27,精一杯の勇気
「リ、リチャード……様?」
アリエルは、震えそうになる声を必死で抑えつけながら、自分を見下ろす表情のない青年を見返した。
長い沈黙が二人の間を落ちていく。
何故なのか、リチャードから向けられる気配が和らぐことはなかった。まるで足元の床が抜け落ちていくような、そんな心細さに全身が覆われていく。
「あ、あの……」
笑顔を作ろうと思うのだが、それは惨めにも失敗していた。頬の筋肉が強張ったままだから、引きつったような顔になってしまうだけなのである。
どうしてリチャードは、何も言ってこないのだろう。自分は何かとんでもないことを、しでかしてしまったのか。
「アリエル」
フッと空気が緩んで、低い笑い声が聞こえてきた。
「今日は遅かったね、どうしたの?」
驚いて顔を上げる彼女の目に、微笑む青年が映った。
「リチャード様」
いつもの笑顔だった。人懐こくて、するりと心の中に入ってくるような、こちらを安心させる魅力的な笑顔。
「今日は……、なかなか時間が取れなくて」
凝り固まっていた緊張がスルスルと抜けていく。アリエルはホッと息を吐いて彼の瞳を覗いてみた。柔らかい目元が丸い曲線を描いている。
(よかった、いつものリチャード様だわ)
アリエルは安心して、柔和な笑みを浮かべる青年に微笑み返した。
あの、濁ったガラス玉のように感じた眼差しは、きっと彼女の気のせいだったに違いない。よくよく考えれば、リチャードがそんな目をする筈がなかった。だって今の彼からは、禍々しい空気は少しも感じられないではないか。そう、あれはやはり、そそっかしい勘違いだったのだ。
「座ろうか」
リチャードは酷く疲れたような気だるげな表情を見せ、ソファーに倒れ込んだ。開いた胸元を隠しもせず、彼はしばらく天井を仰いだまま動かなかった。
いつもと違う青年の様子にアリエルは戸惑う。こんな小さな変化に、彼女は敏感に反応してしまっていたのだろうか。
アリエルは持参した花を飾ろうとして、部屋の中の異質さに気がついた。様子が違っていたのは、何も部屋の主だけではなかったのである。
リチャードの座るソファーの周囲に、沢山の箱が山のように積まれていた。
テーブルの上には、鮮やかな色の大輪のバラが、まるで主であるが如く鎮座している。そう言えば、甘い香りが部屋の中を充満しているようだ。
見回してみれば、至る所にいろんな種類の美しい花々が飾られている。
(どういうことかしら?)
昨日までと違う明らかな違和感に、アリエルが呆然として立ち尽くしていると、リチャードが声をかけてきた。
「座らないの?」
「え、ええ。花を……」
部屋には空いた花瓶など見当たりそうになかった。リチャードはアリエルの困惑に気がついたらしい。
「貸して」と手を差し出すと彼女から花束を受け取り、目前にある花瓶からバラを無造作に抜き取った。それから、どちらかと言えば地味な色合いのカーネーションを、当たり前のように代わりに差し込む。
「これでいい」
満足げに笑うリチャードに、アリエルは度肝を抜かれて言葉をなくした。あとに残されたのは、踏みにじられたみたいに散らばっている哀れなバラの残骸だ。
「リチャード様、これではせっかくのバラが……」
「ーーバラは嫌いだ」
アリエルの躊躇いがちな言葉に、リチャードは拗ねた子供のようにプイッと顔を背けた。幼い少年のような、甘えた口振りに彼女は驚く。今日は彼の珍しい顔ばかり見ている気がした。そのせいかもしれない。リチャードが知らない男のように思えるなんて。
膝の上に置かれた青年の指から、赤い血が流れ出しているのが見えた。バラの棘で傷を負ったのだろう。
「リチャード様、傷が」
アリエルは反射的に、顔を逸らす主の側へ近寄った。何の躊躇もなく青年の手を取り、エプロンのポケットに入れていたハンカチで傷口を固く縛る。
「取り敢えずの応急処置です。あとでジュールさんに手当てをしてもらってください」
言いながら顔を上げて、すぐ側にあるグレイの瞳とぶつかった。いつの間にかリチャードがこちらに顔を向け、アリエルの様子をじっと眺めていたのだ。
大きく開かれた瞳の中に吸い込まれそうになる。
鼻と鼻が今にも触れ合ってしまいそうに近い距離だった。鼻だけじゃない、少しだけ開いたリチャードの唇から、目が離せなくなりそうだ。
「も、申し訳ございません!」
アリエルは慌てて彼から離れた。胸の動悸が激しい騒音を奏で落ち着かない。
リチャードは再び黙り込んでしまったようだ。その眼差しはあまりに不安定に移ろっていて、何を考えているのか読みにくいものだった。
「あ、あの、そう言えばジュールさんは?」
この妙な空気を早く変えなければ。アリエルは、リチャードの後ろにいつも控えている筈の近侍の姿を捜す。そう言えば彼の声は聞いていない。いつも彼女の訪問を快く思っていないことを隠そうともしないで、嫌みを連発してくるあの冷めた眼差しの青年の声を。
「ジュールなら今出ている」
平坦な声が返ってきた。リチャードの方でも既に彼女から視線を外しているらしく、その声は、幾分遠くから聞こえてくる。
「そうですか」
アリエルは素早く周囲を見渡した。花や、よくは分からない荷物に埋め尽くされた室内のどこにも、見慣れた近侍の姿はない。
と、言うことは、今この部屋にはアリエルとリチャードの二人しかいないということになる。今ならジュールに邪魔されないで、公爵夫人のことをお願い出来るのではないか。チャンスだ。
「リチャード様」
アリエルは思い切って声を出した。極度の緊張のあまり、体の震えだけでなく目眩にまで襲われそうになったが、それら全ての不安を払いのけるように声を振り絞った。
「お願いでございます。奥様に、お母上様にお会いになっていただけませんか」




