19,王子様を取り巻く謎
長い間不在だったリチャードが、突然戻ってきて数日が経った。
そのニュースはその日の内には館内を走り抜けていた。
だが、彼は普通に帰って来た訳ではない。
先触れの電報もなく供も付けず、おまけに酷く痛め付けられた状態で、行き倒れのように敷地内で気を失っていたのだ。
そんな異常な帰還に、誰もが興味を抱くのは仕方ないことだろう。あらぬ憶測が使用人の間にすら、飛び交い始めるのも時間の問題であった。
不審な人物は強盗ではなかった。だが新たな不安材料が屋敷を覆い始めている。
そのことを憂慮した公爵は、厳戒な箝口令を強いて情報を遮断した。
彼が発見されたのが早朝だったことも幸いした。まだ客人達はベッドの中で就寝中だったからである。
お陰でリチャードの帰宅は、公爵家の使用人達の間で留まり外へ漏れ出すことは防げた。勿論、他家の従者にも口外することは一切許されていなかった。
「いったい、どういうことなのかしら。答えによっては許しませんよ」
公爵夫人グレースは、アリエルの淹れた紅茶を口にも付けず怒りを露にしていた。
リンダは席を外すよう命じられ部屋にはいない。
グレースの前方には、頭を下げ立ち尽くす近侍が一人いる。苦悶の表情を浮かべるジュールだ。
「どうしてわたしはリチャードに会いに行ったらいけないの? 本来ならあの子の方で挨拶に来るのが筋なんですよ」
「ですからそれは、先ほどもご説明した通りでございます。リチャード様は酷いお怪我をなさってお戻りになられました。しばらく安静にするよう医師の診断も出てございます」
ジュールは静かに、だがきっぱりとグレースの言い分を撥ね付ける。
彼の堂々とした物言いに、隅に控えるアリエルはひやひやとしていた。主に対して毅然と言い返すジュールが、夫人の怒りを買いそうで恐ろしかったのだ。
「怪我をしているのなら尚更だわ。わたしは容体を確認したいのです。何故そんな体で戻って来たのか説明もほしいし、息子を見舞うのは母親として当たり前のことでしょう」
「それはその通りでございます。ですが申し訳ございません。リチャード様はいまだ意識が戻らず臥せっておいでです。お話をされることは不可能だと思われます」
ジュールの頑なな態度に、夫人は苛立つように手にする扇を振り回した。
「何故わたしを閉め出そうとするのかしら。わたしは母親なのに」
「決してそのような意味ではございません。リチャード様はいまだ起き上がることも叶わずーー」
面会謝絶の理由を告げようと身を乗り出したジューを、グレースは大きな音で扇を鳴らし牽制した。
「ジュール・ギャラモン、あなたは旦那様の近侍ではありませんか。どうしてあなたがリチャードの側にいるのですか?」
「それは旦那様より、リチャード様のお側に仕えるよう、ご命令を受けたからでございます」
青年近侍の返答に、手の中の扇を持て遊びながら夫人は考え込む。
「確かにあなたはリチャードとは旧知の仲でしたね。旦那様のお考えはわたしにも分かります。でも忘れないで、以前とは立場が違うのですよ。今のあなたはあの子に仕える身。それを逸脱する行為は決して許されません」
(えっ?)
グレースが発する当て付けの中に、さりげなく紛れ込んでいた嫌味に気が付き、アリエルは驚いて体を固くした。
(ジュールがリチャード様と旧知の仲?)
そう言えばと、彼女は思い出す。
先日館を発たれたバイロン子爵もジュールを知っていた。子爵は彼を友人だとも話していた。と言うことは、もしかしてリチャードとジュールの間にも、ただの主従としての感情だけではなく、まさに友情のような強い絆でもあると言うのだろうか。
「勿論心得ております。ですから今は何よりリチャード様のお体を第一に考え、奥様にこのような心苦しいお願いを申し上げているのです」
彼は頭を深く下げ謝罪の意を表した。
「どうか奥様、今暫くお待ちくださいませ。リチャード様のご容体が落ち着かれるまで、今少しのご猶予を」
結局ジュールは、公爵夫人の命を受け入れはしなかった。彼はリチャードが意識を取り戻すかもしれないからと、早々に夫人の部屋を辞していった。
グレースは息子の部屋を訪ねることはおろか、詳しい事情も説明されず、近侍によって門前払いを受けただけで終わった。
不満を相手にぶつけることは出来たが、煮えくり返る腹立ちがそんなことで治まる訳もない。
彼女は怒りに震える気分を抑えるように、扇をバタバタと動かして荒い息を吐いていた。
アリエルの実家ではあり得ないが、公爵家とは、家族でさえもすんなり会えないものらしい。今のリチャードは床で伏せっているとは言え、これではお互いの意思の疎通もままならないだろう。
それにジュールの態度は、グレースからリチャードを守っているようにも見えた。それは何故なのか。
そしてリチャードは、本当にいまだ目覚めていないのだろうか。
むごい状態で彼が発見されて数日が経つ。命に別状はないと言うことは、漏れ聞こえてきていた。医師の常駐も既に解かれているので間違いはないだろう。
だが、そんな噂紛いのあやふやなもので、母親が納得出来る筈もない。
それなのに見舞いすら断るのは何事ゆえか。父親の公爵は、当然息子との面会を果たしている筈である。だからジュールをリチャードの側に使わすことを決めたのだろうから。
なのにグレースは拒否されてしまっている。
これはいったいどういうことなのか。二人は本当の親子であるのに。
「アリエル」
主が自分を呼ぶ声がした。彼女は慌てて返事を返す。
「何でしょうか、奥様」
「あなたはどう思う? わたしへのこの仕打ちに対して」
グレースは震える唇を扇で隠して鋭い目を向ける。紅茶など飲む気にもならないらしく、テーブルの上には手付かずのカップがそのまま置かれていた。
「……奥様がリチャード様をご心配されるのは当然だと思いますわ。この度のことはあまりに酷いことかと……」
「そうよね、わたしは母親として当然の要求をしているのよ。それなのに、あの男、いくら旦那様のご信任が厚いからと言ってわたしに楯突くなど」
夫人の怒りはジュールに向かっているようだった。アリエルは情け容赦もなくグレースを退けた、先ほどの彼の態度を思い出して肝を冷やす。
(もう、どうすればいいのよ)
ジュールは今頃、何も知らずリチャードの側に侍っていることだろう。アリエルがグレースの苛立ちに触れ、やきもきしていることなど考えもしてない筈だ。
「全くリチャードも、せっかく戻って来たのに傷だらけで帰って来るなんて、王都で何をしていたのかしら。こちらでは沢山のご令嬢をお招きしていたのよ。全てはあの子のためだったのに。それなのに傷など付けた顔をしていたら、目会わすことすら出来やしないじゃないの」
グレースの不平は延々と続いてきりがなかった。怒りの矛先が近侍から息子へと移りアリエルは内心ホッとする。だがいつまた、ジュールへと舞い戻ってくるか分かりはしないのだが。
「奥様、お見舞いは叶わずともお花などを贈られてみてはいかがでしょう。差し支えなければわたしがお届け致しますが?」
彼女の提案に夫人は目を見開いて顔を上げた。そのまま側に立つ侍女の顔を凝視する。突然発言してきた侍女の本心を探ろうとするかのように、厳しい眼差しだった。
「あなたが花を?」
「はい。その時にリチャード様のご様子を、あちらの侍女にそれとなく、尋ねてくることも出来ますけれど……」
「そう……ね……」
暫くの間グレースは、唇を閉ざし思案にふけていた。だが、やがて、覚悟を決めたように命令を下す。
「いいわ。あなたに頼みましょう、アリエル。リチャードに花を届けてきてちょうだい」
「かしこまりました。奥様」
アリエルは頭を下げて一礼した。




