2,ターゲットは貴公子
アリエルは正真正銘、男爵令嬢だ。
だが確かにグルム公爵家と比べると、貴族と口にするのがおこがましい程、身分に差があるのは事実なのだが。
彼女の父親、フランツ・ヴィンセント・オルド男爵は、現在王宮で書記官として務めている。オルド男爵家は代々続いた由緒ある家系だ。
しかも祖父の代に始めた事業が当たり、その頃の男爵家はとても裕福な暮らしぶりだったらしい。
そんな男爵家のご令嬢が、何故侍女などをしているのか?
それは現在のオルド男爵家が、生活にとても困っているからだ。
そして、その原因は全て父にあった。
彼女の父のフランツは、とても美しい人だ。
中年と言われる年齢になった現在でも、その美しさに翳りはない。
アリエルの美貌は、母譲りではなく父親譲りである。
しかしフランツは外見だけの男で、貴族としての処世術も、ピンチに対する気転も頭の回転の早さも、何も無かった。
彼は、ただのずば抜けたお人好しに過ぎなかったのだ。
祖父が大きくした事業を父が継いだ途端、彼は悪意を持った人間に騙されて会社を奪われてしまう。辛うじて残ったのは先祖代々の屋敷と少しの領地のみ。
当然生活は貧窮する。フランツは後を継ぐ前に務めていた王宮書記官に復職した。だが、それは焼け石に水のようなものだった。
オルド男爵家では、それからずっと慎ましい生活を送っている。勿論使用人など一人もいない。当主自ら何でもする。
アリエルも幼い頃から自分のことは自分でしてきた。両親を助け、家族皆でささやかに生きてきたのだ。
その頃からだったかもしれない。彼女が結婚に夢を持つようになったのは。
普通の少女が見る夢ではない。もっと切実なものだ。
曰く、出来ることなら玉の輿に乗りたい。経済的に恵まれた人に嫁いで両親にも楽をさせてあげたい。
いつしか、そう強く望むようになっていたのだった。
十四才になったアリエルは、そろそろ社交会へのデビューを考える年になった。
良い嫁ぎ先を見付けるにはデビューの方が近道だっただろう。
彼女は自分の美貌に気がついていた。デビューさえすれば、素晴らしい理想の相手を掴まえる自信があったのだ。
だが、男爵家にはデビューの体裁を整える資金が無かった。
アリエルは泣く泣くデビューを諦め別の道を探す。
それが有力貴族の屋敷に奉公に入り、その家の息子、或いは客人に見初められると言うものだ。
「でも、それだったら王宮に入った方が手っ取り早かったんじゃないか? 現に宮殿には、箔を付けて良い相手に嫁ぐために出仕するご令嬢も多いだろ。それにあちらの方が、君の望む相手の目に留まる可能性が高い」
ジュールは片手を顎の下に持ってきて、考え込むような仕草をする。
「それはわたしも気がついてたわ。だけど、父が絶対に駄目だと言って了承してくれなかったの」
アリエルが王宮で務めたいと言った時、父親のフランツは頑として首を縦に振らなかった。
「宮殿は恐ろしい妖怪が住んでいる悪魔の巣窟なんだ。わたしは大事な娘をそんな所にやりたくない、とかなんとか言って絶対に認めてくれなかったわ。涙まで流されたら、さすがに無理は言えなかったのよ」
アリエルは過去を思い出して溜め息を吐く。
あの時強引に王宮に入っていたら、今頃はとっくに幸せな結婚をしていたかもしれない。
「涙を? それは凄い説得の仕方だな」
ジュールは口元を隠し驚く。
「そうよ。いったい宮殿で何を見たのかしら? 父が過ごす所なんか端の端のそのまた端よ。有力な貴族とは会いもしないし。ましてや、どろどろの政治や恐ろしい悪巧みとは無縁の人間よ」
ジュールは自信ありげに片目を瞑って言った。
「君のお父上は美しい方なんだろう? 恐らくだが、女性とのトラブルだろうな」
アリエルはジュールの意外な考えに絶句する。
彼女には、父親が女性と揉め事を起こす場面が想像出来ない。いくら外見は良くても男としての魅力に欠ける。彼女は身内なだけに厳しかった。
「それはそうと、そろそろ戻らないとまずいんじゃないか? 僕は執事のハンスさんに用事を頼まれていたんだ」
ジュールが辺りを気にして口早に言う。
「少し位大丈夫よ。近侍はあなただけじゃないじゃない。万障滞りなくトムがやってくれているわ」
アリエルが頬を膨らませてそう言うと、ジュールは軽く溜め息を吐いて彼女を見つめた。
「……それはそうなんだが、そのトムが余計にまずい。もし君と一緒にいたのがあいつの耳に入ると、面倒なことになる」
ジュールは小さい声で呟いた。
「何を言っているの?」
彼女は聞き取れなくて身を乗り出す。
ハッと気がついたジュールが視線を向けてきた。
アリエルも少し遅れて気がつく。あまりにも彼と近づき過ぎていた。
彼女のすぐ前に彼の顔がある。瞳も唇も触れそうな程に近かった。
アリエルは素早く身を翻し、彼から離れて後ろを向いた。
「トムがどうかしたの?」
訳も無く声が震えそうになって、自分の反応に戸惑ってしまう。
背後でジュールが動く気配がして、アリエルは振り向いた。
「トムはいい奴だ。だけど思い込みの激しい面がある。君にその気がないなら、あまり刺激しない方がいい」
ジュールは真剣な顔で告げてきた。いつもの彼とはどことなく雰囲気が違う。
「どういう意味なの?」
アリエルの眉間に深い皺が寄っていた。
ジュールが慌てて媚びるような笑顔で笑った。
「だから、彼に気がないならーー」
「気がないなら、ですって! 誰が誰に気があると言うの? わたしが、このわたしが、トムに気があって誘惑しているとでも言いたいの? 冗談ではないわ!」
アリエルは頬を紅潮させて叫んでいた。
何故だか侮辱されているようにも感じていた。先程の気まずさなど、どこかへ飛んでしまっていた。
ジュールは弱り切ったように肩を落とす。
「すまない、言い方が悪かった。君は何もしていない。あいつが勝手に都合よく誤解するんだ。だから気をつけて欲しくて」
「ご心配無用よ! わたしは自分の体ぐらい自分で守れるわ。トムには一切、近づきません! だいたい、何故わたしがトムをなんて思うのかしら? 彼はパン屋の息子でしょ。相手にするわけないじゃないの!」
大声でまくし立てたあとジュールの暗い視線に気がついて、アリエルは口を噤んだ。
彼の顔には、どんな感情も浮かんではいないように見えた。彼女は少し不安になって、謝るきっかけを探してみる。今のはどう考えても言い過ぎだ。ジュールに軽蔑されたかもしれないではないか。
「ああ、トムはパン屋の息子さ。そして次男坊だ。僕と同じくね」
彼はフッと微笑み、彼女の腕の中のバラを長い指で触れてきた。
笑顔を見せてくれた友人に、心の底でホッと安堵する。どうやら口喧嘩にはならずに済んだらしい。彼と話せなくなるなど、絶対に嫌だった。
「君の抱いているバラにはトゲがないよね。どうしてか知ってる?」
「それは……、庭師のポールが取ってくれているから」
「そうだよ。それは何故だか、分かるかい?」
「あ、あら……、だって、この花は奥様のお部屋に飾るのよ。当然じゃないの」
「勿論、当然だ。だけど君はその花を毎朝一番に受け取りに行くだろう? その為に彼は、まだ薄暗い内からトゲを抜いているんだよ。奥様ではなく、君の笑顔が見たいから」
アリエルは黙ってバラを見つめる。
彼女はトゲがないのを当然と思い、気にしたことはなかった。
ポールのことに思いを馳せたことなど、今まで、ただの一度もなかったのだ。
「君は自分でも気づかないところで彼らを魅了しているんだ。だから気をつけてと言ったんだよ。傷つけようと思ったわけじゃなかった」
アリエルは顔を上げてジュールの姿を追った。
彼は片手を上げて、今にも立ち去ろうとしている。
(あなたも、なの?)
彼女の唇は無意識に動く。
不意に突然、聞いてみたくなった。彼は何と答えるだろうか?
アリエルは緊張して喉がカラカラになってしまった。
「心配性ね。わたしを誰だと思っているの? 男心を操るアリエル様よ。わたしに操れない男はいないわ」
だが、彼女の口から出て来たのは、そんなつまらない言葉だけだった。
「そうだね、君は僕なんかが気をもむような女性じゃない。そんな小さな女性ではなかった。悪かったよ」
彼は微笑んでアリエルに謝罪をすると、今度こそハンスの元へと足早に立ち去って行った。
アリエルは彼の姿を見送り、手元に目を落とす。腕の中のバラは少し萎れてしまっていた。