16,それぞれの愛のかたち
「だから、無理だと言ってるでしょう? わたしにそんな権限はありません。呼ばれもしないのに、主の部屋に入るなど出来るわけがないでしょう」
「そんなことを仰らないで。今はあなたしか頼れる人がいないんですもの。わたし達にしか彼を助けることは出来ないのよ」
必死ですがりつくアリエルを煩そうに手で追い払いながら、ロックストーン侯爵家の青年執事は気難しい顔をして階下の食堂を出た。
彼は不愉快そうに彼女を無視して足を速める。だがアリエルも負けじと彼の前に回り込んだ。
「お願いです、話を聞いて!」
アルフォードは切羽詰まったような表情で彼を見つめるアリエルを、冷めた瞳で見返した。
「おかしな人ですね。何故その人間を気にするのですか? その者は喜んで、あの方にその身を捧げているかもしれないではありませんか? もしそうなら、あなたのしようとしていることは迷惑でしかないのですよ」
「喜んでだなんてあり得ません。彼には婚約者だっているのよ。愛しい相手がいるのに、男である侯爵に身を捧げるなんて考えられないわ、そうでしょう?」
行く手を邪魔して手を広げるアリエルに、うんざりしたようにアルフォードは告げる。
「それがどうしたと言うのですか。全てあなたの主観でしかない。男も女も、等しく愛せる者はおりますよ。現にわたしは、この目に何人も見てきました。あなたには信じられないかもしれないが、その男がそうでないとは言い切れないでしょう?」
「ちが、違うわ、ジュールは……」
反論しようと口を開くアリエルを、アルフォードは片手を振って遮った。
「いいですか? あの方は高貴な生まれの、しかもあのようにお美しく魅力的なお方なのです。並の者など、お目にかけて頂くことさえ無理でしょう。あの方にお声をかけて頂くことは生涯ないほどの幸せ、これ以上ないほどの喜びなのですよ」
アルフォードの視線は変わらず冷たい。多分彼の言うことは正しいのかもしれない。
だけど、ジュールに関しては違う。彼のことはアリエルの方が分かってる。彼は、ジュールは、アリエルの代わりになるために自分を偽ってみせたのだ。
彼女は彼の、ホッと安心したような顔が忘れられない。侯爵から出ていくよう命じられた彼女に、心の底から安堵したに違いないのだ。
「あなたは彼を知らないでしょう? あの人は侯爵に惹かれたわけじゃない。彼はわたしを助けるために、わざと侯爵の気を自分に向けさせたのよ。わたしを侯爵から引き離すために、誘惑めいた真似までして。きっと彼は、侯爵の性の対象が女性ではないと知っていたのね。だから、あんなことをーー」
アリエルは不意にぼやける視界に動転した。思わぬ涙が、出てきたようだ。泣き落としなんて卑怯なことは、絶対したくなかったのに。彼女は濡れた目元を荒々しく擦った。
「いつも、わたしはジュールに助けてもらってるの。このお屋敷に勤めに入った時からいつだって、わたしは助けてもらってばかり。今だって、一人では何も出来ずあなたに頼ってる。こんな情けないわたしだけど……、何としても助けたいの。お願い、力を貸して下さい!」
アリエルの涙でグチャグチャになった顔を、アルフォードは呆れたように一瞥した。彼は軽く息を吐くと、彼女の肩を抱いて人気のない所へ連れて行く。興奮した彼女の様子に、近くを通る侍女が不審がってこちらをチラチラ窺ってくるからだ。
彼は人目を気にしなくてもいい場所に来ると、彼女に自らのハンカチを差し出した。
「勘弁してほしいですよ。わたしが泣かせたみたいに思われた」
「ごめんなさい。わたし泣くつもりなど……」
アリエルはハンカチをありがたく受け取り、思い切り鼻をかむ。アルフォードの思いがけない優しさに嬉しくなったが、彼は嫌そうな顔をしてこちらを見ていた。
「どちらにしろ、その男にとっては本望だと思うのですがね。あなたを救いたかったと言うのなら、それは達成出来たのですから」
「それは、そうかもしれないけれど……」
「いったいあなたにとって、その男は何者なのですか? 彼には婚約者がいると言ってましたね。では恋人ではないわけだ」
「ジュールは、彼は友人よ。大切なわたしの親友です!」
「ただの友人? 本当にただの? それだけで……」
アルフォードが絶句して口元を覆う。そんな彼にアリエルはついムキになった。
「おかしいですか? でもわたしにとっては、恋人なんかよりずっと大切な、得難い人だわ。今のわたしにとっては、そう、家族のように大事な人なの」
黙り込む青年の端正な顔に向かって、アリエルは思いを口にする。
彼女に恋人はいないが、きっといたとしてもジュールは同じく大切な存在だったに違いない。もしかしたら恋人よりも、時には優先していたかもしれないくらいに。
だが、あくまでこれは想像なので、本当のところはどうだったか分からないが。
「ただの友人だが、大切な存在ですか……」
アルフォードはぼんやりと呟いた。
「つまりは大事な友人が、カイル様の毒蛾にかかるのが嫌なのですね?」
「え? そ、それは……」
アリエルは何故か顔が赤くなった。
それは勿論、当たり前のことではないか。どうしてそんなこと見過ごせよう? 自分のせいで友人が、危険な目に陥っているというのに。そんなこと、わざわざ口にしなくても分かることだ。
「と、当然でしょう? あなただってその気持ちはお分かりになる筈よ。だって、あなたはーー」
侯爵様を愛してらっしゃるのでしょう? そう続けようとした唇を、アルフォードが指で軽く触れて塞ぐ。目を見開くアリエルを、彼は柔和な笑みで見返してきた。その顔は父親のフランツが、目の前で微笑んでいるかのようによく似ていてーー。
「あなたの我が主に対する数々の発言、友人を救いたいためとはいえ、非常に無礼なものばかりで許しがたい」
彼の口から発せられる言葉に、アリエルは慌てる。彼を本気で怒らせてしまったのか?
「ですが主もあなたに対して、絶対的な身分の差があり一般的には許される範疇とはいえ、横暴に振る舞われた。あなた自身が主を非難めいた言葉で貶めてしまうのも、致し方ないことかもしれません」
アルフォードはアリエルの口元から指を離すと、背筋を伸ばして歩き始めた。
「行きましょう」
「え? どこに?」
アリエルは、背中を向けて急ぎ足で離れて行く青年を、焦って追いかけた。
「決まってるでしょう? カイル様の部屋です」
二人は階上にある客室が並ぶ通路を、駆け抜けるように歩いていた。
等間隔で置かれているランプの明かりだけが、ほんのりと浮かぶ通路は、賑やかで明るいパーティー会場とは対象的に、ほの暗い感じをあたえる。
いまだパーティーに参加している者が多いのか、通りすぎる客室はどこも静かなものだった。だが所々無用心に開いている扉の向こうから、密やかな笑い声や艶めかしい声が漏れてくることがあり、全くの無人ではないことが分かる。
そしてそんな小さな声や物音に、ジュールの姿が恐いくらい重なり、アリエルは気が気ではなかった。
「酒があれば話は早いんだが……、くそっ、会場でせしめてくればよかった」
隣を走るように歩くアルフォードが、珍しく品のない言い方をする。
「お酒なら彼が持ち込んでいたわ。そう言えば何か軽い食事を頼まれていたんだった、どうしよう忘れていた……」
彼の言葉に、ジュールから頼まれていたことを思いだしアリエルは青ざめた。アルフォードが、驚いたように見つめてくる。
「酒が……、部屋にあるのですか?」
「ええ……。だけど食べるものがなくて、だから彼に頼まれていたのに」
「そうかーー」
アルフォードは突然笑い出した。アリエルはいきなり声を上げて笑い始めた彼に、驚いて足を止める。
「ミス・オルド。君の大切な人は多分、無事だ」
青年執事は笑いを含んだ声でおかしそうに言う。彼女は意味が分からなくて、戸惑ったまま彼を見ていた。
ジュールが無事? どういうことなのだろう。
「とにかく急ごう」
呆然とする彼女を、アルフォードは急かすように促した。
侯爵の部屋に着いた時、アルフォードが扉を軽く叩いて入室の許可をもらう声さえ、アリエルの耳には入ってこなかった。
彼女は止めるアルフォードを無視して、飛び込むように部屋に入る。
部屋の中には侯爵の姿もジュールの姿もなかった。
「多分、二人は奥の寝室だ」
アルフォードが頭を振って、やれやれといった感じで呟きながら追い越して行く。
「寝室?」
彼女が掠れた声を出した時、奥の扉が開いて人影が出てきた。
「ジ、ジュール?」
アリエルが大きな声を上げて近寄って行くと、人影はシッと声を小さくするよう人差し指を立てて静止する。
「先ほど眠られたんだ。静かにして」
「カイル様はお酒を召しあがりになったのでしょう? ならば当分、お目覚めにはなりません」
声をひそめるジュールに、笑顔でアルフォードは近づいた。
「あなたがミス・オルドの大切なご友人、ジュール殿ですか?」
ジュールは表情を和らげて、アルフォードに視線を向けた。彼は目の前の青年執事に手を差し出す。
「ロックストーン侯爵家のアルフォード殿ですね? 初めまして」
軽く握手を交わしながら、アルフォードはジュールに尋ねた。
「あなたはご存知だったのですね。カイル様がお酒に弱いことを」
(えっ?)
「ええ、まあ……」
ジュールは苦い顔で頬を緩ませた。
「あまり自信はなかったのですが、強引に飲んで頂きました。噂は本当だったのですね」
「そうですか、あの方は滅多にお酒を口にされない。いったいどんな方法を使われたのか、気になりますが……。いずれにしても、カイル様は明日、酷い二日酔いに苦しめられることでしょう」
アルフォードも苦笑を浮かべて返事を返す。
「面目ございません。お許し頂けたらと思っているのですが……」
ジュールは穏やかに微笑む侯爵家の執事に、悪戯っぽく視線を送った。
「大丈夫です。きっとご本人も忘れていらっしゃいますよ」
「ねえ、どういうことなの? 噂って……」
青年二人だけが分かり合えたように談笑を始め出し、一人取り残されたように感じたアリエルは、苛立つ内心を抑えて声をかけた。
彼女にはよく分からなかった。何故ジュールは、余裕のある様子で笑っているのだろう? 侯爵は、彼に手を出すことなく眠りについたと言うのだろうか。
いや勿論、彼が無事だったのは喜ばしいことで、本来アリエルは彼を救うべくこの部屋に舞い戻って来たのだから、不愉快になる理由はない筈だ。
だけど割り切れない気持ちが拭えない。
結局彼女は何の役にも立っていないのは明白で。いつものように、ジュールは一人で解決してしまっているのだから。
彼にとって、まるで彼女など必要なかったみたいである。醜態を晒して、なりふり構わずアルフォードにすがっていた自分が馬鹿みたいではないか。
「わたしにもご説明して下さらない? 蚊帳の外に置かれたようで……気分がよくないわ」
二人の青年は顔を見合わせて笑った。その態度が益々癪に障る。
「ちょっと、何よ?」
文句を言ってやろうと顔を突き出した彼女の肩に、ジュールが優しく手を置いた。
「アリエル、ここはロックストーン侯爵の客室だよ? 場所をわきまえて。我々はそろそろ仕事に戻ろう」
「な、何よ。まだ話は終わってないのよ?」
アリエルは不満も露に抵抗したが、ジュールの真剣な眼差しに言葉を飲み込むしかなかった。
(何よ、教えてくれてもいいじゃない……)
彼はアリエルの背中を扉の方へと強引に押しやり、傍らに持ち込んだワゴンを引きながら、改めてアルフォードを振り向く。
「お邪魔致しました。我らは、これにて失礼致します」
頭を下げるジュールに青年執事も礼を返した。
「主へのもてなし、ありがとうございました」
アルフォードがその時見せた寂しげな微笑みが、アリエルの胸を突いてしばらく離れなかった。




