25,嵐の前
「アリエルさん、横に座ってもよろしいですか」
アリエルが顔を上げると、同僚のリンダが立っていた。
彼女はその手に、今朝の食事とおぼしきものを携えている。食事時間はとうに過ぎており、彼女が手にしているのは残り物のスープと古いパンが少しぐらいだった。
アリエルはリンダに横の席を手で勧め、話しかける。
「今からなの? 遅いわね」
そうは言っても自分自身も遅くなっているので、リンダの持つ食事と大差はない。
「ま、わたしもあなたと変わらないんだけど」
リンダの皿に目をやり、アリエルはクスリと苦笑を浮かべ呟いた。
「ちょっと、急用を頼まれてまして……」
リンダは曖昧に笑って席に着く。いつも明け透けになんでも口にしてくる同僚の、歯切れの悪い言い方が気になった。
「何かあったの? 私がいない間に問題でも起こった?」
急な予定の変更でもあったのだろうか。だが、こちらに戻ってきて、出会う誰からもそんな話は聞いていない。
「い、いえ。そんなんじゃありません……」
リンダからは相変わらず、釈然としない答えしか返ってこなかった。
不思議に思うアリエルの横で、年若い侍女は手にしたパンをぼんやりと眺め、やがて沈んだ様子で少しづつ食べ始めた。
リチャード達との散策を済ませ、大急ぎでグレースの部屋へバラを生けに戻ったアリエルは、リンダとはすれ違いになってしまっていた。
公爵夫人の部屋にいるものと思われた彼女はそこにはおらず、だが、ドレスやアクセサリーなどの類は所定の位置に用意がされており、それらの仕事をリンダが一人で完璧に終わらせていたことに驚く。
と、同時に、とても申し訳ない気持ちに襲われて、バラを生け終わるとすぐさま、彼女の姿を捜したのだ。ごめんなさいと謝るために。
だが、リンダはどこにもいなかった。思いつく場所のどこにも見つけられなかったのである。
「ねえ、どこにいたの? 私、捜したのよ」
アリエルの問いにリンダはビクリと体を固くした。
「えっと……」
ちょこんと上を向いた可愛らしい鼻が、小刻みに揺れている。小さく閉じられた唇をキュッと噛み締めると、リンダはアリエルを見上げてきた。
「そういうアリエルさんこそ、どこにいたんですかっ?」
ブラウンの瞳を見開いて、咎めるような眼差しを向けてくる。アリエルは返ってきた反応にびっくりして問い返した。
「え、わたし?」
「そうです。今朝はいつも以上に遅かったですよね。おかげでわたし一人が、奥様のご衣装をご用意する羽目になったんですよ。センスが悪いといつも怒られるわたしがですよ。奥様のご機嫌が悪くなったらどうすればいいんですか。本当に困ったんですから。いったいどこで何をしてたんですか」
堰を切ったように非難を繰り出してくるリンダに、アリエルはタジタジになってしまった。
「わたしは……」
言えるわけない。
リチャードやジュールと一緒に、朝の庭園をのんびり散歩していたなんて。リチャードがあまりに楽しそうだったから、時間を忘れそうになってしまっただなんて。
おまけに肝心のグレースの話は、何一つ持ち出せなかったのだ。こんな不甲斐ない様では主への報告だっていつになるか分かりはしない。
だが、黙っていては怪しまれるだけだ。今は親しい同僚にすら、本当のことは言えないのである。
「実はねーー」
「分かってます、ジュールさんに会ってたんでしょう」
アリエルの声に被せるように、リンダが強く言い切った。
「えっ?」
「だから、ジュールさんとまた会ってたんですよね?」
「え、ええ……」
呆然と返事をするアリエルから、リンダは視線を逸らして一方的に断言する。
「ジュールさんとなら仕方がないですね。お二人が仲がいいのは今に始まったことではないんですもの。でも同じ職場なんだから気をつけてください。う、噂とかありますから。ほら、どこで誰が見てるか分かりませんでしょう? 噂ってすぐに広まりますからね、それで嫌な思いとか、大事な人にはさせたくないですもの」
「今朝のことは本当に悪かったわ、ごめんなさい。だけど彼のことは、あなたの誤解で……」
「と、とにかく、アリエルさんはジュールさんとお似合いだってわたしは分かっています。ジュールさんのような男の人から好きになってもらったら、わたしなら他の人には目はいきません!」
リンダは目を閉じて、半分叫ぶように言い切った。あまりに強い口調で押し切られたものだから、アリエルは言葉をなくしてしまった。いつもなら焦って止める根拠も何もないリンダの戯言に、タイミングを逃してしまい言わせるだけ言わせてしまったのだ。
「あのね、わたしと彼はただの友人よ。あなた勘違いしてるわ」
勘違いしていたのはリンダだけじゃない、アリエルもだ。当の本人であるジュールは、彼女のことを友人とすら思ってなかったのだから。
アリエルは心に浮かぶ苦々しい思いに蓋をして、振り切るようにリンダに語りかけた。
「だから、いい加減にそんなことを言うのはやめて」
「いいえ!」
リンダが彼女をまっすぐ見上げていた。目には涙までもが浮かんでいるようだった。
「ジュールさんは、アリエルさんを大事にしていると思います」
「だから、それは……深い意味はないのよ。ねえリンダ、お願い。こんな場所でそんな話はやめてちょうだい」
胸が痛くて仕方ない。何故リンダが自分の意見を、強弁に押しつけてくるのか分からない。ジュールの恋人であるアンナに聞かれたら、どうすればいいのだろうか。それにそうでなくても、他の人間に聞かれでもしたら? 更に色々と面倒なことになってしまうのに。
「いいえ」
しかし、リンダはやめなかった。素朴な顔立ちの幼い侍女は、涙をボロボロとこぼしながら、それでも思いつめたように言葉を吐き出すのだった。
「ジュールさんは、誰よりもアリエルさんを深く想っていると思います。あの人の気持ちに気づいてあげてください」
公爵夫人に頼まれ、客人の一人ダルリャック伯爵夫人の部屋へ、届け物をして戻って来たアリエルは、難しい顔をしたグレースに迎えられた。
まだ昼を少し過ぎたぐらいの時間だと言うのに、今日は夫人から色々と用事を言付けられている。おかげで酷く忙しく、早朝共に散歩をしたきり、リチャードの部屋を訪ねて行くことは叶わなかった。
「ただいま戻りました」
アリエルが伯爵夫人からの返礼の手紙を差し出すと、グレースは確認もせずにそれを机の上に置いた。
彼女はくすんだグレイの瞳で、前に立つアリエルを瞬きもせず見つめてくる。淀んだ空を思わせる暗い瞳の色は、リチャードによく似ており、やはり親子だとアリエルは思うのだった。
「ご苦労様」
グレースはねぎらいの言葉を口にしたが、その言い方は随分と冷ややかなものだ。
元々グレースという女性は、人当たりのよい印象を与えるような人物ではない。上位貴族の生まれに誇りを持ち、気位の高い貴婦人なのである。それ故、人一倍プライドが高く、そのせいか、優しさだとか、柔らかさなどといった穏やかな雰囲気を与えにくい面があった。
しかし、外見が冷たく見えるからと言って、内面まで氷のような人物である筈がない。アリエルは主との付き合いで、普段は分かりにくい情のような部分にも触れたことが何度もあった。だからアリエルは、グレースのことを見た目通りの傲慢な女性だとは思っていない。が、今日の公爵夫人は、付き合いの長いアリエルから見ても、恐いくらいの冷淡さを纏っていた。
気まずい空気に耐えきれず、アリエルは夫人に申し出る。
「奥様、他に何かございますでしょうか」
「そうね……」
夫人の視線がそれ、アリエルはホッと息をついた。
彼女はグレースから漂う暗く重々しい圧迫感に、言いようのない不安を覚えていた。
自分の中に秘密を抱え込んでいるのだから当然だ。考えたくはないが、それがとうとう主の知るところになったのだろうか。
「あなたには何をしてもらおうかしら」
夫人は思い煩うように目線を動かせ口にした。考え込むように、しばらく思案を深め目を閉じる。
何気なく夫人の背後に目をやり、アリエルは気がついた。
彼女が戻ってきた時に、部屋にはグレースしかいなかったのである。つまり、リンダの姿はここにはなかった。
「リンダにはお客様への手紙を頼んだの。アーセナル侯爵家のお嬢様とコンチェルジャン伯爵家のお嬢様よ」
さりげなく視線を巡らせるアリエルに気づいたのか、グレースは疑問に答えるよう告げてきた。
「そ、そうでございますか……」
「あなたにも頼もうかと思ったけどやめたわ。ーーあなたはここでわたしを手伝ってちょうだい」
グレースは椅子から立ち上がりアリエルを振り返る。きっちりと姿勢を正して、挑むような視線だった。
よくは分からないが、アリエルの秘密について彼女はまだ何も知らないようだ。もしも、グレースがリチャードとのことを耳にしたら、こんなふうにアリエルに何も言わず接するなど考えられない。厳しく問いつめてきて、場合によってはきっぱりと首を宣告してくるだろう。
アリエルは最悪の事態ではなかったことに安堵した。夫人の様子がおかしかったのは、何か他に理由があるのだろう。だがそれを詮索する権利などアリエルにはない。彼女は微笑を讃えて頭を下げた。
「は、はい、畏まりました。奥様」
「今夜は特別なパーティーを開きます。その準備を今からしなくてはいけません」
公爵夫人はいやにはっきりとした口振りで、まるで宣言するかのように口にした。その表情はやはり、いつもの彼女とは違っていたのである。
「ジュール、今日はアリエル来ないね」
リチャードが窓から覗く空を見ながら、退屈そうに呟く。
そんな主の我が儘に付き合わされ、深夜に続き、ジュールはカードの相手を努めさせられていた。
「朝会ったんだから別にいいでしょう。彼女も忙しいんだから」
アリエルの話題が出ると、どうしても突き放すような口振りになってしまう。本人を前にしてるわけでもないのに苛立ってしまうのだ。だが、そんな彼の言い種などまるで気にならないのか、リチャードの方は、独り言のようにブツブツとぼやくのをやめなかった。
「だけど、いつもだったらとっくに来てるじゃないか。ほら、花を持ってさ」
言いながら引いたカードを一瞥したリチャードは、突然手元をぐちゃぐちゃにしてソファーから立ち上がった。
「カードも飽きたな。なんか目新しいものがしたくなった」
いきなりゲームをリセットしたかのような態度を取るリチャードに呆れ、ジュールも仕方なく手札を捨てる。
「リッチ、いいのがこなかったからって、君ねえ……」
「そうだ、ジュール。この前アリエルと話したんだけど、今度三人で屋根裏を探検しないか?」
「屋根裏?」
抗議を全くなかったことにされた近侍は、ムッとしながらも明るく笑う主の青年に聞き返した。
「ああ、このカントリーハウスの屋根裏さ。結構楽しいんだぞ。子供の頃、一人でして以来だけど」
目を生き生きと輝かせて語ってくるリチャードに、ついつい根負けしてジュールも苦笑してしまう。
「一人で? 君、怖くて泣いたりしたんじゃないか」
ジュールの意地悪な質問にもリチャードはあっけらかんと答えた。
「泣いたかもな。よく覚えてないけど。なあ、それよりいいだろ? 彼女が来たら、予定決めようよ」
「予定って、あっちは自分では決められないって。そのくらい分かるだろう?」
「堅いな、ジュールは。だいたいでいいんだよ、だいたいで」
立ち上がったリチャードが、真面目な近侍に文句を言っていると、扉をノックする音が聞こえてきた。
「きっと、アリエルだよ」
リチャードはパッと笑顔になって、音のする方へ歩いて行く。
ジュールが「待って、僕が開けるから」と呼び止めるのを無視して、「いいからいいから、君は座ってろ」とおどけたようにウインクをして扉へ急いだ。
そして、彼はろくに確認もせずいきなり扉を開けた。
「やあ、アリエル。遅かったね。待ちかねたよ」と、気さくに笑いながら。
だが、それも仕方がなかったのかもしれない。リチャードの部屋は使用人達の間では立ち入り禁止となっていたし、ましてや客人達の方は彼の存在さえ知らされてなかったのだから。
そのため、この部屋を訪れるのはアリエル一人だったので、彼はすっかり油断してしまっていたのだ。そう、この時まではーー。
扉の前にいたのは、見知らぬ侍女だった。
地味な顔立ちの目立たぬ容貌の女は、困ったように首を傾げて言葉を紡ぐ。
「お初にお目にかかります。突然、お部屋を訪ねるご無礼をお許しください。わたくしはアーセナル侯爵家の者でございます。公爵夫人グレース様よりお許しをいただき、ご嫡男リチャード様へのお見舞いを主と共にお届けに参りました。ぜひお取り次ぎをお願い致します」
一瞬、何を言われたのか分からなくて、リチャードは戸惑った。
ようやく朧気ながら理解出来た彼の鼻腔に、むせかえるような香水のきつい匂いが迫ってきた。
侍女の少し後ろに、派手に着飾る娘が恥じらうように立っていた。このもじもじとした仕草の、リチャードを盗み見るどこといって特徴のない娘が、この女の主なのだろう。その横にいる、同じように着飾ったけばけばしい年配の貴婦人は、顔立ちから見て母親で間違いない筈だ。
母娘の後ろにはさらに数名の侍女が立っており、彼女達は見舞いとおぼしき荷物を抱えている。
リチャードは、頭を硬い何かで殴られたような気がしてふらつく。彼は少しずつ後退しながら部屋の中に戻ろうとして、背後から近寄って来たジュールに背中を受け止められた。
「どうした、リチャード?」
小声で囁いたジュールの言葉に、女達は即座に反応した。
先に訪問を告げた侍女を押しのけ、派手な装いの母親がリチャードの前に娘を伴い割って入ってきた。
「初めまして、リチャード様。突然の訪問をお許しくださいませね。わたくし、アーセナル侯爵家のフレィアと申します。こちらは娘のマチルゼですわ。わたくし達、公爵夫人よりあなた様のことを伺いましたの。それでお見舞いに馳せ参じましたのよ。お加減はいかがですか、リチャード様」
「あ、あの、奥様。困ります」
「なんでもお怪我をなさってたんですって? でもお顔の色はよろしいですわね。よかったわ」
強引に部屋への進入を試みる母親にジュールが慌てて声をかけるが、相手は全く意に介さずどんどんと距離をつめてくる。どうしようもなかった。
無理やり押しかけてきた歓迎されざる侵入者を目の前に、二人の青年はなすすべもなく立ち尽くすしかなかったのだ。




