18,王子様の帰還
冒頭、暴力を含む痛いシーンとなっています。
暴力部分の描写自体は、さらりとしか記述しておりませんがご注意下さい。
薄暗い部屋には、男の荒い息づかいだけが響いていた。
粗末な部屋の中央には、狭い部屋に不釣り合いなほど大きなベッドがあり、その上には死んだように動かない塊が横たわっている。
この部屋にある家具はその馬鹿でかいベッドと小さな棚、他には男が座る椅子しかない。そのことから察するに、ここは生活の場などではなく、一部の目的のためだけに用意された仮住まいなのだろう。
窓にはカーテンの類いもなく、静かな夜の闇が明かりのない部屋の中を覗き見ている。
この部屋に限らずこの辺りにある住居は、どこも同じように薄汚れ寂れていた。
男はベッドの脇にある古い椅子の背に深く凭れかかるように座り、虚ろで濁った瞳を向け目の前の塊を見つめていた。もう、随分長いこと。
やがて、ベッドの上がピクリと小さく動く。
小刻みに動き始めた塊から、全体を隠すようにかけられていたシーツがはだけ、白い裸身が月明かりで明るくなった空間に浮かび上がった。
「いった……ぃ……」
くぐもった声が小さく漏れると、男の目に不自由な体を動かそうと身をよじる女が映った。
「まだ、動かない方がいい」
男はベッドに向かって淡々と声をかけた。
「動かそうにも、動けないじゃない……」
女が弱々しく不満を口にする。
彼女の言う通り、動ける筈はなかった。女の腕は両腕とも紐で縛られ、それぞれベッドの脚に繋がられていたからだ。足は自由に動かせるが何の慰めにもならない。何故ならベッドから出ることは勿論、起き上がることすら出来やしなかったのだ。
女は自身の肌に刻み付けられた、男による暴行の跡を見て唇をわななかせる。
「酷いわ、傷を付けるなんて……」
彼女のきめの細かい柔肌には無数の傷が浮き出ており、所々汗や血が滲んで痛々しい有り様だった。それらは全て、興奮した目の前の男による激しい暴行の痕跡だったのである。
「どんな要望にも答える、何でもすると言う約束だったじゃないか。相応の金は渡してある。お前は娼婦だろう? 今までにも色んな客を相手にしてきた筈だ」
男の言い種には何の感情もなかった。女を見つめる眼差しも、まるで血の通っていない人形でも眺めているかのように冷ややかだ。
肌に貼りつく汗や血、身に付けていた香料や白粉などでベタベタになった体を震わせながら、女は聞いた。
「……わたしを殺す気なの?」
「殺す? 嫌だな、僕を何だと思ってるんだ?」
男が笑った。笑うと透明なガラスのように見えた目に、僅かながら感情が浮かび人好きする魅力的な青年に変わる。
女が彼の口にした条件に妙な胸騒ぎを感じたにも関わらず、素直にこのベッドに入ったのだって職業だけが理由ではなかった。
男の、他人に警戒心を抱かせない、人懐こい笑顔に惹かれたからだったのだ。
「殺すだなんて、そんな身も蓋もないこと僕がする筈ないだろう? 君が最初の約束通り、僕を探して揺すったり、今夜のことを誰かに口外したりしなければいいだけだ。簡単だろう?」
「そ、そう……。ならいいわ、誰にも言わないから。約束は絶対守る。だからお願い。この紐を取ってちょうだい」
男の目的が最悪なものではないことを知り、取り敢えず女は安堵の息をつく。
だがこの男はとても危険だ、いつ気が変わるか分かりはしない。なるべく男の気の済むようおとなしくして、早くこの部屋から逃げ出した方が無難だろう。
女はそう考え、媚びるように笑顔を見せた。
「紐を取れだって? まだ、駄目だね。君は少しおいたが過ぎる。僕を殺人者と誤解するなどもってのほかだ。お仕置きを与えなくてはいけないね」
女の思惑を嘲笑うかのように切り捨て、男は爽やかな笑顔を、醜穢で下卑たものへと変えていった。
その瞬間、しつこい暴行により気の遠くなる苦痛を思い出し、ベッドの中から怯えきった女の震える声がする。
「い、いや、止めて……」
「怖がらなくていいよ、可愛い人。僕がたっぷり愛してあげる」
「いや、いや……、いやあ!」
男から繰り出される激しい罵声と暴力に、泣きながら女は耐えた。
彼女の全身に新しい傷が次々と増えていっても、凶行は止むことはなかった。
傷だらけになってしまった娼婦など、たとえ殺されなかったとしても死ぬに等しい毎日が待っている。当然だ。女の日々の糧は、彼女の美しい体が支えていたのだから。
全身傷まみれの醜い体では、稼ぐことなど出来なくなってしまうだろう。
傷痕が癒えるには、どれほどの時間がかかるか分からない。その間に彼女の客達は、他の娼婦に奪われて一人もいなくなってしまう筈だ。自由なように見えて、競争の激しい世界なのだ。
何もかも、この危ない性癖を持つ男のせいである。
そしてそれを見抜けなかった愚かな自分の。
「心配しなくても、最初に言っていた金額よりは多目に出そう。君が傷を癒す間ぐらい、充分生活できるくらいにね」
彼女の心を読んだように、男が笑いながら条件を上げてきた。
だが、男は知らなかったのだ。
従順になった女の心を一番大きく占めていた心配事は、決して金のことなどではなかったことを。
ロックストーン侯爵が、突然かき消すようにグルム公爵邸から去って数日が経った。
彼の姿がなくなり、アリエルにもようやく、ほっと出来るいつもの日常が戻って来たと言えよう。
とは言え、彼はこの地に滞在していたほんの数日の間に、彼女をはじめ数多くの人間に、計り知れないほどの存在感を、刻み付けて帰って行ったようだ。
それが証拠に彼の姿がなくなったあとも暫くの間は、侯爵に関する話題が途切れることもなく人々の口に上っていたのだから。
彼の名前を聞く度に彼女の心臓は嫌な音をたてて騒いだが、幸いなことに彼らは誰もアリエルと侯爵の因縁については知らないようだった。
いったい侯爵は何のために彼女の前へ現れたのか。
彼の執事が話していた通り、彼女を連れ帰るつもりだったのなら、どうして目的も果たさず帰ったのか。
侯爵の突然の方針の転換は何を意味するのか。
分からないから気味が悪い。いつまたあの不気味な笑みを見せ、彼女の前に現れるか。
考えれば考えるほど、アリエルは身がすくむ恐怖にとらわれていくのだ。
「アリエル、まだ悩んでいるのか?」
眠たげに目を細め、ジュールはアリエルの顔を覗き込んだ。
「悩んでるって?」
恒例となった、朝のバラ園でのジュールとのひとときである。アリエルの胸には、今朝一番に摘まれたバラが朝日に輝いていた。
彼女の顔を彼はにこやかに見つめている。それは毎朝のこと。当たり前過ぎて日常になってしまった光景。
だが、考えてみれば不思議だとアリエルは思う。彼はどうしてここにいるのだろう。
ジュールの朝の仕事にバラ園など関係ない筈だ。
だがアリエルが何も言わなくても、彼はいつもの場所に現れる。
いつからだったろう。ここで日課のように落ち合うようになったのは。
もう覚えていないほど、前からのような気がする。
「何って、ロックストーン侯爵のことだよ。あの方が急に戻られたから君は不安なんだろう?」
「やっぱり分かる? そうよ、どうしてお帰りになったのか不安なの。わたしのこと……ううん、お父様のことを諦めてーー、なのだったらいいのだけど」
「大丈夫さ」
ジュールは励ますようにアリエルの肩を叩いた。
「聞いたところによると、彼の会社はかなり悪どいことをしていたらしい。それでどうも、世界でも名うての海運会社に目を付けられたようだ。既に一部は人手に渡っているようだし、君に構っている余裕はないだろう」
「どうしてあなたにそんなことが分かるの。いったいどこでそんな情報を仕入れてるって言うのよ?」
アリエルは拗ねたようにジュールを睨み付けた。彼の自信たっぷりな物言いに反感を感じてしまう。侯爵の心など、所詮他人のジュールに分かる筈などないのに。
「僕は旦那様の近侍だよ。情報は自然に入ってくるんだけど」
「まあ、あなたってば、旦那様の会話を盗み聞きしているのね。いやらしい人」
非難めいた言葉を口にしても、ジュールは全く動じない。面白そうにニヤニヤと笑ってアリエルを眺めているだけだ。
なんだかとても不愉快である。
「とにかく侯爵のことで気を揉む必要はないさ。あのことは忘れるんだ」
ジュールが彼女の肩に置いた手に力を込めた。
弾かれたように彼を見つめ返すアリエルに、美しいグリーンの双眸を輝かせて微笑む。
目を合わせているのが辛かった。自分はどうしてしまったのだろう。
アリエルは気まずく彼から視線を逸らした。
「アリエル……?」
彼女の様子を不審がりジュールが首を傾げる。
「どうかしたのか」
その声から逃れるように顔を背けてしまった。何をしているのだろう。こんな態度、彼に悪いではないか。
アリエルの素っ気ない仕草をジュールが不思議そうに見守っていると、誰かがバタバタと大きな足音を立てて近付いて来る気配がした。
「だっ、誰かーー、誰かーー」
咄嗟に離れた二人の前に馬番の少年が現れる。
「あ……あ……、ジュールさん、ジュールさん助けて……」
ジュールとは顔見知りだったのだろう。少年は開口一番泣きそうな顔で叫ぶと、彼に抱きついてきた。
「どうしたんだ、ベン。そんなに青い顔をして」
「オレ……、オレ……」
ジュールの問いかけに、ベンは酷く取り乱して荒い息を吐く。少年の様子は明らかに普通ではなかった。
そのせいかアリエル達の間に流れる微妙な空気に、彼は全く気付かなかったようだが。
いや、アリエルとジュールはただの友人同士である。
だから二人の間には、決して艶めいた雰囲気などありはしない。現に今もなかった筈だ。
しかし、他人はよく勘違いをしでかす。アリエルの後輩リンダなど、そのよい例と言えるだろう。
そんな煩わしい関心を寄せられるのは御免だ。無用な勘ぐりは受けたくないのである。
そのため少年が彼女に何の関心も示さず、ジュールにいきなり話を振ったことに、アリエルは密かに安堵していた。
「どうしたんだ、何かあったのか?」
ジュールが少しきつい声を出すと、ようやく少年は声を絞り出す。
「男が……、へ、変な男が……、すぐその先に……倒れてて」
ベンは半泣きで訴えてきた。よっぽど怖い思いをしたのだろう。ブルブルと唇を震わせて体を揺らしている。
「変な男? どんな男だ?」
ジュールの顔に緊張が走った。
現在客人を大勢迎えている公爵家の敷地内で、怪しい男の姿が目撃された。それは恐ろしい情報だ。
ベンが見た男は、強盗という可能性も考えられる。何しろ今この地には、王宮でも名だたる貴族が大勢滞在しているのだから。
「傷だらけで……ボロボロになって死んだように倒れていたよ。オレ怖くて……、あいつ死んでるのかな」
ジュールは少年を落ち着かせようと、肩を抱いてゆっくりと尋ねた。
「それで、その男はどこに倒れているんだ?」
「すぐその先だよ。オレ、オレ……、ちょっと朝の仕事の前にバラが見たくて抜けて来たんだ。そしたら……そしたらそこに……」
いまだ取り乱しオロオロする少年に、ジュールは分かったと頷いて返事をする。
「ベンは御者のウェルズさんに伝えに行くんだ。それから他の皆にも。男は僕が様子を見に行くから安心しろ。さあ、急いで」
「わ、分かった」
涙を滲ませた少年が跳ねるように駆け出したあと、ジュールはアリエルに顔を向けた。
「聞いた通りだ。非常事態だよ、アリエル。悪いけど屋敷への連絡を頼む」
「い、嫌よ」
アリエルの強い否定の言葉に彼は呆然とする。
「嫌だって? 何を言うんだ。ベンの話を聞いてなかったのか。今この屋敷には強盗が潜んでいるのかもしれないんだよ」
「だからよ!」
だから、ジュール一人を男の元へとやれないのではないか。彼を一人で危険に曝すだなんて、出来るわけない。絶対に嫌だ。
アリエルの固い決意など気付く筈もなく、目の前の青年は渋い顔をする。
「アリエル、いいかい? ここは危ないんだ。早く戻って皆に知らせないと」
「だからじゃない、一人で戻るなんて恐いわよ。あなたと一緒にいた方がよっぽどマシだわ」
アリエルはジュールの前を駆け抜けて振り向いた。
「さあ、男を見に行きましょう。一刻も早く館に戻って伝えなきゃ」
バラ園の外れに倒れている人影があった。
一瞬見ただけでは、大きな布切れの塊に思えるほど、生命力を感じさせない。
少年が口にしたように、服も、服から覗く素肌も、まるで乱暴を受けたように傷ついてボロボロだった。想像を絶する不審者の状態に、アリエルは軽い悲鳴を上げる。
だが人影はピクリとも動かない。もしかして、本当に死んでいるのか。
怯えて後ずさる彼女に、ジュールは下がってと手を振り隅へ追いやった。
「だから、戻れと言ったのに」
小声で嫌味を告げてくる青年に、アリエルは何も言い返せない。彼女は項垂れて、遠巻きに彼の様子を窺う。
慎重に足音を忍ばせて、ジュールは倒れた男に近付いて行った。
そして男の顔を覗き込むと奇声を発した。
「リ、リチャード様……?」
「何ですって?」
アリエルもおそるおそるジュールの背中に近寄り、男を覗き込んだ。
死んだように眠る男の顔が目に入る。
明るいブラウンの髪はボサボサに乱れており、白い肌は土や血で汚れていた。
でもこの顔はーー。
その顔は間違いなく、グルム公爵の嫡男、リチャードのものだったのである。




