはそんなことをしてはいないないのだが、母に自らの情報を渡したというだけで、その相手に躊躇うことなく罰を与えようとするなど普通では考えられない。
少なくとも、アリエルの記憶にある親子とは、あまりにも違いすぎる。
「知りたい?」
震えながら言葉を漏らした彼女を、リチャードは無表情で見つめていた。
「そうか、君も知りたいよね。どれだけ自分が罪深いことをしてしまったのか。何も知らずにいるのも、君のためにはならないかもしれない」
リチャードはアリエルから視線を逸らして、窓の外に顔を向ける。
遠くにある景色を目を凝らすよう見つめるその姿は、遠い過去の記憶を手繰り寄せようと、懸命に足掻いている姿でもあった。
幼い頃のリチャード少年は、夏が近づくと訪れる、このカントリーハウスが大のお気に入りだった。ここは彼にとって夢の国だったのである。
それは何故か。
彼が一年の大半を過ごす王都では、子供であるリチャードに自由など全く許されてなかった。そのくせ両親は自分に関心がないのか放任状態であり、彼の生活全般に対しては、子守に一切を任せきりにしていたのである。
しかしリチャードは、それを特段寂しいと感じたことはなかった。当時子守は二人いて、年配の女性と彼より少し年上の少女、彼女達がいつも側にいてくれたから特に不満を感じることはなかったのだ。
だが、体を動かして遊ぶには家の中は不十分だった。王都では厳重に見張られていたため、外で遊ぶことは難しかったのだ。しかも遊び相手はか弱い女性である。リチャード少年は自然、体力を持て余すこととなっていた。
しかし、ここ、この荘園でなら話は違ってくる。ここはのどかな田園地帯だった。
この荘園に常駐している使用人の多くは、田舎の大らかな気っぷに染まり、細かいことにはこだわらなかった。王都から付いて来た一部の近侍や侍女達も、ここでなら大目に見てくれた。元々両親は彼に対し執着はない。だからリチャードは、大いに羽目を外すことが出来たのだ。
彼は館を抜け出し、川で釣りをしたり、湖で泳いだりして過ごした。大人達の遊ぶ場所とは上手に住み分けをして、日が暮れるまで外遊びを楽しんだ。
子守の少女は付いて来る時もあったが、概ね一人で過ごすことが多かった。
そんな彼に新しい出会いが訪れたのは、何年目の夏だったろう。
あの時彼は、十になるかならないかの年頃だった。いつしか側から子守はいなくなっており、生活面は専属の近侍や侍女が、学習面は家庭教師が見るようになっていた。
その夏もリチャードは周囲の人間の目を盗み、館を頻繁に抜け出していた。侍従も家庭教師も、この屋敷での開放的な気風に触れうるさくは言わない。彼はいつものように、自由な日々を堪能していた。
そんなある日、出会ったのだ。
たまたま館の敷地内を飛び出し、山裾に広がるどこまでも続く田園を探索している時、道の端に生えた木の陰にわあわあと群がる人影に。
リチャードは、彼らから知らん顔で通り過ぎようとした。
この頃の彼は今と違い、人見知りの激しい少年だった。館の中で見知った人間とばかり顔を合わせる環境だったので、当然と言えば当然だったのだが。
黙って立ち去ろうとする彼に、集団の中の一人が気づいて声をかけてくる。
「おい、お前」
「え、僕?」
リチャードはびっくりした。まさか声をかけられるとは思わなかったのだ。
「お前だよ、お前。他に誰がいるんだよ」
声の主はイライラしたように彼を指差してきた。それから早く来いとばかりに手を振ってくる。
リチャードは返事も出来ないほど驚いていた。公爵家の嫡男である彼に、こんな横柄な口をきく者など今までいなかった。だが、リチャードはそれに対し、不思議なことに不快感など湧いてこない。それどころか逆にそれが、見知らぬ相手への好奇心へと変わっていったのだ。
「な、何?」
声をかけてきたのは、彼と変わらないような年かさの少年だった。体格のいい体の大きな子で、洗い晒しの裾のほつれたシャツと、同じく傷みの激しいズボンを履いていた。
他にもその場にいたのは、皆同じぐらいの子供達ばかり。どの子も似たり寄ったりの格好をしている。おそらく地元の領民達の子供だろう。集団の中に女の子の姿はなかった。
最初に声をかけてきた、リーダー格らしい少年が、側に寄って来たリチャードの肩を無理やり引っ張って、上を向けさせる。
木の上に人影があった。華奢な少年が太い幹にしがみついて「無理だ、無理だ」と喚きながら首を振っている。彼の先には枝が伸びていて、その先端の一番細い部分に、小さな生き物が引っかかったようにぶら下がっていた。
「猫だよ」
「猫?」
「ほら、首のとこ、見てみろ」
少年が示す猫の首から脇にかけてぼろ切れが巻かれてあり、それが枝に引っかかって抜けなくなっていたのだ。
「怪我してたんだよ。それで包帯代わりに巻いてやったんだ」
横から別の少年が顔を出す。彼は得意そうに、自分の着ている裂けた肌着を見せた。
リーダー格の少年が呆れたように続ける。
「馬鹿やろう。お前が無理やり捕まえてそんなことするから、あいつ怯えて逃げたんじゃないか。それで今、あんなことになってんだろ」
と、顎でしゃくって、木の上で泣いている仲間と、宙ぶらりんの猫を差す。
「だって……、まさか逃げ出すなんて思わなかったんだ」
シュンと小さく頭を下げた相手から視線を外し、リーダーの少年はリチャードの肩を掴んで、揺さぶりながら頼み込んできた。
「なあ、お前頼むよ。木に登ってあいつを助けてやってくれないか。俺は体がデカいから枝が折れそうだし、他の奴らはみんな腰抜けでさ。どうしようもないんだよ。お前見たところ運動出来そうじゃん。それに体も馬鹿デカくないし」
「ええっ?」
リチャードは仰天した。突然そんなことを見ず知らずの相手から、頼まれるとは思っていなかったのだ。
それに彼は木になど登ったことはない。そんな自分に果たして出来るだろうか。泣いている少年の二の舞になってしまっては、元も子もないのである。だけど、いつかは登ってみたいと興味を持っていたのも事実だった。
「うん、分かった」
リチャードは意を決して目の前の木を見上げると、少年達の歓声に背を押され、足を進める。
そしてーー
見事木に登り、猫を助けることに成功したのである。戻る時には泣きじゃくる彼らの仲間も、一緒に連れて帰った。痺れるような高揚感で全身が満たされていた。
「凄いぜ、お前」
降りてきた彼を、少年達は温かく迎え入れてくれた。まるで以前からの知り合いのように顔や肩をつつきまくって、喜びを分かち合う。いつの間にかリチャードの服も、彼らと同じように土や汗で薄汚れていった。
猫はおとなしく彼の胸の中でじっとしている。怪我は大したものではなかったようだが、恐ろしい思いをしたのか逃げ出すことはなかった。
「ーーねえ」
彼は目の前の少年達に話しかけた。
「この猫は君達のもの? もし違うなら僕がもらってもいい?」
「いいぜ」
彼らはニヤリと笑った。
「そいつはお前んだ」
「それが僕に初めて出来た同年代の友人だよ。僕らは急速に仲良くなっていった。彼らは僕が領主の息子だと知っても、仲間に入れて一緒に遊んでくれた。大勢の友人と過ごしたあの夏は、一人でいた時の数倍も楽しい日々だった。本当に、幸せだったよ」
リチャードはうっとりしたように頬を紅潮させて囁く。アリエルに向ける冷たい視線とは大違いの、穏やかな表情だ。
「だが、あの女が」
青年は途端に眉をしかめ険しい顔立ちになった。
「あいつが全部めちゃくちゃにした。友達も、猫も。僕が大切にしていたものを全部、奪っていったんだよ」
それは吐き捨てるような声だった。




