婚約解消。「機は逃げねえだろう」と納めを後にされ続けた十年、杼を一本持って出て、いまは自分の名で縞を織っています
【冬の納めの朝・織屋の土間】
遅い。腹の虫が三度鳴いて、湯呑みの湯気が消えて、それでも多七さんは来なかった。
約束の刻限は、とっくに過ぎている。表を通る下駄の音がするたび、わたしの耳だけが律儀に戸口へ走っては、魚屋だの炭売りだのを連れて戻った。耳まで無駄足。朝から景気がよろしいことで。
土間には、女衆十二人へ渡す綿糸が並んでいた。細い縞が得意な人、手は速いが雨の日に糸を張りすぎる人、藍の濃淡を半筋ずつ拾える人。それぞれの手に合わせ、かせを分け、札を置き、余りは二つ。
十二人ぶんと、多七さんのぶん。来ない人の手まで先に勘定へ入れるとは、わたしの頭はずいぶん気前がよろしいこと。
帯には、使い慣れた古い杼を一本挿してある。先代からもらったものではない。初めて自分の銭で買い、削れた角を自分で磨いてきた、ただの道具だ。
「おこうさん、こっちの青は、あたしのでいいのかい」
「ええ。あなたは打ち込みが固いですから、一かせ多くしてあります。そちらを先に使ってくださいな」
「こっちは足りないよ。今朝は乾いて、いつもより縮んでる」
「裏の棚から半かせ足します。勝手に隣と取り替えないでくださいね。縞が喧嘩しますから」
十二人の声が飛び、わたしは札を替え、糸を足し、濃い藍と浅い藍を二度見た。どなたも縞を一本の線だと思っておいでだが、線の中には糸があり、糸の向こうには手がある。人の違いを数えなければ、まっすぐな縞ほど平気な顔で曲がるのだ。
戸口へ駆け込んできたのは、多七さんではなく義弟だった。息を弾ませながらも、口元には兄の代わりに来てやったという軽い笑いが乗っている。
「兄貴は、お筆さんの家へ行ったよ。機の具合が悪いんだとさ」
「今朝はこちらの納めを手伝う約束でしたが」
「そっちは、おこうさんがいるだろ。お筆さんのところは困ってるんだ」
そっち。三月かけて整えた糸も、十二人の手も、買い手の刻限も、たいそう便利な二文字へ詰め込まれた。荷車一台ぶんを風呂敷へ押し込む腕前である。わたしなら綿糸四十かせをいただいても真似できない。
「いつ戻ると?」
「さあ。直るまでじゃないか」
「そうですか。では、ここはわたしどもで納めます」
義弟は、ほら済んだという顔で帰っていった。返事を聞く役まで軽く済ませるとは、兄弟そろって手間の倹約がお上手だ。
女衆と荷を括り、帳面を合わせ、わたしは買い手の蔵まで二往復した。多七さんに持たせるはずだったひと包みは、肩へ載せれば綿糸十二かせぶん。腰へ来る重みは、勘定に入らないらしい。
戻るころには、飯は板のように冷えていた。わたしは土間に立ったまま、冷や飯を噛み、たくあんを一枚かじった。
「座って食べなよ、おこうさん」
「座ったら根が生えます。根まで生やしては、納めに間に合いませんもの」
笑った女衆の一人が、わたしの湯呑みへ湯を足した。湯だけは熱い。飯の冷たさと足して二で割れればよいのに、世の中の勘定はそう都合よくできていない。
多七さんが戻ったのは、すべての荷を渡し終えたあとだった。
「済んだか」
「ええ。済ませました」
「おこうなら、やってくれると思ってた」
褒め言葉の顔をしている。だが、中身は空のかせより軽かった。
わたしは残った糸屑を拾い、色ごとに分けた。多七さんのぶんとして取っておいた二かせだけが、朝と同じ形でそこにあった。
* * *
【七日後・買い手との立ち会い】
「もう、お帰りになりましたよ」
買い手の供の男がそう言って、荷を載せた車を引き出した。車輪が泥を跳ね、わたしの足袋へ黒い点を三つつけた。三つ。数えられる汚れは、まだ親切だ。
立ち会いは昼からの約束だった。わたしは半刻前に着いた。それでも買い手は帰ったあとで、縞の包みだけが店先に残されている。
「朝のうちに見たいとおっしゃったので、多七さんが刻限を早めました」
「わたしには、どなたからも知らせがございませんでした」
供の男は包みへ顎を向けた。
「色は悪くないそうです。ただ、作り手がいないところでは細かい話ができないから、この値で、と」
差し出された紙にある値は、こちらの言い値より銀を二つ落としていた。綿糸なら二十八かせ。女衆十二人の手間を削れば、誰の夕餉から何杯消えるか。数えると腹が減るので、腹立ちだけ数えることにする。一つ。大きいのが一つ。
「次は、作り手のいる刻に願います」
「こちらも、そのつもりでしたよ」
供の男はそれだけ言い、車を追った。責める先を間違えてはいけない。この人は約束どおり昼に来たわたしへ、帰った買い手の背中を見せる役しか残されていない。
多七さんは奥で帳面をつけていた。わたしが値の紙を置いても、筆先を上げない。
「立ち会いを早めたのですか」
「ああ。向こうが急ぐっていうからな」
「なぜ、知らせてくださらなかったのです」
「朝はお筆さんのところへ寄ってた。人を走らせるほどのことでもないだろ」
「三月かけた縞が、銀二つ安くなりました」
「売れたんだからいいじゃねえか。そっちはあとでいい」
あとで何をなさるのだろう。帰った買い手を呼び戻すか、銀二つを土から掘るか、三月を巻き戻すか。どれも綿糸を紡ぐより難しそうだが、多七さんならきっと、わたしが何とかすると思っている。
「値が落ちた理由を、女衆へどう申します」
「うまく言っといてくれ。おこうは、そういうのが得意だろ」
得意ではない。慣れただけだ。人の失敗をこちらの言葉で包み、角を丸くして渡すうち、包み方だけが上手になった。
女衆には、買い手の都合で値が下がったと伝えた。多七さんの名を出せば、今度は誰かが腹を立て、機の音が乱れる。その乱れを直すのもわたしである。まったく、腹立ちには糸代も出ないくせに、よく働く。
「先に一言くれりゃ済んだのにねえ」
誰かが糸を巻きながら言った。
「ええ。先に一言。それだけで済むことを惜しんで、三月の縞を安くする。高い無駄でございますねえ」
笑いが一つ起き、すぐ機の音へ戻った。わたしも帳面へ落ちた値を書き込んだ。
紙の上では銀二つで済む。けれど十二人ぶんに割れば、少しずつ薄くなって、誰が失わせたのか見えなくなる。
* * *
【師走の前夜・織屋の板の間】
夕方から、経糸の具合がおかしかった。数え直しても、明日の納めまでに二反ぶん足りない。数が勝手に増えてくれるなら拝んでもよいが、綿糸は神仏より現金に忠実である。
奥から出てきた多七さんを呼び止めた。
「多七さん、明日の縞ですが、経糸が——」
「お筆さんの家へ行ってくる。機は逃げねえだろう」
上着を引っかけ、わたしの言葉の前を横切っていく。戸が閉まったあとに「二反ぶん足りません」が残った。言葉にも行き場は要るらしい。
義弟が火鉢のそばで鼻を鳴らした。
「また糸の話か。分け方なんて明日の朝でいいだろ」
「糸そのものが足りません。朝では間に合いません」
「兄貴も忙しいんだ。糸を分けるくらい、誰でもできるって」
そう言って笑い、火箸で炭を崩した。では、どなたでもどうぞ、と帳面を投げられたら、どれほど気持ちがよいことか。だが明日、買い手へ届くのは気持ちではなく縞である。縞は義理にも笑いにも染まらない。
わたしは自分の手銭を数えた。正月用に取っておいたぶんを崩せば、綿糸三十かせが買える。餅が六つ減る。いや、餅で数えると惜しくなるから、ここは糸でいこう。糸は食べられない。なお悪い。
夜道を走り、店じまいしかけた糸屋へ頼み込んだ。手持ちの銭で足りるだけ買い、背負って戻ると、女衆が三人残っていた。
「足りたのかい」
「足りさせました。今から糊を引きます」
「朝までだよ」
「朝が来なければ困りますが、来るのが少々早すぎますねえ」
三人は笑わず、釜へ湯を足した。糸を揃え、糊を引き、乾ききらないところは火からの距離を変えた。湿りを残せば打ち込みが緩み、急がせすぎれば切れる。人間より糸のほうが、無理をさせた結果をすぐ見せるだけ素直である。
夜半、一本切れた。
結び直し、張りを揃え、機へ掛ける。女衆の一人が舟を動かし、一人が端を拾い、わたしは縞筋を追った。眠気は数えない。数えたところで減らないものは、商いに向かない。
多七には、糸を分けるだけなら誰にでもできるという見立てがあった。だから、おこうがやれば間に合う、間に合ったなら不足などなかったのと同じだと、本気で思っていた。
空が白むころ、最後の一反を畳んだ。爪の脇へ藍が入り、指先が糊で固まっている。正月の餅六つぶんは、見事な縞になった。食べても腹は膨れないが、買い手は受け取るだろう。
朝になって戻った多七さんは、積まれた反物を見た。
「よく間に合ったな」
「ええ」
不足を伝えようとしたことも、わたしの銭で糸を買ったことも、夜を越した手の数も、聞かれなかった。間に合ったという出来上がりだけが、多七さんの帳面へ載った。
義弟は端の縞を指でなぞった。
「ほら、できたじゃないか」
わたしはその指を見た。縞筋を逆へ撫でている。布を見る目まで兄へ調子を合わせなくてもよろしいのに。
「納めへ参ります」
反物を抱えた。多七さんはもう、次の用を義弟へ話していた。
* * *
【年明けの朝・織元の店先】
掛かっていた縞を、朝のうちに織り上げた。最後の緯糸を打ち込み、端を始末し、反物を巻く。いつもなら次の糸数が頭へ上がってくるのに、その朝は何も続かなかった。
織屋の杼を集め、板の上へ置いた。長さを揃え、口を同じ向きにし、欠けのある一本だけを端へ寄せる。七本。数は、そこで止まった。
多七さんが帳場から出てきた。
「次は細縞だ。昼までに糸を——」
「この縁は、ここまでにいたします」
自分の声が板の間へ落ちた。軽くも重くもなく、糸巻きを置いたときのような音だった。
多七さんの口が途中の形で止まった。
「何を言ってる。正月早々」
「許婚の縁を、終わりにいたします。掛かっていた仕事は、いま織り上げました」
「お筆さんのことか。あの家には先代から恩がある。困ってたら、そりゃ——」
「お筆さんのお話はしておりません」
「じゃあ、何だ。忙しい時期が続いただけだろ。落ち着けば祝言の話だって」
「わたしは十年、この機の音の中に、自分の名があると思うておりました」
そこまで言うと、続きを探す気がなくなった。どの朝がいちばん冷たかったか、どの約束がいちばん重かったか、並べても仕方がない。十年を反物のように広げて、端から検めてもらうつもりはなかった。
多七さんが何か言いかけたが、わたしは帯へ手をやった。板へ返した七本とは別に、自分で買った古い一本がある。それだけを挿し直した。
「待て。急に出ていって、どこで織るんだ」
「探します」
「女一人で請けられると思ってるのか」
「それも、わたしが考えます」
「おこう」
呼ばれても、足は止まらなかった。
呼ばれるまで立っているのは、これで終いだ。
店先へ出ると、冬の朝日が低く差していた。眩しいので顔をしかめた。よい門出の顔ではない。だが門出にまで愛想を求められては、こちらの頬が持たない。
背負った包みには、着替えと帳面がある。銭は多くない。綿糸なら四十かせにも届かない。それでも全部、わたしが使い道を決められる銭だった。
後ろで、多七さんがもう一度わたしを呼んだ。今度は、数えなかった。
* * *
【春・他町の糸屋の店先】
春になり、わたしは他町の織元から小さな仕事を請けるようになった。初めは二反、次が四反。糸代と手間と飯代を引けば、手元に残るのは雀の餌ほどだが、その雀はわたしの雀である。誰にも返さなくてよい。
糸屋の店先へ着いたのは、約束より半刻も前だった。戸は開いているが、頼まれた相手はまだ来ていない。わたしは軒下へ立ち、通りの着物を眺めた。
茶の細縞、経糸が一本ゆるい。藍の太縞、あれは洗えば右へ寄る。人の着物を勝手に検めるのは行儀が悪いが、目だけは十年働かせても年季明けにならなかった。
なぜ半刻も早く来たのだろう。道を間違えたわけでもない。遅れれば困ると思い、四半刻を足し、何かあればと思ってもう四半刻を足した。足し算の結果、用もないのに立っている。待つことだけは大店並みに仕込まれていた。
刻限ちょうどに、喜兵衛さんが店の奥から出てきた。六十七歳の糸屋の隠居で、今は決まった口へ綿糸を卸す仕事だけ引き受けているという。
「あんた、早いね。……いや、早いんじゃない。十年、待たされてたんだな」
「半刻は、少々やりすぎました」
「少々じゃねえ。次からは刻限に来な。俺も刻限に出る」
叱られた。しかも、まことにそのとおりなので反物一枚ぶんも言い返せない。約束どおりに来た人から、早く来すぎるなと言われる日があるとは。世間は広い。
喜兵衛さんは帳面を開いた。
「頼みたいのは、藍の細縞を六反。綿糸はこっちで三十六かせ出す。納めは来月の十八日だ」
「縮みを見ますと、あと二かせ欲しゅうございます。雨が続けば、乾かす間も要ります」
「二かせ足す。十八日で無理なら、いま決める」
「十九日なら、縞を崩さず納められます」
「じゃあ十九日。朝の五つ」
話は、それで終わった。
喜兵衛さんは帳面へ印をつけた。
「孫を迎えに行くんで、今日はここまでだ。糸は明日の昼に渡す」
「承知しました。明日の昼に参ります」
明日は半刻前に来ません、と口へ出しかけてやめた。わざわざ宣言するほどの働きではない。刻限に来る。それだけだ。
翌日、わたしが着いたのは四半刻前だった。まだ早い。待つ癖は、糸の結び目ほど簡単にはほどけないらしい。
それでも店先には立たず、通りを一巡してから戻った。刻限に戸口をくぐると、綿糸三十八かせが、約束した数だけ並んでいた。
* * *
【夏・糸の遅れと講の寄合】
夏の朝、使いの若い衆が仕事場へ来た。喜兵衛さんからの口上を、息を整えて伝える。
「明日届くはずの糸が、川止めで一日遅れます。納めも一日動かす。都合が悪ければ、今日のうちに返事をくれ、とのことです」
「前の日に、知らせてくださったのですね」
「へえ。止まったと分かったのが今朝で、すぐ言ってこいと」
遅れる。知らせが来る。納めの日も動く。三つのことが、三つとも別々に扱われていた。
わたしは糸の残りを数えた。今日のぶんは足りる。明日は端の始末へ回し、届いてから次を掛ければよい。段取りが一つ動くだけで、誰の手間も銭も捨てずに済む。
「都合はつきます。一日遅れで承知しました、とお伝えください」
若い衆は復唱して帰った。知らせとは、こんなに短いものだった。銀二つも三月も要らない。人が一人、前の日に来る。それで済む。
その月の講では、太縞の注文を受けるかどうかが話に上がった。糸は悪くないが、納めが詰まっている。わたしは帳面を開き、日ごとの手を説明した。
「いまの細縞を二十日に納めます。太縞の糸が二十一日に入るなら、糊引きが二十二日。けれど雨なら乾きが——」
喜兵衛さんは口を挟まなかった。わたしが女衆の手の空く日、藍の乾き、必要な糸の数まで言い終えてから、帳面の端を指で押さえた。
「雨を二日見込んで、納めを三日ずらせ。それで請けるなら糸を出す。ずらせねえなら断る」
「三日動かせるか、先方へ確かめます」
「返事が来てから決めりゃいい」
話を最後まで出してから、答えが返る。それだけのことで、こちらの頭に置いていた段取りが、途中で床へ落ちずに済んだ。
刻限に来る。遅れを前の日に知らせる。話を聞き終えてから答える。
どれも特別ではなかった。商いをする者なら、相手にも都合と耳と一日があると知っている。ただ、それだけだった。
特別でもないことを、わたしは一度も向けられなかった。
冬の土間で分けた余りの二かせ。帰った買い手の車輪が跳ねた泥。板の間へ取り残された、足りません、の続き。三つとも、同じ縞に入っていた。
講の帰り、以前いっしょに働いていた女衆と会った。向こうは籠を抱えたまま、こちらへ半歩寄った。
「おこうさんが出てから、糸が足りないって言っても、誰もすぐ分けてくれなくてさ」
「皆さんで、足りるようになさいましたか」
「やったけど、細縞が半筋ずれたよ。義弟さんなんか、あたしたちにどうすりゃいいって聞くんだもの。納めも十日遅れた」
「そうですか」
「見に戻ってくれないかい、とは言わないよ。あんたの仕事があるものね」
わたしは籠の中の茄子を見た。艶のよいのが五つ。味噌汁にすれば、女衆十二人へは足りない。いまの仕事場なら、刻んで六人ぶんにはなる。
「皆さん、お体だけは壊さぬよう」
それだけ言って別れた。元の織元へ続く道は、角を二つ曲がれば見える。わたしは曲がらず、茄子を売る店へ寄った。
六つ買えば、汁の具になる。七つなら、わたしの椀にも二切れ多く入る。ここは七つ。自分の朝餉に関してまで遠慮するほど、わたしはもう気前がよくない。
* * *
【秋・杼一本の仕事場】
秋の朝、仕事場には藍と生成りの糸が張られていた。講から請けた細縞が八反、他町の織元から太縞が四反。帳面の請け人の欄には、わたしの名がある。
女衆が糸束を持ち上げた。
「おこうさん、三番の糸、昨日より乾いてるよ」
「では張りを一つ緩めてください。あなたは手が速いから、端を半寸多く取りましょう」
「飯の前に、どこまでやる?」
「この一筋まで。腹を空にして織ると、縞までひもじい顔になります」
戸口に人影が立った。多七さんだった。
着物の裾に糸屑がつき、抱えた帳面の角が潰れている。仕事場の女衆は手を止めなかった。機の音の中で、多七さんの声だけが少し大きくなる。
「おこう、話がある」
「こちらは仕事中でございます。短く願います」
「戻ってくれ。糸配りも納めも、うまく回らねえ。おまえがいないと困る」
「そうですか」
「そうですかじゃない。十年やってきただろ。今さら他所の仕事なんか——」
わたしは掛けた縞の端を揃えた。今日のぶんは午までに一筋進める。昼には汁を温める。午後は講へ見本を渡す。どれも多七さんの帳面には載らない、わたしの一日だ。
「機は逃げねえだろう」
多七さんの声が途切れた。
「今日だけ急いで、わたしが戻らねばならない理由はございません。そちらの段取りは、そちらでお考えください」
「おこう、俺は——」
「仕事へ戻ります」
溜飲とは、もっと威勢よく下がるものだと思っていた。実際は、胸につかえていた冷や飯が、ようやくひと口ぶん落ちた程度である。それで十分。残りは熱い汁で流せばよろしい。
多七さんはしばらく戸口にいたが、やがて帰った。追う声はない。機の音も乱れなかった。
昼前には、お筆さんが来た。戸口の外で頭を下げ、言い訳を挟まずに口を開いた。
「わたしの家のことで、多七さんがあなたとの約束を何度も曲げていたと、先ごろ知りました。存じませんでした。申し訳ありません」
「お筆さんのせいではありません」
「けれど、わたしが頼んだことです」
「頼まれたことと、誰との約束を後へ置くかは、別のことでございます」
お筆さんはもう一度、頭を下げた。それ以上は何も言わず、帰っていった。
お筆さんが帰って間もなく、喜兵衛さんが糸の用件を持ってきた。
「次は四十二かせ。来月の十二日に入れる。納めは月末でどうだ」
「雨を二日見ましても、月末で間に合います」
「じゃあ、それで」
話は数量と日取りだけで終わった。わたしは帳面へ、綿糸四十二かせ、十二日、と書いた。
午になる前に、朝の仕事が片づいた。女衆が釜の蓋を開けると、湯気が天井へ上がった。茄子と葱の味噌汁。麦飯も、椀の底まで熱い。
「おこうさん、こっちへ座りな。詰めれば入るよ」
「いま参ります。汁を大きい椀へお願いします」
「働いた人から大きいのだよ」
「では遠慮なく。今日は誰より帳面を働かせましたから」
車座の隙間へ腰を下ろした。立ったまま飯を押し込む者はいない。誰かが漬物を回し、誰かが汁の茄子を一つ余分によそってくれた。
熱い椀を両手で持つ。これですわ。朝は熱いものが命ですのよ。冷や飯ばかりでは、糸より先に人が切れます。
飯のあと、わたしは機へ戻った。帯から古い杼一本を抜き、新しい緯糸を通す。
ひと打ちごとに縞が伸びる。帳面の請け人と同じ名で、わたしはわたしの縞を織った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




