11,黒侯爵の秘められた過去 1
直接の行為、言葉はございませんが、同性愛をほのめかす文章がございます。
苦手な方はお気をつけ下さい。
後のロックストーン侯爵、カイル・グレアム・スタンリーがその男を見掛けたのは、ほんの偶然だった。
その日カイルは父親の仕事の関係で、王宮に出仕していた。
その頃の彼は、まだ十八になったばかりの前途有望な青年で、美しく聡明な侯爵家の嫡男であるという、正に理想を絵に描いたような貴族の青年だった。
カイルの父は貴族院の議員をしており、後継者として鍛えるべく、時々こうして息子を職場に後学のために連れて来ていた。
政治の世界、特に貴族院の議員というものは、古い慣習やしきたりなどに縛られている。政治家として優秀な人物とは、こと貴族に限って言うなら、新しい革新的な考えを持つ者ではなく、昔からの習慣をきっちり守り、古くからの付き合いを何より大切にする、頭の固い保守的な人物を指すのである。
当時の侯爵、つまりカイルの父親はそれを教えるために、時々王宮に彼を連れて来ていたのだ。
その日の議会も終わり、彼はぼんやりと父の側で彼らの談笑を眺めていた。
こんなただの世間話としか思えない会話にも、重要な内容が含まれているらしい。父はいつも口を酸っぱくして、彼にそう説いていた。もっとアンテナを張れと。
だが彼は、政治の世界になど全く興味がなかった。父があまりにしつこいので、王宮まで仕方なく同行していたが、内心は辟易していたのだ。
彼は父親の後を継いで侯爵になど、ましてや人間関係に気を使う政治家になど、本心からなりたくはなかったのである。
彼に男の兄弟がいればよかった。そうすれば、たとえ自分の方が長男だとしても、兄弟に権利を譲ったことだろう。
だが、カイルは一人っ子で、もう母には子供は望めない。彼の両肩には、下ろすことの出来ない重い責任が乗しかかっていたのである。
しかも彼には、家族の誰にも言えない秘密があった。この秘密のために、尚更侯爵家の家名を重荷に感じていた。
何故なら、次代の侯爵になるということは、自分の後を継ぐ、正当な血筋の人物を生み育てるという重大な責務もついてくるからだ。
それが父の後、ロックストーン侯爵を名乗る予定の彼に、当たり前のように託されていることだった。
だがカイルには、それは到底叶えられないことだった。自分の血を分けた子供をつくるだなんて、彼には絶対に無理なことだったのだ。
しかし、このことは親族の誰にも相談出来ない。
そう、事あるごとに彼に縁談を持ち掛ける、両親には特に知られてはいけないことだった。
カイルが自分の将来に絶望のような暗い思いを馳せている時、彼の父は息子の内面の悩みなど気付きもせず、侯爵家の未来に希望だけを感じていた。
先ずは、息子のために人脈作りが大切だ。
そのためにせっせと友人達の前に連れて来て、彼の顔を売ってやっている。
その次には、素晴らしい配偶者を見付けてやらなければならない。
カイルは何故か結婚に積極的ではないが、きっと極端な恥ずかしがりやなのだろう。
美しい容姿をしているのに、本当に勿体ない奴である。令嬢方が熱い眼差しを送っていることに、全く気付いていないのだ。
そろそろ、そちらの方も、父親として忠告がてら教えてやるしかないのだろうか。
侯爵がそんなことをつらつらと考えていると、友人の一人、ラフォーレ伯爵が目配せをしてきた。
伯爵の視線の先には、彼らとは何かと対立する集団の姿があった。
その集団の中央には、ロックストーン侯爵にとって政敵とも言える男がいる。それは、先代のグルム公爵だ。現在の公爵の父親に当たる。
公爵は周りに侍らした取り巻きの貴族達と、にこやかに会話をしながらこちらへと近付いて来ていた。
「嫌な奴が来た。場所を変えよう」
ロックストーン侯爵は伯爵達に軽く合図を送ると、グルム公爵とは反対方向へと歩き始める。カイルも急に動き出した父達に続き、急いで後を追い掛けた。
だが彼らは、一歩遅かったようだ。
背後から、からかうような低い声が掛かる。
「これは、ロックストーン侯爵。急にどちらかへとお出かけですか? 何を慌てておいでです?」
その声を聞いて、父が酷く険しい顔をして、足を止めるのをカイルは見た。彼は知らず緊張してくる。まるで見えない不穏な空気に、取り囲まれているようだった。
だが、公爵の方へと振り向いた父の顔は、温和なものに変わっている。
さすが政治家、狸のかぶり方は上手だったようだ。カイルは父のことを少し見直した。
「おや、これはグルム公爵。いや、なに、特に慌ててなどいないんですがね。ただこれから……そう、友人達と食事にでも行こうという話になったんもので……」
グルム公爵はいやらしいくらい満面の笑顔で、侯爵の言い訳を聞いていた。カイルは吐き気がしそうだったが、我慢せねばならない。
「それは、邪魔をして悪かったですね。だが、食事か……、うむ、いいですね。そうだ、わたし達も君達と合流しようかな?」
「えっ?」
ロックストーン侯爵は、目前の男の思い付きのような提案に、咄嗟に表情を作れず眉を寄せた。
そんな彼に、公爵は愉快そうに笑い出す。
「ふふ、冗談ですよ。そんな顔をしなくても」
「い、いや。これは、別に……」
父親が取り乱したように口籠っているのを、カイルは溜め息をついて見ていた。
明らかに相手の方が一枚上手である。
彼は父の無様な様子に、不愉快な気分で視線を反らした。
それから何気なく、前に立つ公爵の取り巻きに目を向ける。
そして、その中に見付けたのだ。
彼が、恐らく一生忘れることが出来ないだろうと、一瞬で心を囚われた存在をーー。
その青年は落ち着かない様子で、キョロキョロと辺りを見回していた。
年の頃はカイルより少し年下に見える。だが、案外年上かもしれない。人並み外れて童顔ということも、充分有り得るからだ。
カイルは青年に興味を持った。
繊細な絹糸のように細い金髪は、肩より少し短いところで切り揃えられている。その髪の毛は、青年が頭を動かす度に音を立てるが如くなびいて、カイルの目を奪った。
王宮を物珍しそうに見詰める瞳は、琥珀色に生き生きと輝いていた。その眼差しは、宮殿の全てに目を奪われて惹き付けられているようだった。
色白の肌は興奮したように紅潮して、彼の瞳の色を更に引き立てている。
美しく整えられている眉毛と完璧な鼻筋、少しだけ開いている紅を差した少女のように赤い唇。
カイルは自分の顔の造形が、他人より優れていることを知っていた。
だが、目の前にいる青年は……。
彼はカイルとは美しさの次元が違う。
彼を初めて見た時、何物をも超越したような美を、カイルはとうとう見付けたような気がしたのだ。
「わたしはその青年の名を、どうしても知りたかった。だが、彼は父とは敵に当たるグルム公爵と共にいた。その場で口をきくことはおろか、父に名前を尋ねることさえ憚れた」
現在のロックストーン侯爵、カイル・グレアム・スタンリーは恍惚したような瞳をアリエルに向ける。
彼女はいつの間にか侯爵に導かれ、彼と共にソファーに腰掛けていた。
アリエルの横で侯爵は寛いだように深い息を吐き、それからまた語り始める。
「彼の名前を初めて聞いたのはいつだったかな? あの出会いの日から数日経っていただろうか……」
その日以降、カイルは人が変わったように王宮へと足を運ぶようになった。
その変化に父親は喜ぶ。消極的に見えていた息子が積極的に変わったのだ。侯爵は嬉しかった筈だ。
そんな父に、彼は適当に話を合わせて誤魔化す。
変に勘ぐられるのはごめんだった。父が都合よく誤解しているのをいいことに、彼は上手に欺いていたのである。
それからは、色んなツテを使って件の青年を探し回る日々が続いた。
だが、あくまでも、目立たなくだ。誰にも気付かれぬよう事を進めていく必要があった。どちらかといえば短気なカイルにとって、忍耐の日々だった。
そんなカイルにとうとうチャンスが訪れる。
それは宮殿にある書庫で、父から頼まれた古い蔵書を探していた時のことだった。
広々とした書庫の中を、目当てのものを探して歩く。その彼の前を、何度も行ったり来たりを繰り返す人影があった。その人物をいい加減煩く感じて、カイルは顔を上げる。
そして、顔を上げた彼の前を、一人の青年が通り過ぎて行ったのだ。
肩の所で切り揃えられた、線の細い柔らかそうな金髪。書棚を、途方に暮れたような愁いを帯びた瞳で見詰める、絵画のように整った横顔。
正に、カイルが捜し回っていた、美しい青年ではないか。
彼は驚いて後を追い掛けた。
青年は同じ所を何度も確認しに来るのだが、探し物を見付けることが出来ないようだった。
その酷く困り果てている、頼りなげな後ろ姿に声を掛ける。
「君!」
目の前の青年は一瞬立ち止まるが、すぐにまた歩き出す。
「き、君、待ちたまえ」
カイルは慌てて青年の腕を掴まえた。
「え、ぼ、僕ですか?」
彼はすっとんきょうな声を上げて驚く。白い陶器のように艶めかしい肌に、琥珀色の瞳が揺れていた。
美しい、カイルは思う。もっと見つめていたいと。
「あ、あの何か?」
青年は不安げに彼を見返していた。そして、彼に掴まれたままの腕を、困惑した面持ちでチラチラ盗み見していた。
「あ、すまない」
カイルは急いで手を離す。
「驚かしてすまなかった。決して、怪しい者ではない。わたしの名前はーー」
「存じ上げています。カイル・グレアム・スタンリー様でございましょう?」
青年はホッとしたように柔らかく微笑む。その笑顔に目を奪われながら、カイルの心は喜びで震えていた。
焦がれていた相手が、自分の存在を知っていたのだ。嬉しくない筈がなかった。
「君は、どうして、わたしの名を?」
彼の問いに青年はクスリと笑い声を溢す。
「あなたは有名な方でいらっしゃるから、誰でもお名前くらい存じておりますよ」
彼の微笑みに胸が高鳴る。どうしてこんなに強く惹かれてしまうのか?
「そうか、君の名は? わたしにも、教えてくれないか?」
カイルの質問に青年は少しだけ躊躇った。
「あの……」
しまった、焦り過ぎてしまったか。彼は今の言動を後悔する。
本当はもう少し時間をかけるつもりだった。相手に、信頼と言う名の安心感を与えてからだと……。だが、気の短い彼には待てなかったのだ。
「僕は、僕の名は、フランツ。……フランツ・ヴィンセント・オルドと申します」
しかしフランツは、おずおずとしながらも結局は名乗った。侯爵家の子息であるカイルに声を掛けられ、質問を撥ね付けることなど、気弱な青年には出来なかったのである。
「そう……か、フランツと言うのか」
(フランツ・ヴィンセント・オルド! 漸く名前を知ることが出来た!)
喜びで内心興奮しているカイルの背中へ、フランツの遠慮がちな声が届く。
「あの、それで……、スタンリー様は、僕に何のご用事だったのでしょうか?」
すっかり気をよくしたカイルは、気が大きくなっていた。
「ああ、いや、フランツ。カイルでいいよ。わたし達は、年も近いだろう?」
「はあ……、ですが」
カイルに対して、フランツの警戒心は強かった。しかし、それも仕方のないことだった。
二人の父親は、それぞれ敵対している政策集団に属している。うっかり隙を作って相手側への有利な材料を、自分の失態で見す見す渡してしまう訳にはいかない。
そう、優しい笑顔と気さくな雰囲気で近付いて来た目の前の相手が、それを狙っていないとは言い切れないのだから。
のんびりしたように見えるフランツも、さすがに貴族の端くれ、己の立場はわきまえていた。
カイルは溜め息をついてフランツを見詰める。彼の心を開くには、長い時がかかるだろう。
「君は何を探しているのかい? よかったら、お手伝いさせて貰おうと思って」
「そんな……、あなたのような方のお手を煩わすことなど出来ません。どうぞお構い無く」
フランツはペコリと頭を下げると急いで立ち去ろうとする。その後ろ姿に苛立つように大声で言い放った。
「勘違いしないでくれ、君のためじゃない。わたしのために言ってるんだよ? 君が目の前をうろうろすると気が散って、わたしが落ち着いて蔵書を探せないんだ」
この言葉は効いた。
逃げるように会話を終わらせた青年は、気まずそうに振り返る。
彼は諦めたような表情を浮かべると、カイルに救いの手を求めて来たのだった。
「では、お願い出来ますか?」
「いいとも、君が探し物を素早く見つけることが出来たなら、僕のもあっという間に探せるだろうからね」
フランツは、カイルの軽口にふわっと笑った。花びらが開くような、心から浮かんだ自然な笑顔だった。




