12,黒侯爵の秘められた過去 2
緩い表現ですが、男性同士のキスシーンがあります。苦手な方はお気をつけ下さい。
「君は何を探していたのか?」
カイルはフランツに目を向けると、何でもないように平然とした態度を崩さなかったが、内面ではかなり焦っていた。
それほどフランツの笑顔には破壊力があったのだ。だが、まだ知られる訳にはいかない。カイルの目的を、フランツには。
「先々代のリカルド王治世の産業について、書かれた書物です。なかなか探せなくて……」
フランツは苦笑を漏らす。恥ずかしそうに頭を掻いて顔を赤らめた。
「今、当時を全て一冊の史料に纏める編集作業を行っているのですが、僕の担当部分だけ仕事が遅れていまして、要領が悪いのです……、今も一つとして資料が探せない」
「探す場所が違うのではないか? 君が見ていたのは古い時代の歴史についてのものだろう? 近世の産業なら一纏めにされて、その分野に分類されている筈だ」
カイルは口で説明しながら、フランツが探していた書棚とは全く違う棚へと足を運ぶ。その棚から、一・二冊書物を取り出すとフランツに手渡した。
「ほら、あった。これでどうだ?」
フランツは目を見開いて書物を受け取る。
「え、あ、ありがとうございます」
青年はカイルから渡された書物を、嬉しそうに捲って微笑んでいた。
「凄い、詳しく記されている。正に僕が探していたものです。助かりました」
興奮して声を出すフランツは、少年のように愛らしい。彼はカイルを尊敬の念で見詰めてきて、カイルは誇らしい気持ちになった。
こうしてカイルは、フランツの信頼を勝ち取ることが出来たのである。
一旦懐に入ってしまえば、フランツはカイルの侵入を難なく許した。実に呆気ない程に。
「フランツは王宮で、書記官をしていると教えてくれた。彼は人見知りの激しい性格で、年の近い友人がいなかったらしい。当初は遠慮がちに接してきていたが、直ぐに打ち解けてくれるようになった。わたしのことを友人と思っていたのだろう」
低い声でゆっくりと話す侯爵の顔を、アリエルは見詰める。彼女は恐々、声を出した。
「あなたは、どう思ってらしたのですか、父のことを?」
侯爵の青い双眸がアリエルを見据えた。彼の顔に暗い笑みが広がっていく。
「ここまで話して分からないとは、君も父親に違わず鈍いようだな……。アルフォードは君を買い被り過ぎたらしい……」
(分かるわよ、……だけど信じられないの。いいえ、信じたくないのかも……)
彼は長い指を唇に当てると、思案でもするかのように口をつぐんだ。だがそれはあくまでも、ただの振りだったようだ。
嫌な笑いを口元に湛えて答える。
「ならば教えてやろう、わたしの気持ちを」
カイルとフランツは時間を示し合わせて、共に時間を過ごすようになった。
それは大抵、王宮で仕事をしているフランツの、休憩時間であることが多かった。
二人はお互いの父親にも誰にも、親しくしていることを秘密にしていた。それはやはり、父親の立場に関わってくるからだ。
フランツの父はまだよかった。
彼は議員としても末席の位置にいたし、事業の方に重きを置いていた。そのため王宮に出向くことも頻繁ではなく、彼の属する集団の中でも重要視されていなかった。
しかし、カイルの父は違う。
彼は、その集団の中心にいたのだ。カイルの立場で考えるなら、フランツと親しくすることは父への裏切りになってしまう。それは同時に、父の立場も弱くする。つまり集団の求心力に、影響を与えてしまうのだ。
フランツはいつもそのことを心配していた。
その証拠に、彼はいつも遠慮してカイルと距離を空けようとした。
だがカイルは、漸く掴んだ今の位置を手放すつもりはなかった。
だからいつも、心配げに見詰めてくるフランツに、余裕のある笑顔を見せて安心させる。そんな彼にフランツも強く言い出せない。
フランツだって、せっかく出来た友人をなくしたくなかったのだ。しかも相手は由緒正しき家柄の、雲の上にいるような憧れの青年だ。
結局彼らは、こそこそと落ち合うのを止められなかった。
しかしカイルにとって夢のような日々は、ある日唐突に終わりを告げる。
それも全て彼の短気で、短絡的な性分のせいかもしれない。
だがやはり今にして思えば、遅かれ早かれ、いつかは仕出かしてしまうことだったのだ。
「その日わたしはいつものように、フランツとの待ち合わせ場所に行った。……いつもと違うのは、出掛けに父に説教を貰ってね、少々時間が遅くなってしまったことだった」
ロックストーン侯爵は、執事が入れたお茶を優雅に口にする。お茶は冷めてしまっていたが今は初夏だ、冷めたくらいは気にならない。彼は美味しそうに喉を鳴らす。
しかし、アリエルは何も飲む気になど、なりはしなかった。
「フランツの休憩時間は決まっている。わたしは随分イライラしたよ。なんとか父の説教を逃れ、待ち合わせ場所に着いた時には、かなり時間は経過してしまっていた」
カイルが待ち合わせ場所に着いた時、フランツはうたた寝をしていた。
彼は、今仕事でしている史料の編集作業に追われており、ちょっとした時間にも睡魔が襲ってくることがしばしばあった。
その日もいつまで待ってもカイルが来ないので、ついつい眠ってしまったようだ。
木陰に体を潜め小さく体を丸めて眠るフランツは、子供のように無防備に見えた。
カイルは、瞼を閉じた横顔に声を掛ける。
「フランツ……」
だがその声は、起こさないようにと気を使った、聞き取りにくいほどの小さな声でしかない。
「起きないのか?」
カイルはフランツの額にかかる髪の毛に、軽く触れてみる。
「ん……」
青年が少し動いた。
そのことに驚いて、上等な絹糸のような、美しい金髪から手を離す。それから息を止めて彼を見詰めるが、フランツからは安らかな寝息が聞こえてくるだけだった。
「起きないんだな?」
次第にカイルは大胆になっていく。
青年の柔らかな頬を、両手に包んで触り心地を楽しむ。白い肌は弾力があり、すべすべとしていて男の肌とは思えないほどに柔らかい。
どんなにしつこく触っても、フランツは起きそうになかった。
おとなしく触られるままになっている。そう、カイルの望みのままに、全てを許してくれてるように。
そして、その寝顔はどこまでも無邪気だ。
だけどそれが、不思議なほどカイルの瞳を惹き付けてしまう。子供のように無垢な表情と、それに反するように艶かしい唇が、激しく彼の劣情を誘った。
もう、抗えない。
カイルはフランツに覆い被さると、熟れた石榴のように赤い唇を奪った。
フランツが苦しそうに呻き声を上げたが、それにも構わず、瑞々しい果実を食するように甘い香りを味わう。初めは優しく……、そして段々と荒々しいものになっていく。
それはなんて、甘美なひとときなんだろう。いくら味わっても足りない。もっと、もっとだ、もっとくれ。
カイルは夢中になって貪った。
フランツが目を覚まし、酷く抵抗していたことに少しも気付かなかったほどに。
「止めてください!」
気が付けば、潤んだ赤い目をしたフランツが、カイルを睨み付けていた。涙と鼻水で、顔はぐちゃぐちゃになっている。
髪の毛や身に付けている服まで激しく乱れており、彼がカイルの下から逃げ出すために、どれだけ労力を使ったのかが窺える。
そして唇は、その目と同じく真っ赤に腫れていた。
その原因が自分だと思うと、カイルは堪らなくなる。
もう一度、欲しい。
「フランツ……。許してくれ、違うんだ……」
もう一度、君に……。
「君が、あまりに可憐で……、つい、魔が……」
その言葉に、フランツが険しい反応を返した。
「可憐ですって? 冗談じゃない! 僕は男だ!」
彼は興奮して大声を出した。あのいつも穏やかで、気弱な青年と同一人物だとは思えない。
何とかしなければ。
とにかく、落ち着かすんだ。
カイルは幼子を宥めるように優しく笑いながら、ゆっくりと話し掛ける。
「悪かった……、君を、女性だと思ったわけではない」
そうさ、女だったら惹かれはしない。
「とにかく、落ち着いて……、話を聞いてくれ」
それにしても、こんな事態に陥っていても、彼にはまだ余裕があった。
大丈夫だ、何とかなる。フランツの一人や二人、丸め込むのは容易いと。
そんなカイルの心中が、フランツには見えてしまったのだろうか?
「あなたの話を聞くのは御免です。もう二度と、僕に近付かないで下さい。あなたとはこれっきりです」
フランツは震えながら、だがきっぱりと捨て台詞を吐いたあと、逃げるように彼の前から姿を消した。
そして永遠に、いなくなってしまったのだった。
「それでフランツは、二度とわたしの元へは帰って来なかった。実に簡単に、わたし達は終わってしまったんだ。若気の至りという奴だ」
侯爵は、自嘲気味に笑うとアリエルに目を向ける。
「あの頃のフランツは決して、わたしを許さなかった。見かけと違い、随分頑なな男だ。それに頭も悪い。要領の悪さは天下一品だし、あいつは本当に外見だけだった」
「なっ……」
侯爵の辛辣な言い方に、思わずアリエルの口から抗議の声が漏れる。
「だが、どうしても、惹かれてしまう。それは今でも変わらない。何十年も会っていないのにね。それどころか、思いは益々強くなるばかりだ。何故だろうね? 君はどう思う、フランツの娘よ」
アリエルは言葉をなくした。
彼女は暑い筈の部屋の中で訳もなく震えていた。いや、訳なら分かる。隣に座る侯爵から、体の芯が冷たくなるような冷気を感じてしまうから。
侯爵は何故、彼女にこんな話を聞かせるのか? 彼の目的が掴めなくて、余計に不安に襲われる。
「そうだ、わたしはフランツを愛してるんだよ。これはもう運命と言うしかない。わたし達は結ばれる運命にあるんだ。そう思わないか?」
ロックストーン侯爵は、うっとりと目を閉じる。頬を紅潮させて、口元に喜びの笑みを浮かべる侯爵は美しかった。薄気味悪いほどに。
「でも、父は母を愛してますわ。母も父を愛しています。二人は娘のわたしから見ても深い信頼で結ばれた理想の夫婦です」
アリエルは勇気を出して侯爵に告げる。
貧しくとも彼女の家庭には愛がある。それは決して、激しい熱情とは言えないかもしれない。だが、穏やかで満ち足りた幸せがあるのだ。
そんな二人の結び付きを冒涜されたくはなかった。この訳の分からない情愛を父に向ける男に。
「あの女、カリナ・アンダーソンか?」
侯爵は夢見るように閉じていた目を開け、アリエルの肩を掴んだ。
「あんな、平凡な、取り立てて魅力もない女のどこがいい? 財力もない、美しさもない、無力なまるでゴミのような女が」
「何てことを……」
アリエルは侯爵から向けられる、激しい敵意に打ちのめされそうになった。
カイル・スタンリーの目は血走っており、尋常ではないほどの強い光を湛えている。
「そうだな、お前にとっては母親だった……、だが、冷静に考えてみろ? あの女がフランツの横に立つに相応しいか」
美しい父、アリエルの美貌は父親から受け継がれたものだ。もし彼女が母のカリナに似ていたら、平凡な顔立ちの娘になっていただろう。
きっと玉の輿などという夢も、見ずに終わっていたに違いない。それはアリエルも常に感じていたことだった。
しかし、それがどうだと言うのか? 大事なことは、お互いがどれだけ相手を思いやっているかではないのか?
アリエルは自分のブルネットに輝く髪の毛に触れて、勇気を奮い起こす。
この髪色は母のもの、瞳の色も母のものだ。彼女は間違いなく二人の血を受け継いだ、愛の結晶なのだから。
侯爵の思いになど、絶対負ける訳にはいかないのである。
「カリナは気弱なフランツに目をつけていた。当時の男爵家は事業が成功して羽振りがよかった。だから、フランツの相手に特に何も求めていなかったんだ」
アリエルの肩を掴んだまま、侯爵は呪いの言葉を吐き出す。彼女は逃げ出したかったが、体をソファーに押し付けられた状態から、動くことは叶わなかった。
「フランツは女性には奥手で度胸もない。そこに強引に話を持っていき、無理やり婚約に持ち込んだんだよ。彼は意に染まぬ縁談を断る勇気もない男だ。それを見越したやり方だった。いやらしい、狡猾な女のすることだ」
侯爵はフッと表情を緩めると、アリエルに微笑みかける。魅力的な笑みだったが、もう彼女の心を捉えることはないだろう。この先、二度と。
「だから、わたしは一計を案じることにした。あの女に見す見す奪われるなんて、許せないからね」
突然、愉快そうに侯爵は大声で笑い出す。
「フランツを、身ぐるみ剥がすことにしたんだよ。彼が泣いて、わたしを頼って来るように」
侯爵の笑い声は、暫く止まらなかった。




