17,幕引きは愚者への罰とともに
侯爵の部屋を出て歩き出したジュールは、からかうような笑みを浮かべてアリエルに問いかけてきた。
「何をそんなに剥れているんだい?」
しかし彼は、本気で答えなどいらなかったようだ。
それが証拠に、彼女が返事も返さず逃げるように一人で先へ進んでも、気にもならないのか呼び止めもしない。
その上黙り込むアリエルに合わせるように、さっさと会話を止めてしまい、何事もなかったかのように黙って後をついてくる。
そんな態度が堪らなく苛立つ。彼女がどれだけ心配したのか、彼は少しも理解していない。
「何よ」
アリエルは、ムカムカしてくる腹立ちを抑えきれず、振り返って叫んだ。
「何がそんなにおかしいのよ? わたしは本気で心配したのに」
「おかしくなんかないけど、何故そんなことを言うのかい?」
そう言うジュールの顔は、どう見てもヘラリとした笑顔だ。
「笑っているじゃないの、さっきからずっと!」
「ああ、これ?」
彼は緩む口元を片手で触りながら、罰が悪そうに目を伏せた。
「これは面白がってるんじゃない。多分……、嬉しいんだ」
「何ですって?」
「いや、それよりも、ありがとうアリエル。君がアルフォード殿を連れて戻って来てくれるとは思わなかった」
「あなたって人は……」
一方的に話を変えるジュールに、アリエルは更に不愉快な気分になっていた。気づかないとでも思っているのだろうか? 何故彼は、自分に都合よくことを運ぼうとするのだろう。
「よく言うわ。彼が食堂にいたことは知っていたんでしょう? だからわたしに食堂に行けと言ったのよ、あなたは」
「まあ、アルフォード殿があそこにいたのは知っていたけど……」
「ほら、やっぱり!」
白々しく話すジュールが憎たらしくなった。結局彼の手のひらで、いいように転がされていたのである。
それがまるで、信頼するには足りない存在だと暗に言われたみたいで、彼女は素直になる気などなくなってしまう。
「それと、忘れたの? 軽い食事を持って来いと言ったじゃない。わたしに戻って来るように言ったのは、他ならぬあなた自身だわ」
アリエルの口は、どうにも止まらなかった。
だけど本当は、決してこんな憎まれ口がききたいわけではないのだ。
ジュールの無事を、共に喜び合いたい。そして彼に感謝の気持ちを伝えたい。それなのに、そんな本音はほんの少しだって出せそうもなかった。
でも、それもこれもジュールのせいだ。そう、彼が悪いに決まっている。
「悪かったよ。あれは君を早くあの部屋から追い払おうとして、咄嗟に出た口実だったんだ。だから君が帰って来ることは期待してなかった」
「まあ、追い払うだなんて、酷いわ!」
「あ、いや、言い方が不味かったかな。そうじゃなくて、君が僕を気にしてなかなか出て行けそうになかったから」
「あのね、そう簡単に出て行けるわけないでしょう! あなたがどんな目に合うか分からなくて、心配でどうにかなりそうだったのよ?」
あくまでも、余裕のある飄々とした態度を崩さないジュールに、我慢出来ずアリエルは食ってかかった。
彼女はあの時、自分自身が暴力的な行為を受けたばかりだった。そしてその恐怖を身に染みて、感じたばかりだった。
だから余計に、彼を思って心が押し潰れそうだったというのに。それなのに、この男は……。
「そんなに、心配してくれたんだ」
いつしか、ジュールの顔から笑みが消えている。
「僕が、侯爵とどうにかなるって?」
「だって……」
アリエルは、急に変わった彼の雰囲気に戸惑って、口籠ってしまう。あれほど勇ましかった声のトーンが、何となく弱々しいものに変わってしまっている。
「向こうは、腐っても侯爵様よ? どんなに嫌なことでも、あなたに拒否なんて無理でしょう?」
彼と目を合わすことが出来ない。
どうしてジュールは、眩しいほど強い光を放つ瞳で、アリエルを見つめるのだろう。
どうして、彼の視線に晒された肌は、ジリジリと焼けるような痛みを感じてしまうのだろう。
普段と違う、ジュールの態度に落ち着かない。そうか、気まずく感じるのは彼がいつもと違うからだ。
「大丈夫だったよ」
フッと息を吐いてジュールは笑った。
「何なら教えてあげようか? 閣下と僕が何をしていたのか」
その顔は、再び締まりのない笑顔に変わっていた。
アリエルは気づく。二人の間に、さきほどまで流れていた緊張感のようなものが、あっという間に跡形もなく消えてしまっていることを。
(今のは何だったのかしら?)
「教えるって、あなた何を……」
「あの方は、僕の肩を優しく抱いてくれた」
ジュールは、意地悪く笑いながら彼女に近づいてきた。
「な、何?」
「君の瞳をわたしに見せてくれないか」
目の前まで来た彼が、彼女の顔を覗き込んで微笑む。あまりに近い距離に、アリエルの頬は熱くなった。
ジュールはいきなり何を始め出したのか? 彼の行動の目的が分からなくてパニック寸前だ。
そんな彼女の顎に手を添えて彼は甘く囁いた。
「君の瞳の色は、萌える若葉のよう。生命力に溢れていて……、煌めくように輝いている。美しい、グリーンだーー」
「わ、わたしの瞳はグリーンなんかじゃないわよ!」
まるで吸い込まれそうなほど、いきいきと輝く瞳に見つめられて、アリエルはどうしようもなくなる。
「アリエル……」
「何よ!」
彼は眉尻を下げて苦笑を浮かべていた。
「これは閣下が僕に仰った言葉だよ」
「えっ?」
「君があまりに僕を心配してくれるから、本当のことを教えてあげると言っただろう?」
「そ、そうだった、わね」
「そうだよ。何を慌てているんだ? 君ともあろう人が」
「別に慌ててなんか……」
彼はからかうような表情で口元を緩めていた。その顔が、意地悪く見えるのは何故だろう。
「そうそう、続きだったね? それから閣下は、僕の頬にそっと手を添えて『目を閉じないで』と低い声で仰った。僕が頷くと嬉しそうに微笑まれて、『君の可愛い唇をーー」
「もう、いいわ!」
アリエルの大声にジュールは目を見開く。
「どうして?」
「必要ないからよ」
彼の手の中から素早く逃げ出すと、アリエルは大きく息を吐いて体制を整えた。
「あなたが大丈夫だったのは分かったんだから。もう、聞かなくても結構よ」
「これからが、面白いのに?」
ジュールは気づかない振りをして不満を漏らした。全く、なんて男だろう。分かってしているのだから質が悪い。
結局彼にとってアリエルとは、苛めがいのある友人でしかないのだろう。いつもの彼女なら、それすらも甘んじて受け入れていたけれど。
だが、今回は無理だ。対象が悪過ぎる。
「ええ、本当にもう結構よ!」
「つまらないな。君なら一緒になって楽しんでくれると思ったのに」
「楽しめるわけないでしょう?」
何故なら侯爵は、アリエルの実家を、今のように落ちぶれさせた張本人なのだ。それもこれも、彼の子供っぽい歪んだ執着のせいという馬鹿らしい理由で。
「どうしたんだ?」
突然険しく顔をしかめるアリエルを、ジュールは訝しんで問いかけてきた。
「だって、あの方……、ロックストーン侯爵は、私の家族を、いいえ我がオルド家をめちゃくちゃにした人なのよ!」
「何だって?」
「あの人は……、父のフランツを変質的に追い回し、叶わないと知るや、オルド家所有の会社を裏から手を回し倒産させたわ。そして父を苦境に立たせたの。そうすれば、父が自分を頼ってくるかもしれないと思ったそうよ。酷い話でしょう? そんな男とあなたの話なんて……、聞きたくないわよ」
「アリエル、それは本当なのか? その、君のお父上と閣下が……」
「本当よ、本人から聞いたのだから間違いないわ。あの人がわたしのことを自分のものにしようとしたのだって、父を手に入れるため。随分昔の話なのに、いまだに諦めていないのよ。父が以前わたしに王宮で働くことを止めたのも、侯爵が原因だったんだわ。若い頃、父と侯爵の間にはあることがあったの。その時の恐怖を父は忘れられなくて、それでーー」
息を巻くアリエルにジュールは静かに聞いてくる。
「侯爵が裏から手を回したって……?」
「ええ、取引先に囁いたんですって。ロックストーン侯爵家の名前を出したら、どこも父を見限って侯爵との取引に応じたみたいよ」
「そうか、侯爵が本格的に事業を始められたのは、その頃かもしれないな。彼は君のお父上の会社を、そっくり譲り受けたんだ」
「酷いわ……」
「勿論、彼には経営者としての才覚もあったんだろう。今では他にも事業の手を広げ、当時のオルド家から引き継いだ会社以外にも、数社を経営している」
父親のフランツが、現在も事業を続けていたらどうだったか。おそらく侯爵のように更に拡大など無理だったろう。だが、そんなことは関係ない。今は過去のことより現在である。
このままだと侯爵は、フランツを諦めることなどないだろう。もしかしたらこの滞在中に、再びアリエルに接触を図ってくるかもしれない。あの侯爵が相手では、身分を盾にどんな無理難題を押し付けてくるか分かりはしない。しかし、それは困る。すっぱり諦めてもらわなければ。
「どうしたらいいのかしら……」
だが、アリエルにはどうすればいいか、打つ手はなかった。不安だけが胸の中を広がっていく。
「それにしても意外だったな」
「えっ?」
「君の父上の話だよ。てっきり女性とトラブルがあったのかと思ったんだが……、まさか相手が閣下とは」
ジュールの言葉が胸をついた。彼女だって、まさか父親にこんな過去があるとは思わなかった。
「父はね……、男性としては今一つ魅力が足りないの。勿論わたしと母は、優しいところや無駄に威張らないところ、物静かで穏やかなところとか大好きよ。……だけど男として見たら、どうかしら。頼りないし優柔不断だし、きっと不甲斐なく思ってしまうでしょうね。だから、あんな侯爵のような人を引き寄せてしまったのかも」
「素晴らしいお父上じゃないか。優しくて穏やかな人なんだろう? そんな方から、君のような娘が育つのか……」
なんだか含みのある言い方だ。アリエルはギロリとジュールを睨み据えた。
「何よ、どういう意味かしら。あなたなんて侯爵の性癖を知っていたのに、何も教えてくれなかったじゃない。わたしをからかって遊んでたんじゃないの?」
「違う、言おうとしたさ。だがタイミングを逃してしまって、言えなかった。それに閣下が無類の女好きというならともかく、今回は違うだろう? 忠告しなかったからといって君に危険が及ぶとも思えなかったんだ」
ジュールの言うことも、もっともかもしれない。侯爵とオルド家の因縁を知らないのだから、予測するのは不可能だった。
だが、彼は来てくれた。何も知らない筈なのに、彼女の危機を察知して救ってくれたのだ。驚くほど優れた嗅覚によって。
つまらない意地なんか張るのはやめて、今すぐありがとうと言うべきなのではないか?
「ねえ、どうしてわたしの……、いえ、わたしを捜してくれてたの?」
「君、パーティー会場で酔客に絡まれていただろう? その後君を見ていたら、アルフォード殿と会話をしていた。その組み合わせが不思議だったんだ」
「まあ、あなたまで黙って見てたのね。わたしは見せ物じゃあないのよ」
「ごめん、でも君は酔っ払いを、いつも軽くかわすだろう? 見せ物と思っていたわけじゃないよ」
ぷっくりと膨れるアリエルの不機嫌面に、ジュールは謝りながらも笑顔を向けてくる。
「君に侯爵家の執事が何の用事だろうと思ってさ、気にはしてたんだ。しばらくしたら二人ともいなくなってて、だが、気がついたんだ。階下の食堂に彼が一人でいることに。君の姿はずっと見かけてなかった。それで、もしかしたらと思って……」
アリエルは、不意に襲ってくる面映ゆい気持ちに戸惑っていた。
彼の言葉を聞いてると、まるで彼女をずっと捜し回っていたように聞こえてくる。だが違う、それは大げさに聞こえているだけ。本当はもっと単純な話で、そうつまり、彼はとても心配性な性格だからで。だからきっと、相手がアリエルでなくとも親身になっていただろう。
自分だけが特別だと、勘違いしてはいけない。ジュールの言動を意味のあるものだと、受け取ってはいけないのだ。絶対に。
「まさかとは思ったんだが、どこを捜しても君はいないし、嫌な予感がしてね。それで侯爵の部屋まで行ってみれば、君の悲鳴が聞こえてきて」
「わ、分かったわ」
アリエルは聞いてられなくなった。
「何が?」
彼女の方から質問してきたくせに途中で止められ、彼はきょとんとしている。
「あなたがわたしを捜しに来てくれた理由よ」
なんだそんなこと、と彼は噴き出す。
「友人だからだろ」
「そ、そうね」
友達だから、大切な親友だから、でも何故だろう。その言葉を虚しく感じてしまうのは、どうしてなのだろうか。
いつの間にか、彼に何かを期待している?
いや、違う。そんな筈はない、わたしに限って。アリエルは自分への問いかけに首を振った。
ーーでは、どうして?
分からない、どうしてなのか……。
突然感じた友人とのすき間のようなものを、彼女は理由も分からず持て余していた。
「やれやれ、やっとお帰りになってくれたわ」
鏡に向かう公爵夫人グレースが、口元に皮肉めいた笑みを浮かべ呟く。アリエルは彼女の髪の毛をとかしながら、いつになく機嫌のよい夫人を不思議に思って見つめていた。
ロックストーン侯爵が突然こちらへ現れてからというもの、グレースはほとんどの社交の場を、体調不良を理由に辞退していた。ホストとして客人達をもてなす立場としては、あまり誉められた行動ではないだろう。
だがアリエルは、そんな態度を取る夫人の心情が理解出来た。それは先日、当の侯爵より過去の話を聞いたからだ。
それによると、侯爵と因縁があるのはオルド家だけではなかったようだ。
アリエルがお世話になっているこのグルム公爵家も、ロックストーン侯爵家と深い確執があったことが分かった。こちらは、現在のそれぞれの当主二人が、と言うよりは、その前の世代の話ではあるのだがーー。
侯爵が父親より貴族院の議員も継いでいるのかは、アリエルには分からない。それは彼が表に出ないように生活していると聞いたため、もしかしたら議員など辞めているかもしれないと考えたからだ。あの自分勝手な性格を思えば、充分考えられることだった。
だがグレースにとっては、そんなことは関係なかったに違いない。
彼女にとってロックストーン侯爵は、夫の、ひいてはグルム公爵家に嫁いできた自分自身の、目障りな敵にしか見えなかったのだろう。そのためグレースは、彼と挨拶をしなければならなくなった時、嫌な表情を隠そうともしなかったのだ。
「奥様、今日はお顔の色が、とてもよろしいですわ」
アリエルの言葉に、夫人はふふふと笑い声をたてる。
「旦那様には内緒よ。わたしの大嫌いな男が、あのカイル・グレアム・スタンリーが、やっと帰ったのよ」
(えっ?)
アリエルはもう少しで、櫛を落とすところだった。
「ロックストーン公爵様がお発ちになったのですか?」
「ええ、そうよ。昨日の午後だったわ。突然戻られることになったの。来る時も突然だったけど、帰る時もなんて、端迷惑な人よね」
不満を口にしながらも夫人は上機嫌になっており、今ならなんでも答えてくれそうな勢いである。
「そうでございますか。そんなにお急ぎだったとは、いったいどうされたのでしょう」
震えそうになる声を抑えて、アリエルはそれとなく尋ねた。彼女は、侯爵が帰宅したことを知らなかった。
あの、侯爵から父親に対する異常なまでの思いを聞いた日の翌日、彼は二日酔いのためか一日客室から出てくることはなかった。
アリエルもその日以降、彼との接触を避けて、侯爵が現れそうな場へはなるべく立ち入らないようにしていた。だから必然的に、侯爵の情報も耳に入ってくることがなかったのだ。
「よくは分からないわ。ただね、ちょっと聞いた話だけどーー」
夫人は鏡越しにアリエルを見据えた。
「あの男の経営している会社が、いくつか買収の危機にあってるそうよ。それで慌てて帰ったようね。つまり、こんなところでのんびりしている場合では、なくなったってことかしら」
いい気味だと言わんばかりに、グレースは口元を動かした。それから、手を止めて立ち尽くしている背後の侍女を、怪訝な表情で見つめる。
「アリエル、早くしてちょうだい。今日は、久しぶりにお客様とお会いしたいのよ」
「は、はい、申し訳ございません」
再び髪の毛の中を、櫛が滑るように動き出した。公爵夫人は気持ちよさそうに目を閉じる。
だが彼女の後ろにいる侍女は、夫人とは対象的に青い顔をしていた。
いったい何が、起こったというのだろう? あれほど彼女に、いや彼女の父親に執着していた侯爵が、何も言わず帰ってしまうとは。
アリエルは、ジュールと二人で侯爵の客室を出た夜を思い出した。あの時、彼らを見送って微笑んでいたアルフォードの、儚げな顔が強く印象に残っている。
結局あれが、彼との最後だったのだ。
そのことだけが、とても寂しいと感じてしまうアリエルだった。




