24,早朝の散歩
陽光を弾く朝露が花びらを伝ってツンと落ちた。濡れた花弁は眩しいほどの瑞々しさで、赤や黄色といった美しい色を纏い、競うように盛りの時を誇っている。
朝の人気ないカントリーハウスの庭園内を、そぞろに歩く男女がいた。
グルム公爵子息リチャードとその近侍ジュール、そして侍女のアリエルだ。
彼らの他には、人影は見当たらない。
だが、ハウスの主ーー公爵夫妻や客人達は部屋で就寝中とはいえ使用人は違う。早朝からそれぞれ仕事をこなしているため、むやみやたらに動き回ると姿を見られる危険があった。
しかし、アリエルとジュールは以前より人目を盗んで落ち合う習慣があり、他人を避けるポイントは習得していた。
そんな訳で、三人は誰にも会うことなく、見事庭への脱出に成功していたのだ。
「しかしアリエルには驚いたね。こんなに早く迎えに来るとは思わなかったよ」
リチャードは右手でステッキをつきながらゆっくりと足を進め、横を歩くアリエルに笑いかけた。
彼が驚くのも無理はないだろう。彼女は起床して身支度を整えると、その足で彼らの部屋へと赴いたのだから。
窓の外はまだ薄暗く、あまりにも早い訪問を咎められはしないかと、不安になりながらアリエルは扉をノックした。すると、何と若き主と近侍は、既に用意を整え待っていたのだった。その周到さに、彼女の方こそ度肝を抜かれたのは秘密だ。
それから三人は、暗がりに乗じて館を抜け出した。
だが今は当然朝日の恩恵を受けて、明るい光の中を色とりどりの花を愛でながら歩いている。
「申し訳ございません。これ以上遅い時間ですと、あまりゆっくりしていることが出来ないものですから」
眉を下げたアリエルは首をすくめて苦笑を返した。
「ですが、リチャード様のお支度が済んでらっしゃるとは夢にも思いませんでした。いったいいつお目覚めになられたのですか?」
彼女の疑問に、リチャードは背後のジュールをおどけた表情で窺う。ステッキをつく青年のすぐ後ろには、不機嫌顔の近侍が控えていた。
「奴に叩き起こされたのさ。早くしろとね」
リチャードのふざけた物言いに、近侍はピシャリと言い返す。
「嘘を仰いなされませんよう。浮き浮きして眠れないからと、僕に徹夜のゲームに付き合えとわがまま放題だったのはどこのどなたですか?」
ジュールは眠そうな目を眩しげに細めて、前を歩く主を軽く睨みつける。明るいグリーンの瞳が光を取り込み鮮やかに輝いて、彼の整った横顔を一層魅力的に引き立てていた。
その姿は、普段の彼そのもの。リチャードが帰還してからの、ちょっと皮肉屋で意地悪な側面を見せる『彼』である。そしてその口振りからは、アリエルに酷い一言を投げかけておいて、それを後悔しているという様子など微塵も感じられなかった。あれはアリエル一人が見た白昼夢だったのだろうか。そう思いたくなってしまうほどだった。
いつもと何ら変わらない様子を見せるジュールを、アリエルは腹立たしく思いながら、態度には出さないよう気をつけていた。だが心の中では彼への不満が、片時も離れることなく渦を巻いている。
ジュールに詰め寄り本音を問いただしてやりたい。真意は何だったのかと改めて尋ねてみせようか。だが、きっぱりと自分を否定されてしまったら、きっと立ち直れないだろう。だから聞けないのだ、何一つ。
四年間、一番身近に感じていた家族のような大切な存在。その彼に、拭いきれない不信感と突き放されたような距離感を覚えて、彼女は途方に暮れていた。
「やっぱり外の空気はいいね。晴れやかな気持ちになるよ。散歩に誘ってくれてありがとう、アリエル」
リチャードが首を傾げて彼女の顔を覗いていた。咄嗟に笑顔を作り主への返礼をする。
「そんな、リチャード様のお役にたてて良かったですわ。わたしの方こそ貴重な時間をお供させていただいて、とても光栄です」
(いけない、いけない。ジュールのことなんか考えてぼんやりしてたら駄目じゃない。何をするためにリチャード様を誘ったの? 奥様のことをお願いするためでしょう)
アリエルの慌てた素振りにリチャードは柔らかく微笑みを返し、それから前方に見える東屋に気がつくと指を差して大声を上げた。
「懐かしいな。子供の頃と何ら変わってない」
「何を興奮しているのです。当たり前でしょう?」
ジュールが冷めた口調で呆れたように諌める。冷静に切り返してくる近侍を、不満げに眺めリチャードは反論した。
「何だよジュール、僕はもうずっと何年も戻ってなかったんだぞ。興奮して何が悪い」
「ご自分の都合が原因ではないですか。皆様、あなたにお会いするのをお望みでしたのに、それをあなたは……」
ぶつくさと小言をやめないジュールを無視して、リチャードはアリエルの方へ片目を瞑ってみせた。
「アリエル、あそこで少し休もうよ」
そう言って東屋へと彼女を促すと、ステッキを素早く動かし覚束ない足取りでそちらを目指し出した。
上空では鳥達が合唱でも始めたかのようにさえずりながら、森の方へと群れをなして飛んで行く。空は抜けるように青く、今日も素晴らしい快晴なのだろう。
庭園の中程に建てられた東屋は人工的に造られた池を渡る欄干の先にあり、八角形の屋根を支える柱と数人が座れるベンチがあるのみの簡素な建物で、美しい色に彩られた花達の中においては素朴な風情の佇まいだった。
リチャードはベンチに腰を下ろすと、アリエルとジュールに座るよう手を振った。主と共に座るなどとんでもない、などと今更言っても無駄なことくらい二人はとっくに理解している。
よって、彼らは素直に腰かけた。満足そうに笑って、リチャードはその様子を見ている。
「長い距離を歩くのはさすがに疲れたよ。もう平気だと思っていたんだけど」
「申し訳ございません。わたしのせいですね」
アリエルは項垂れて自分の非を詫びた。散策は彼女の提案だった。彼には庭歩きなどまだ早すぎたのだろう。それなのに急ぎすぎてしまった。全部こちらの勝手な思惑が原因だ。
だがリチャードはびっくりしたように目を見開いて、彼女の言を否定する。
「何を言うのさ、アリエル。君が熱心に誘ってくれたから、こんな清々しい空気を胸一杯に吸えるのに」
「そうですよね、本当に。部屋でくすぶっていてもわがまま言うくらいで、ストレスを発散する方法など何もなかったですものね」
ジュールが再び棘のある言葉で割り込む。よっぽど機嫌が悪いらしい。
グレーの瞳を面白そうに輝かせ、ステッキを突き身を乗り出した青年が彼に問いかけた。
「君、いやに絡むね。何かあったの?」
「いえ、何も」
「そうかな」
リチャードは首を傾けるとアリエルに視線を戻した。
「君はどう思う、アリエル?」
突然主に話を振られ彼女は口籠った。お陰で切り出そうと思案していた公爵夫人のことが、頭から飛んでいってしまった。
「さ、さあ……わたしは……」
ジュールのことなど分かるわけがない。ついこの間までは、彼を誰よりも理解してると自負していた。だが、それは全て幻だった。つまりは、そういうことなのだ。
アリエルの口元に自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「ふうん」
リチャードは、お互いに視線を合わせない目前の二人を、にやにやしながら見比べていた。何だかとても人の悪い笑みだ。
「面白いね、君達は。どうやら喧嘩でもしたらしい。まるで子供だね」
そう茶化すように囃し立て「何が原因なんだい?」としつこく二人をからかってきた。
彼の関心は周囲の景色から、近侍と侍女の微妙な空気へと移っていったようだ。片眉を上げ二人を見下ろす顔付きは、新しい玩具を見つけた少年のように生き生きとしていた。
朝の庭園に楽しげにはしゃぐ青年の声が響く。
ジュールは黙りを決め込んだのか、表情を消して何も言おうとしない。いくら友人だとしても主に対してその態度は許されないだろう。仕方がないから彼女が適当なことを口にするしかなくなる。
(何よ、ジュールってば。何か言いなさいよ)
アリエルは主の追及を交わすのに必死だった。彼女の拙い誤魔化しに騙されてくれるほど、リチャードの性格は甘いものではなかったから。
だから気づかなかったのだ。
物音も立てず息をも潜め、陰から彼らの様子を窺い見つめる、第三者の不審な視線があったことに。




