22,密談
「わたしがリチャード様のご友人に?」
「そう、駄目かな?」
驚きのあまり口がポカンと空いたままのアリエルを、口元を緩く曲げた目の前の青年が愉快そうに見つめている。
「駄目だなんて、そんな……」
憧れの若き主から遠慮のない視線を向けられ、彼女は真っ赤になって狼狽えていた。
友人になれなどと言うなんて、リチャードの思惑がまるで読めない。ただジュールと親しくしている侍女という者に、単に興味を惹かれただけなのだろうけど……。
「リチャード様」
その時見つめ合う二人の横から、低く尖った声が響く。アリエルの隣に座るジュールのものだった。
「お願いでございます。使用人をからかうのはおやめ下さい。あなたはよいかもしれませんが、こちらはお仕えしている身なのですよ」
彼は部屋に入ってから、初めて彼女へ視線を寄越した。しかしそれは、彼らしからぬ冷たい眼差しであった。
「それにアリ……じゃない、この侍女は奥様付きなのです。お分かりですか? それでもよろしいのですか?」
ジュールの冷静な声が、どちらかと言えば悪のり気味な主人を諌めていた。使用人の分際でここまで忌憚のない意見が言えるとは、彼らが友人同士だということはあながち冗談でもないらしい。
「そうだなあ……」
リチャードは考え込むように、顎に手を当て唇を閉ざした。
アリエルが公爵夫人付きだということを今更ながら思い出したのか、そのまま眉間に皺を寄せ難しい顔をしている。
リチャードの厳しい表情に身をすくませ、彼女はぎこちなく体を動かした。
やはり、公爵夫人と彼らは敵対していたのだろうか。だから夫人側のアリエルと仲良くなど、とんでもないと言うことなのか。
「大丈夫だよ」
口を開いたリチャードは自信たっぷりに言い切った。
「アリエルはそんな娘じゃない。そうだろう、ジュール?」
リチャードとジュール、二人の男達から熱い視線が向けられる。彼女は訳も分からず嫌な汗が脇を伝うのを感じていた。
何故こんなに強い眼差しで凝視してくるのだろう。いたたまれないではないか。
アリエル、とリチャードが甘く囁いた。
唇を硬く結んで彼女は彼を見上げた。いまだカチコチの彼女に柔らかい声が届く。
「僕と君が友人になったことは僕らだけの秘密だ。いいね、誰にも内緒だよ。勿論、君のご主人にも絶対秘密だ。僕らの約束、守れるよね?」
「秘密……?」
アリエルの主人は、言わずと知れた公爵夫人グレースである。つまりリチャードは、自分の母親には黙っておくようにと申し付けているのだ。
「そう、秘密」
悪戯好きな少年のように瞳を輝かせて青年は頷いた。それは甘い、どこか誘惑めいた言い回しだった。
「……かしこまりました、リチャード様」
遂に彼女は観念して了承を口にする。応えた瞬間、肩から力が抜けていくようであった。
だが考えてみれば、断れる道理はどこにもない。
憧れの男性に、友人になってほしいと申し込まれ、拒絶することの出来る女などいやしないのだから。
「そんな硬い話し方は、友人とは言えないよ」
リチャードが茶目っ気たっぷりに彼女をからかった。麗しい容貌の青年が、おどけた道化師のようにコミカルな表情に変わる。
思わず彼女から笑みがこぼれた。小さな笑い声を漏らしたアリエルを、リチャードは暖かい眼差しで見つめていた。
「どういうつもりなんだ?」
「何が?」
ジュールの咎めるような呟きに、リチャードは静かな声で返した。紅茶の入ったカップをソーサーの上に下ろすと、目前の青年を穏やかに見つめる。
対してジュールは硬い表情のままだった。
「アリエルのことだよ。彼女で遊ぶのはやめてくれないか?」
「遊び? 僕は至極真面目だけど? 本気で彼女と友達になりたいんだ」
リチャードは微笑みながら断言した。
だがジュールはニコリともしない。
二人は相変わらず、向かい合うようにソファーに腰かけていた。他には誰もいない。アリエルは少し前に部屋を辞していた。
「彼女と本気で友情を築きたいと? 君が?」
ジュールはリチャードに仕える近侍とは思えぬほど、不遜な態度を崩さない。そして主であるリチャードも、ジュールの言動に何ら疑問を持つ様子はない。
それはやはり、二人が立場を越えた本当の友人だからなのだろう。でなければ説明がつかない。ここまで砕けた物言いをする侍従などいる訳ないのだ。
「そうだよ。君の親友なら僕だって付き合えると思うんだ。君だって彼女をいつも自慢してたじゃないか。素晴らしい友人だと」
「……だが、アリエルは……」
「母のことなら心配無用だ」
リチャードは背もたれに体を預け、天井を仰ぐよう上を向いた。
「アリエルは信用出来る侍女だろう? 僕のことをあの人に告げ口したりはしない筈だ」
「勿論、アリエルはそんな人間じゃない。だが、君は……」
言葉を飲み込むジュールを、リチャードはグレーの瞳を細めて見つめる。
「僕が何?」
途端に苦しげな声を上げてジュールが呻いた。
「君は……、……そんな成りで帰ってきたことも誤魔化して、きちんと釈明してくれなかったじゃないか。適当にはぐらかしてばかりで……」
「この傷のことか?」
ブラウンの髪を揺らし顔の手当てあとを指差しながら、リチャードが質問を重ねる。
「ああ、そうだよ。僕は曖昧な説明しか受けていない」
ジュールの表情は和らぐことはなかった。眉を潜めたままの近侍を見て、溜め息混じりにリチャードは前髪を掻き上げた。
「嵌められたんだよ」
そしてふてくされたようにぼやく。
「嵌められた?」
「ああ、ちょっとムシャクシャすることがあって。あるパーティーで誘われるまま、知らないパブに入ってしまったんだ」
リチャードはうんざりしたように眉をしかめた。思い出したくもない記憶であるらしい。
「誰とだよ?」
「初めて会った奴さ。たまたまその日のパーティーで意気投合したんだよ」
「何だって?」
「その男が勧めるパブで面白い遊びが出来ると言うから、つい……」
ジュールの険しい眼差しにリチャードは首をすくねてみせた。
「なんのことはない。ただの賭けゲームだったよ。ごくありきたりのね」
「……それでカモにされたという訳か?」
低い口調でジュールが問いかける。重く詰問するかのような厳しい声だった。反対に若き主は、ふざけたような軽口で切り返す。
「カモ? いいや違う。その逆だよ。なんとこちらの方が、一人で大勝ちしてしまった。僕を罠にかけようと息巻いていた男達を、軒並みすっからかんにしてやったんだよ」
驚くジュールを見てリチャードは噴き出した。
「まさに今の君と同じ顔をしていたな。僕をパブに誘った男もね」
「では、その怪我は……」
「そういうこと。カモにするつもりが逆にカモられて、怒りにかられた男達から報復を受けてしまったって訳だ。結果的に有り金も全て奪われてしまい、身体中殴られるし、最後は表にゴミのように放り出されるしで、全く酷い目に合ったよ」
平然と言い放つリチャードにジュールが目を剥く。
「なんて無謀なことをするんだ、君は! バートは? 勿論連れて行ってたんだろうな?」
バートとは、リチャードが過ごしていた王都の別宅で彼に付いていた近侍である。王都での彼は、執事はおろか侍女なども側に置いてなかった。
向こうで彼の身の回りを世話していたのは、通いの料理人をよければ近侍のバート、ただ一人だけだった。
「バートにはその日暇を与えていた。パーティーへは僕一人で行ったんだよ」
「何故そんな危険なことをするんだ?」
「何故かな。時々無性に羽目を外したくなるんだ。いつもは君も知っての通り、社交界などへも出ず引きこもった生活をしてるだろう? だからたまに息抜きがしたくなるんだよ、きっと」
呆れたような顔で黙り込むジュールから目を逸らし、リチャードは再びカップに口をつけた。紅茶はすっかり冷めてぬるくなっていたが、彼は構わずそれを飲み干す。
「とにかく、あまり無茶をしてると命を落とすぞ。君は少しその辺りに気をつけないと……」
またもやジュールのお小言が始まりそうだ。公爵子息は慌てて声を上げた。
「無事に戻って来たんだから構わないだろう。この度のことはさすがに僕も反省している。しばらくはこっちでおとなしくしているから……」
その言葉を聞いて、やっと近侍の青年から微かな笑みがこぼれた。渋々といった面持ちではあったが、リッチ、と彼は気さくに話しかけてきた。
「それでどうやって向こうから帰って来たんだ? 金はなかったんだろう? バートには君がこちらへ戻って来ていることは既に伝えているが、彼も心配したことだろう」
リチャードは内心ホッと息を吐きながら、表面上は平然とした顔のまま答える。
「実はね、いざというときのために懐中時計を隠し持っていたんだ。それを通りがかった馬車を引く御者に渡してここまで運んでもらったんだよ」
「……それなら、何故王都の屋敷に帰らない?」
リチャードの答えにジュールは訝しんだ。彼の説明に矛盾を感じたらしい。
確かに王都からこの地まではあまりに遠い。何故わざわざ遠路を、との考えは誰でも浮かぶだろう。
公爵子息は急いで付け加える。
「分からないよ。頭を酷く打ってたし気が動転してたんだろう。とにかく早く横になりたかった。その時浮かんだのがたまたまこの荘園だっただけさ」
ジュールは黙って目前の青年を見つめた。
青年は視線から逃れるようにソファーから立ち上がると、足を労るようにゆっくりと歩き始めた。彼は右足を捻挫していた。そのため歩くのも一苦労だった。
すぐにジュールも立ち上がり、リチャードへ手を貸す。
「大丈夫か? ベッドに戻るか?」
リチャードは昨日目覚めたばかりである。
目を開けた彼は、自分を見つめるジュールに驚いてしばらく呆然としていた。
それから少しして記憶を取り戻したのか、ようやく安堵の息を吐き弱々しい笑みを見せた。その際彼がした説明は、どう考えても適当なものだったのでジュールは納得などしてなかった。
しかし、リチャードは怪我を負っており命に別状はないとは言え、完治はまだ随分先の話だ。しかも目を覚ましたばかりで、事態を省みることも今はとても難しいだろう。
そんなこともあり、結局詳しい話を聞くことは諦めた。
ジュールは、リチャードが意識を戻した際はすぐさま報告をするよう命じられており、公爵の元へと急いだ。
焦らずとも、いずれ彼の方から話してくれるだろう。そう思って待つことにしたのだった。
それなのにーー
リチャードは説明どころか、アリエルと友人になろうなどと能天気にも言い出す始末。
ようやく聞けた帰還の真相も今一つ胡散臭い。ジュールは彼の心情が少しも分からなかった。
「ありがとう、頼む。少し休むよ」
リチャードが眉を下げて遠慮がちに微笑む。
「王都からここまでは距離があるからね。御者も荘園の入り口で僕をさっさと引きずり降ろして戻って行ったんだ。だけどここまで連れ帰ってくれたんだから感謝しないと駄目だよね」
「もういいから黙ってろ」
素っ気なく言って話を遮ってしまう。リチャードの弱っている姿を見るのは辛かった。二人でいると遠い昔に戻ったような気がして、ぞんざいな口調が酷くなる。あの頃と何も変わってないような気がするのは、あくまでも気のせいに過ぎないのに。
実際は大いに変わっているのだ。今の彼らは主従の関係を結んでいるのだから。
「バラ園までは自力で歩いたんだが、あの場所で気を失ってしまったらしい。命を落とすこともなく、君達に発見してもらえて本当によかったよ」
リチャードがからかうように片目を瞑った。ジュールの説教を揶揄しているようにしか見えない。
ベッドに腰かけたリチャードが深く背中を倒して横になる。
ジュールは彼の体に薄いリネンのシーツをかけた。「ありがとう」
リチャードが笑いながら礼を口にした。
「もう無茶はよすんだ。これからは自分を大事にしないと駄目だぞ。それくらい君だって、本当は分かっているんだろう?」
しつこく忠告を繰り返してくる近侍を、若き主は意地悪く見返す。
「そんなに心配なら、バートの代わりにジュールが僕の側に来たらいい。どうなんだ、一緒に王都へ戻ってくれるのか?」
「それは……」
「ほらね、また振られたよ」
途方に暮れたように口籠る青年を、リチャードは苦笑を浮かべて手で追い払った。
「僕はもう眠る。悪いけど一人にしてくれ」
それから目を閉じてシーツで顔を隠した。
ジュールは小さく息を吐くと、ベッドの上の動かない主に頭を下げる。
「……かしこまりました。お休みなさいませ、リチャード様」
小さな声で囁くように告げたあと、彼は静かに寝室を出て行った。




