婚約破棄?しませんけど。~地味な眼鏡令嬢ですが、婚約者には溺愛されてますから~
あまねく六女神の守護する国。神聖国シュバルツラント。国内でも有数の王侯貴族の令息、令嬢達の通う、中央アカデミー。
「まあ、見てごらんなさい。相変わらず、野暮ったいこと」
「噂には聞いていましたが、本当なのですね」
「え?あの眼鏡の方が?グレース大公の?」
「なんと言いますか、地味ですわね……」
今日も噂の的になっているのは、リドリー・アナトゥエル伯爵令嬢。高位貴族ではないが、シュバルツラント建国の折から続く、由緒正しい家門の娘である。
「また噂されてるじゃない、リドリー。その野暮ったい眼鏡、外したらどうなの」
隣を歩く友人のアリーシャ・ロックマン侯爵令嬢が呆れたように言った。
「え?どうして?」
当人のリドリーは、令嬢達の嫌味の混ざった噂話を全く気にした風もなく首を傾げた。
「どうしてって……!眼鏡をかけた令嬢なんて悪目立ちするし、目も、悪い訳ではないのでしょう?」
アリーシャの言う通り、視力が悪い訳ではない。この眼鏡は、大好きだったお祖母様の形見なのだ。
たしかに高齢の婦人ならまだしも、眼鏡をかけている若い令嬢は多くない。しかしそれだけが理由で噂になっている訳ではないので、眼鏡に罪はないのだ。
罪深いのは婚約者、セオニス・グレースであるとリドリーは思った。
4歳年上のセオニスは、昨年病で亡くなった先代大公に代わり、齢20歳にして大公位を引き継いだ。
それだけでも世間の注目を浴びると言うのに、彼の容姿がまた問題であった。傾国の美姫と呼ばれた元王女である、大公夫人の美貌をそのまま受け継ぎ、神聖国一の美男子としても名を馳せている。
故に、リドリーはどうしても話題に上がってしまう。眼鏡をしていようが、外していようが同じ事だと思っているので、リドリーは前者を選んでいる。
角を曲がった所で、先ほどとは別の女生徒達の噂話が耳に入った。
「あら。アナトゥエル嬢よ」
「のんきにされているけれど、もう少しで婚約破棄になるのでしょう?」
「わたくしも聞いたわ。アナトゥエル嬢にお声がかかったのなら、わたくしにもチャンスがあるかしら」
次の角を曲がると、アリーシャが言った。
「そうなの?」
「しないわ。噂よ」
間髪入れずにリドリーは答えた。
『婚約破棄』の噂も何度も流れては消えているものだ。一伯爵令嬢のリドリーが婚約者になれたのなら、自分達にも可能性があると思うのも当然のことだ。
いちいち気に留めていられないので、リドリーは気にせず次の授業に向かった。
神聖国唯一の大公家であるグレース家は、神聖国の盾である。
北にそびえる険しい山々から降りてくる魔獣を駆逐し、国民の生活と安全を護っている。
リドリーの婚約者であるセオニスも、大公位を引き継いでからは討伐遠征に行ったきり、戻って来ない。
(大公領はやっぱり遠いのよね)
リドリーは二年後にアカデミーを卒業し、大公領へ嫁ぐ予定だ。
それまでずっと噂をされるのかと思うと少し気が滅入ってしまう。
しかしどんなに噂をされようと、リドリーがあまり気にしないのには理由がある。セオニスからの好意をひしひしと感じるからだ。セオニスはリドリーにとびきり甘い。手紙も毎日届く。
この事実を伝えようにも、絶世の美女ならばともかく、地味なリドリーの言う「愛されている」には信憑性がなかった。
◇
「リドリー!貴方、婚約破棄するのですって?」
クラスメイトが嬉々とした表情で聞いていた。
(またなの?)
リドリーがげんなりと振り返ると、後釜を狙う高位貴族の令嬢たちがリドリーに集まってきた。
「えっ!」
「また噂じゃないの?」
仮にも一年間同じ教室で学ぶ仲間なのだ。婚約破棄と聞いて嬉々とした顔をするのはやめてもらいたい。
「しないってば。そんな話知らないもの」
リドリーが言うと、いつもはすぐ引き下がるクラスメイトがもう一度口を開いた。
「えっ、でも、帝国から留学されてる皇女様から聞いたのよ」
リドリーは目を見開き、戸惑って言った。
「えぇ」
隣国のオルドロス帝国から、皇女が留学して来たとは知っているけれど、何故皇女様がそんなことを。
(まさか‥‥)
リドリーは嫌な予感がした。隣の席のアリーシャがヒジで小突いた。
「ねぇ、オルドロスの皇女殿下、セオニス様に気があるんじゃない?ほら、去年の帝国との交流会で、セオニス様、皇女殿下の護衛をされていたもの」
そう言われれば、そうだった。
(面倒なことにならないといいけれど‥‥)
◇
1週間もすれば、リドリーとセオニスの婚約破棄の噂はアカデミー中に広がった。婚約破棄だけではない。
セオニスはリドリーとの婚約に辟易としており、オルドロスの皇女と運命的な出会いのあと、二人は愛を育み、リドリーとの婚約破棄後に、セオニスはオルドロスの皇女と婚約を結び直すつもりである……と、アカデミーの生徒の大半がその話を鵜呑みにした。
「アナトゥエル嬢、此度の噂は本当なのですか?」
とうとうアカデミーの学園長から呼び出しをうけ、噂の真偽を確かめられた。
「本当ではありません。大公家からそのような通達は来ておりませんし、セオニス様からも何も伺っておりません」
昨日届いた手紙にも、『討伐の際に青い花畑を見つけたのでリドリーにもいつか見せたい。早く帰って君に会いたい』としか書いていなかった。
「うーん、そうですか‥‥まぁ、そうでしょうね」
学園長は蓄えた顎髭を撫でながら思案した。
学園長は在学中のセオニスを知っているので、いつもこの手の噂を気にしていなかった。今回は規模が違う上に、皇女殿下が関わっているので深刻な表情をしていた。
「オルドロス皇女殿下が噂を流したのでしょう。しかし内容が良くない。これでは大公が不貞を働いたかのようです。こちらでも対処できるよう努力します。くれぐれも皇女殿下には近付かないように」
リドリーは頷いた。
根も葉もない噂を躊躇なく広め、噂の通りに振る舞っているらしい。オルドロスの皇女はなかなか癖のある性格のようだ。
(でも、私だけではなく、今回の噂はセオニスの名誉にも関わるのよね‥‥)
今までの、リドリーが地味なのでセオニスに捨てられる。リドリーが飽きられて、セオニスに婚約破棄をされる。などのリドリーが原因での噂とは違う。
学園長の執務室から出て、中庭を通った。噴水の前に見知った顔の男の子が立っている。
「カイエン」
セオニスの弟。グレース大公家の次男である。カイエンは怪訝な顔をして口を開いた。
「今回の噂は消えるのに時間がかかりそうだな。さすが皇女殿下。消えかけたらまた他の生徒を使い、噂が流れるように計画されている」
「それはまずいわね‥‥北部へは?」
「そこまで届かないように気をつけているが、ちょっと分からない」
今までもアカデミー内の噂がセオニスに届かないよう、リドリーとカイエン、大公家の討伐組の騎士達と協力してきた。その手の噂がセオニスにとどけば、討伐どころではなくアカデミーに乗り込んでくるだろう。
「今回の噂は大公家の威信にも関わる。母上からも帝国を諌めるよう陛下に進言したらしいが。すぐには‥‥」
「国際問題に発展させる訳にはいかないわね‥‥」
「――あら!ようやくお会い出来ましたわ。貴方がリドリー様ですのね」
甲高い声が二人の声をかき消した。
声の主は、アカデミーの制服は着ておらず、夜会で着るかのような大きく胸の開いたドレスを身に纏っている。自己紹介されずとも分かった。
オルドロスの皇女は、侍女のように数人の女生徒を引き連れリドリーの前に現れた。少し後ろには二人の護衛騎士の姿も見える。
「まあぁ!本当に噂と違わず地味な方。灰を被ったようなくすんだ髪色に‥‥何ですの?その野暮ったい眼鏡」
悪意を隠さず、嘲るように皇女は言った。さすがにカイエンのこめかみもぴくりと動く。リドリーは前に出ようとしたカイエンを手で制した。
「お初にお目にかかります。オルドロスの第二皇女、アドレアナ殿下。私の見目が地味なこと、皇女殿下には関係のないことかと」
「まあ!態度までふてぶてしいのね。皇女であるわたくしに、そのような横柄な態度をとるなんて」
(横柄とは‥‥)
ご自分のことでは?と言いそうになった所を今度はカイエンに止められた。刺激しても良いことはない。とカイエンの顔が暗に言っている。
(その通りだわ)
「貴方、本当にセオニス様の婚約者なの?その風体で?」
どう答えるべきかと思っていると、カイエンが一礼して前に出た。
「アドレアナ・オルドロス殿下にご挨拶申しあげます。私はカイエン・グレース。グレース家の次男でごさいます。ここにいる、リドリー・アナトゥエル伯爵令嬢はれっきとした兄上の婚約者。それ以上の苦言は控えていただきたい」
皇女はパッと顔色を変えた。
「あら、アカデミーに弟がいらっしゃるとは聞いていたけれど、貴方がそうなのね?」
じろじろと不躾な視線をカイエンに向ける。
「ふうん。セオニス様程ではないけれど、貴方もとても素敵な方ね。どうかしら?わたくしのお友達をご紹介してあげるから、貴方からもセオニス様に私の事を口添えしてくださらない?」
さきほどのカイエンの言葉は全く聞いていなかったのだろう。リドリーとカイエンは辟易した表情で顔を見合わせた。
(駄目だなこの女)
(ええ。時間の無駄だわ)
幼い頃からの縁である。視線で会話して二人は頷いた。
「――では皇女殿下、お話がお済みでしたら我々はこれで……」
一礼をし、去ろうとした時、皇女殿下が叫ぶように言った。
「お待ちなさい!わたくしを馬鹿にしているの?」
リドリーとカイエンの後ろに、皇女の護衛二人が回り込んだ。カイエンが舌打ちをする。
(さすがに簡単には逃がしてくれないわね……)
「リドリー嬢、貴方セオニス様との婚約を辞退しなさい」
帝国の皇女とはいえ、横暴が過ぎる。
(たしか、アドレアナ皇女は第一皇女殿下よりだいぶ歳が離れていたわよね。遅くに授かった末の皇女だから、大事にされていたのかしら)
とはいえ、もう15歳。自分が口を出して良い問題か、判断できなければならないだろうに。
リドリーはため息まじりに言った。
「伯爵家の方から、大公家へ一方的な婚姻関係の変更は進言出来ません」
皇女が声を荒げる。
「ならばわたくしから伯爵家と大公家に言います。大公家にとっても、自国の伯爵家より、隣国の皇室との繋がりの方が良いはずだもの!そうでしょう?公子!」
睨むように皇女はリドリーとカイエンを見た。カイエンが難しい表情をしながら口籠る。
「うーん……」
本来ならばそうだろう。伯爵家より、皇室の方が重宝されて当然だ。皇女の性格と、当人に問題さえなければだが。しかし、今回に至っては、どちらも当てはまる。
「それでも、同意してもらえないでしょう」
きっぱりと言ったリドリーに、皇女が噛みつくように叫んだ。
「どうしてよ!」
「――セオニス様が私以外では納得されないからです」
自分で言うには恥ずかしいので、出来る限り淡々と言った。皇女が目を見開く。
「……何ですって?――ふふ。あはははっ……!あなた、自分にセオニス様が好意を持っているとでも言いたいの?その見目で、冗談でしょう!」
皇女は持っていた扇で口を覆い、これでもかという程嘲笑った。「はぁ……!鏡を見たことがあるのかしら……!」涙目になるほど可笑しかったらしい。鏡など、見たことがあるに決まっている。そこまで人目に外れた容姿ではなのだが、皇女に自分は一体どう見えているのか。
暴言を吐き切り、皇女は落ち着くためか短く息を吐いた。
「――はぁ、冗談はそのくらいにしてちょうだい。とにかく、今から私と一緒に伯爵家と大公家へ行きましょう」
目が本気である。
(冗談はそのくらいにしてほしい?こちらのせりふだわ!)
皇女殿下が合図をすると、一人の護衛騎士がリドリーの腕を乱暴に掴んだ。
「――っ」
びりッと静電気のようなものが弾け、護衛騎士は慌てて手を離した。皮の手袋が破けている。護衛騎士は狼狽えて痛む手を見つめ、リドリーも自身の腕を見た。リドリーには一切の痛みはない。
カイエンが言いにくそうに口を開く。
「彼女に触らない方がいいかと思います。兄上は好意どころか……」
「何を訳の分からない事を言っているの!はやく連れて来なさい!」
皇女殿下の声がカイエンの忠告をかき消した。もう一人の護衛騎士がリドリーに手を伸ばしたところで、空から雷が落ちた。
パリパリと小さな火花が弾ける音が聞こえた。そらから落ちたのは、雷ではなく人だった。
神々しい光を宿した金糸の髪が揺れ、整った端正な顔立ちは人間離れした美しさを感じる。地面すれすれでふわりと着地したその姿は、まるで一枚の聖画から抜け出たかのようだった。
「きゃあ……大公様よ……!」
「なんて美しいのかしら……」
皇女の後ろに居た令嬢たちは、その光景に目を奪われた。黄色い声を上げる者もいる。
「セオニス?」
「兄上?!」
リドリーとカイエンは、降り立ったセオニスに驚いて声をかけたが、皇女は声を出すことも出来ず見惚れていた。
はっと我に返り口を開きかけた時、怒りの孕んだ低い声が響いた。
「――誰だ?リドリーに危害を加える命知らずは」
地鳴りの様に怒りをあらわにした声は、セオニスの口から発せられた。
あまりの恐ろしさに、皇女はその場にぺたりと座り込んだ。
怒気を受けた皇女にセオニスは冷ややかな視線を送り、ゆっくりと近付いた。弁明しようとはくはくと口を動かすものの、皇女から言葉は出てこない。
「――セオ!」
清涼な声がどんよりとした空気を打ち消すように響く。リドリーは普段出さないほど大きな声でセオニスの名前を呼んだ。セオニスがその声に顔を輝かせて振り向いた。
久しぶりに婚約者に会えて嬉しいが、こんな大掛かりな登場をされては困る。リドリーがセオニスを見据えると、セオニスはその場に膝から崩れ落ちた。
「っっ……!」
「セオ!?」
セオニスは地面に膝を着き、呼吸が荒くなっている。リドリーとカイエンも慌ててセオニスに駆け寄った。
「セオ、どうしたの?」
「兄上?どこか怪我でも?!」
セオニスはリドリーの姿を見ると、片手で顔を覆った。そして絞り出すように言った。
「ビジュが良い……!」
「……え?」
リドリーは首を傾げる。カイエンを見ると、さっきまで心配そうな顔をしていたのだが、無の表情になっている。抑揚のない声でリドリーに言った。
「大丈夫だ。いつもの発作だ」
カイエンの言葉の意味をリドリーはすぐに理解したが、だとすれば『大丈夫』ではない気がした。ここはアカデミーの生徒の目がある。いつもの発作を、ここで見せても良いのだろうか。
カイエンは静かに言った。
「後で生徒たちには他言しないよう注意しよう。皇女殿下に至っては、見せておいた方が良いだろう」
カイエンがそう言うので、リドリーはそれもそうかとセオニスに向き直った。
「セオニス?大丈夫なのね?討伐で怪我を負った訳ではないのね?」
一応確認する。セオニスは震えながらリドリーを見つめ、頷いた。
「大丈夫だ……!怪我はない。心配させてすまないな。久しぶりにリドリーに会えたものだから、あまりの可愛さに尊死してしまうところだった」
苦しそうに浅く息をしながらセオニスは言う。恥じらいながら言うセオニスはどこか艶めいている。だがしかし、言ってることは分からない。
セオニスは時々……いやリドリーの前では頻繁にこうなってしまう。
びじゆ、や、とうとい……など、知らない言葉をよく使う。どういう意味か聞きたいのだが、そういうことを言っている時のセオニスは目が怖いからいつも聞きにくいのだ。
今もセオニスの目は爛々と輝いている。セオニスは息を整えながら言った。
「リドリーも怪我はないだろうね?防護陣が発動したから急いで来たんだ」
「防護陣?」
「ああ。リドリーに危害を加えようとしている奴が触れば、弾くようになっている」
「え、えぇ?」
そんな高位魔法、王族でもない一介の伯爵令嬢が付けているなど、聞いたことがない。だいたい、難しい魔法ゆえに扱える魔術師は少ないはずだ。
不審な目をセオニスに向けると、心得たように頷いた。
「心配することはない。この魔術は私が北部討伐へ行く条件として陛下の許可を貰っている」
「ひ、ひえぇ」
こ、国王陛下に?恐れ多くて声が裏返った。
「ところで、これはどういう状況なんだ?」
セオニスは震えながらこちらを見る皇女に視線を向け、リドリーの前に蹲る護衛を見て、カイエンに向かって聞いた。
カイエンが応えようと口を開いたとき、座り込んだままの皇女が声をあげた。
「セオニス様‥‥!お久しぶりです!わ、わたくしですわ!アドレアナです」
セオニスはリドリーに向ける瞳とは全く違い、冷ややかな視線で皇女を見据えた。
「ええ。存じておりますよ。アドレアナ皇女殿下。一年ぶりですね。して、貴方の護衛達が私の婚約者に手荒な真似をしようとしていたのは何故でしょう」
セオニスが言うと皇女は固まった。僅かにでも動けば、先ほどの雷槌を落とされてしまいそうな圧を感じる。
固まった皇女の代わりに、後ろの女生徒がおずおずと言った。
「あのう、閣下はアナトゥエル嬢と婚約破棄をされるのではないのですか?」
セオニスの蜂蜜色の瞳が見開いた。ゆっくりと振り向き、リドリーを見つめた。
「婚約破棄‥‥?」
瞳が揺れている。
リドリーはセオニスの剣幕に、思わず一歩下がってしまった。それも良くなかった。セオニスは素早くリドリーの腕を掴み喚くように言った。
「リドリー、本当か?何故だ?やはり毎日の手紙では寂しいからか?映像伝令器を検討したんだが、母上が毎日連絡されてはリドリーが困ると言うものだから‥‥!やっぱり寂しかったからだろう?そうだと言ってくれ‥‥!」
加減はされているだろうが、屈強な北部の戦士に身体を揺さぶられるのはなかなか辛い。「捨てないで‥‥!」と聞こえた辺りでリドリーは渾身の力でセオニスの腕を掴んだ。
「お、落ち着いて!セオニス!違うわ。あのご令嬢が言ったのは、私じゃなくて、貴方が私に嫌気がさして、婚約破棄をするのでは?と聞きたかったのよ」
「へ?」
下がりきった眉でセオニスはリドリーを見上げた。気付けば縋り付くような体勢になっている。
「私が?君を?」
「そうよ」
「‥‥何故?」
セオニスは理解出来ないと言うように首を傾ける。
「皇女殿下に理由を聞いたら?あの方がそう言っていたみたいだから」
カイエンが言うと、セオニスは立ち上がった。
「殿下、どういうことでしょう?」
見ると、令嬢たちが皇女殿下を支えて、立ち上がらせているところだった。令嬢たちもびくりと身体を強張らせた。皆一様に唇を引き結び、皇女をちらりと見る。立ち上がり、すこし威厳の戻った皇女は果敢にもセオニスに向かって口を開いた。
「セオニス様、幼い頃からの決め事だからと言って、望まぬ婚姻を結ぶ必要などないのです。わたくしはセオニス様をお助けしようと‥‥!」
「望まぬも何も、この婚姻は私の一目ぼれが発端だが」
「ええ。そうでしょう。きっと先代大公が勝手に‥‥え?」
淡々と言うセオニスを皇女は二度見する。
「む、昔は可愛らしかったのかしら?でも、今では、くすんだ灰白色の髪を地味に編んで‥‥」
「白銀の露をまとったような淡いベージュの髪、さらにそれを三つ編みに結いおろしているなど、可愛いらしい以外の形容の仕方が分からない」
「や、野暮ったい眼鏡をしている令嬢なんて‥‥」
「眼鏡がなくとも愛らしく可愛らしいが、この眼鏡により可愛いらしさが増していることは間違いない。あるかないかの二択ならば、私はある方を推す」
セオニスの言葉に、皇女をはじめとし、他の令嬢達も絶句している。
リドリーは顔を赤らめた。セオニスにときめいた訳ではなく、単純に恥ずかしいからだと自分に言い聞かせる。自分の平凡な薄茶色の髪をそのように形容されるとは思わなかった。
そして頬を染めるリドリーをまた蕩けた瞳でセオニスが見つめるので、周りの人間はもう何も言えない。
「つまり‥‥婚約破棄はないと言うことですよね?」
「ええ、あのような瞳で、アナトゥエル嬢を見つめられているのですもの」
「こちらが恥ずかしくなるほどですわね」
セオニスは放心状態の皇女殿下ににべもなく言った。
「殿下、私の最推し‥いえ、最愛の婚約者を不安にさせる発言は控えていただきたい。婚約破棄などとんでもない。彼女からされることはあっても、私から申し出ることはあり得ないでしょう」
リドリーは小さく咳払いをして言った。
「私から申し出ることもありません」
セオニスは顔を輝かせてリドリーを抱き上げた。
婚約者というか、小さな子供をあやす様にリドリーを抱き上げてくるくると回したことには納得がいかないが、セオニスがこの上なく嬉しそうなので、リドリーは甘んじて受け入れた。
令嬢達が皇女を支えるようにその場を離れた。
皇女の行動は純粋な恋心から起こしたものだったようだ。行き過ぎてはいたが、リドリーは少し胸を痛めた。しかしどうすることも出来ない。リドリーにとっても、初恋の相手を他の誰かへ譲るわけにはいかないのだ。
その後しばらく、アカデミーではグレース大公の噂は静まっていた。しかし半年もすればまた噂は流れる。
「アナトゥエル嬢、婚約破棄するって噂を聞いたのだけど、本当なの?」
リドリーは振り向き、少し思案して答えた。
「しないわ。これでも、婚約者からは好かれているの」
聞いて来たのは下級生の女生徒達だった。女生徒達は顔を見合わせ、笑顔で頷いた。
「ですよね!そうだと思ってました」
そう言って去っていく女生徒達を見送り、隣にいるアリーシャに尋ねた。
「なんだか、以前と反応が違うわよね?」
アリーシャはにやりと微笑んで答えた。
「ええ。あの一件から、貴方の様な栗色の髪と、おさげと眼鏡が、令嬢たちのブームになってるみたいよ」
言われてみれば、アカデミー内で眼鏡をしている令嬢を見かけるようになった。




