10,影ある男は闇もある
アリエルは戸惑っていた。
彼女には、何故目の前の男から、厳しい視線を向けられるのか理由が分からない。
侯爵家の執事はそんな彼女の様子に、幾分表情を和らげて言葉を続けていく。
「わたしは、それからずっと侯爵家でお世話になっています。もう十年になりますか……。今、あの方に見放されたら、わたしには行くべきところはありません」
アリエルは彼の視線から逃れるように、下を向いた。何と言って相槌を打てばいいのかも分からない。
そもそも何故、侯爵と関係もない彼女にこんな話を聞かせるのだろうか?
だが、アルフォードはまだ話を止めなかった。
後半は独り言のように、聞き取りにくい声になっていく。
「破滅が待っていると分かっていても、それがあの方の命なら従うしかない」
それからアリエルの顔を見て険しい表情を解き、フッと笑った。
「あなたを困らせてしまったようだ、申し訳ない」
「あ、あの、わたし……」
アルフォードの笑顔は思いの外、優しいものだった。
それでつい、彼女は彼の笑顔に勇気づけられ口走ってしまう、余計な一言を。
「よ、よくは分かりませんが、侯爵様は、あなたをお見捨てにはならないと思います。だから……」
案の定、アルフォードは顔を歪めて苦々しく呟く。
「あなたは何も知らないだろう? 所詮わたしは代わりなんです」
「え?」
「本物が手に入ったら紛い物はいらない、そう思いませんか?」
「あ、あの……?」
訳が分からず首を傾げるアリエルに、アルフォードは無駄話を止めて品の良い笑みを向けると、極めて事務的に淡々と告げてきた。
彼の纏う空気が急に変わった瞬間だった。
「我が主、ロックストーン侯爵閣下がお待ちです。アリエル・ヘレーネ・オルド様、恐れ入りますがご足労願います」
そこには、先程までの、多彩な表情を見せていた青年はもういない。
そこにいたのは、完璧な執事の仮面を被った、まるで機械のような男だったのである。
ロックストーン侯爵は、アリエルが知らぬ間にパーティー会場を抜け出していたようだ。
彼の執事が先導してアリエルを連れてきたのは、侯爵の為に用意された館で一番上等な、あの客室だった。
部屋の前に着くと、アルフォードは彼女に少し待つように言い残し中へと消えて行く。
アリエルは扉の外で所在なげに、彼が出て来るのを待っていた。
ロックストーン侯爵に近付くことは叶うまい、そう思っていた。
彼は沢山の地位ある人々に囲まれていたのである。そんな中にどうしてアリエルが入っていけるだろう? 無理に決まっている。
考えが甘かったのだ。彼女は素直に反省して侯爵を諦めたのに……。
何故、その侯爵が?
そう、何故だか分からないが、侯爵のほうからアリエルを呼び出してきた。
アリエルのことをどうして知っているのだろうか?
執事は彼女の名前を知っていた。彼らは、どこまで彼女のことを知っているのか?
アルフォードが語った話も謎解きに力を貸すどころか、余計に深めるだけである。
アリエルの頭は混乱して、答えなど導き出せそうもない。
だが、侯爵に会えば分かる筈だ。
扉が開いて、アルフォードが顔を覗かせる。
「どうぞ、お入りください」
彼が無表情で告げてきた。
やはり、どこかで見た顔だ、アリエルは冷たい仮面を張り付けている彼を見て、そう確信する。彼女は扉を開ける彼の前を通り過ぎ、部屋へと足を踏み入れた。
彼は初対面だと言った。
そして、アリエルと自分が似ているとも。
考え事をしていると、背後で扉が閉まる音がする。
アリエルが慌てたように振り向くと、アルフォードの姿は既になかった。
彼は部屋から出て行ったようだった。
それでは、今この部屋には、彼女と……。
「ようこそ、ミス・オルド」
低くハスキーな男性の声が聞こえてきた。
ロックストーン侯爵は、深い赤が落ち着いた色合いの質の良いソファーに、優美に腰を掛けていた。
部屋の中は薄暗く、ランプの明かりだけが橙色の空間をいくつか作っている。
その、妖しいような怖いような空間の一つに、優雅に座った侯爵がいるのだ。
小さなこの明かりの中では、長い黒髪が顔の半分に影を作ってしまうが、それすらもこの男の、どこか危なげな魅力の一つにしか見えない。
黒侯爵の名に相応しく今夜も上から下まで黒の装束で装っており、アリエルは暑くないのかとこっそり心の中で思ったが、その表情は寧ろ涼しげである。
黒に染まって見える侯爵だが、白い肌に煌めく瞳は濃いブルーで、魂さえ奪いそうな程の強い光を放っていた。
近くで見ると彼には深い皺があり、なるほど年齢を重ねているのが分かる。
しかし、若い時は美しくても、年を取るにつれ醜く崩れていく世の女性達が、妬んでしまいそうなほど容色が衰えていないのだ。
それどころか、重ねた年齢さえも彼を引き立てる魅力になっているようでーー。
そんな、人物はそういない。そう、そんなには……。
「カイル・スタンリーだ。君に会うのを楽しみにしていた」
侯爵は鋭い視線を彼女に投げ掛けてきた。
「もっと、こちらへ。大丈夫だ、取って食ったりしない」
それからくっと低く笑う。
「あの、侯爵様。何故……わたしを……?」
アリエルは何故か体が動かなかった。
不思議だ。それなりに経験を積み、今では男性を誘惑する術さえ、ある程度は使うことの出来るアリエルが。
動くことが出来ない。蛇に睨まれた蛙のように、近寄ることさえ出来ないとは。
「怯えた目をしてるな、わたしが怖いか?」
侯爵は笑みを深くする。
「いえ、まさか、そんな……」
そう、言いながらも、彼女の心臓は激しく動く。だが、ときめきの為ではない。これではまるで、侯爵が言うように恐怖を感じているみたいではないか?
「そんな顔をすると、よく似ている」
侯爵は彼女の中にいる別の誰かを探そうとでもするように、目を凝らした。
「あの方ーー、執事のアルフォード殿にですか?」
「アルフォード? いや違う、あの者ではない」
彼は不服そうに眉を寄せた。
「フランツだ。フランツ・ヴィンセント・オルドーー」
彼はブルーの瞳を細めて彼女を見つめる。
「君の父親だよ」
アリエルは驚いて大声を出した。彼女は父の名が出てくるとは予想もしていなかった。
「父をご存知なのですか?」
侯爵はソファーに深く凭れると、長い指を顎の下に軽く当て考え込む素振りをする。
「勿論、知ってる。彼とは旧知の仲だよ」
彼女は信じられないと言わんばかりに首を振った。
「まさか、だって……」
アリエルは一度だって、父親の口から侯爵の名前など聞いたことがない。侯爵家のような有力な上位貴族と、彼女の実家のオルド男爵家では、同じ貴族と言っても身分に差が有りすぎるのだ。
もしも、父が本当に侯爵と親しくしていたのなら、それはとても名誉なこと。きっと娘に自慢をしていた筈だろうに、一度だって……。
「恐れながら……、父はあなたの友人であったのでしょうか?」
「友人?」
侯爵はその問いに、突然、高笑いを始めた。その一見楽しそうにも聞こえる笑い声は、不安げに瞳を揺らすアリエルの前で、何がおかしいのか暫く止まらなかった。
「違う、友人などではない」
彼は笑いが納まると吐き捨てるように言い放つ。
そしてソファーから体を起こし、彼女へとゆっくり近付いてきた。
彼女の顎に指を当て顔を上向かせ、ブルーの双眸で覗き込む。
彼の瞳がスッと翳った。
アリエルは侯爵の瞳から目を反らすことが出来なかった。
その吸い込まれそうな青色の奥に、底知れない深い闇が見えた気がしたからである。




