悪役令嬢は偽りの祭壇で傅かない ~枢機卿はアヒル声になり失脚する~
序幕:断罪のファンファーレ
「悪しき政策で国を操る魔女、イザベラ・ロザリンド!神の御名において、貴様を火刑に処することを、ここに宣告する!!」
枢機卿バルタザールの絶叫が、大聖堂広場に轟いた。その声は、広場の四方に配置された巨大な真鍮製の音響管――最新鋭の拡声装置「神の威圧」によって増幅され、まるで天から降り注ぐ怒れる神の雷鳴のように、広場を埋め尽くす数万の民衆の鼓膜を暴力的に震わせた。
見上げれば、空は暗闇に包まれている。真昼というのに太陽は、見えざる巨大な顎に食い尽くされ、世界は不吉な漆黒の闇――「皆既日食」の底に沈んでいる。星すら見えぬ暗黒の中、広場を取り囲むように焚かれた松明の赤黒い炎だけが、風に煽られてゆらゆらと不気味に踊り、広場の中央で、今まさに「魔女」として指弾された一人の女性を照らし出していた。
イザベラ・ロザリンド。侯爵令嬢にして、その聡明さを買われ王室顧問の地位にある女性。血のように深い深紅のドレスを纏った彼女は、四方八方から突き刺さる数万の殺気と、断頭台のように聳え立つ大聖堂の威容を見上げ――優雅に扇を開いて、ふわりと微笑んだ。
「あら、随分と熱烈なラブコールですこと。枢機卿猊下」
第一幕:終末の予言と、紅海の奇跡
時計の針を、少しだけ戻そう。この狂気じみた光景は、三日前から教会が裏で流した「太陽が死ぬ」という予言によって、周到に仕組まれていたものだった。
「科学という黒魔術を使うイザベラが、神の怒りを買い、太陽が消え去るだろう」
「世界は永遠の闇に閉ざされる。作物は枯れ、疫病が蔓延し、国は滅びるだろう」
「助かるには、大聖堂に現れた『新たな聖女マリア』に縋るしかない」
根拠のないデマは、イザベラの急進的な改革に不安を抱く人々を中心に、伝染病のように都を蝕んでいった。そして当日。正午を過ぎた頃、予言通りに太陽が欠け始めると、恐怖は臨界点を超えた。
「太陽が……本当に食われている!」
「ああ、神よ!世界が終わるのか!」
「畑が!俺たちの麦が枯れちまう!」
「子供が泣き止まない!誰か、誰かお救いください!」
パニックになった民衆は、我先にと大聖堂広場へ殺到した。広場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、人々は涙を流しながら神に祈り、地面に額を擦り付けていた。
バルコニーの上からその光景を見下ろす枢機卿バルタザールの口元は、隠しきれない愉悦で歪んでいた。
(ひひひ……そうだ、もっと怯えろ、もっと泣き叫べ!愚かな民どもよ!貴様らのその浅ましい恐怖こそが、私の権力を盤石にする礎となるのだ!)
彼は、隣でガタガタと震えている少女、「聖女」マリアの肩を抱き寄せた。マリアは、教会が運営する孤児院から拾い上げ、純白のドレスで飾り立てただけの無垢な子供だ。
そして少女の横には聖女を象徴する神々しい女神像。
「よいかマリア。失敗は許されんぞ。お前が失敗すれば、孤児院への支援金は即座に打ち切りだ。兄弟たちが路頭に迷い、野垂れ死ぬ姿を見たくはあるまい?」
「は、はい……猊下……やります、言われた通りに……」
「いい子だ。私とお前の祈りで奇跡を起こし、魔女を裁くのだ」
太陽が完全に隠れ、世界が闇に包まれたその瞬間、枢機卿は両手を広げて民衆に告げた。
「静まりたまえ!嘆くことはない。この災厄を招いた元凶はわかっている。……そこにいる、そう!その女だ!」
スポットライトのように松明が一斉に照らしたのは、護衛もつけず、たった一人で群衆の中にいるイザベラの姿だった。
「第一の罪!神聖なる王宮に『錬金術』という異教の黒魔術を持ち込んだ罪!第二の罪!古き良き伝統を破壊し、民に『数字』という悪魔の言葉を植え付けた信仰の破壊!そして第三の罪!貴様のその邪悪な魔力が、神の怒りにふれ、今日太陽を殺したのだ!」
民衆の目に、殺気が宿る。
「あいつのせいか!」
「魔女を殺せ!」
「俺たちの太陽を返せ!」
「悪魔を火あぶりにしろ!」
恐怖は瞬く間に攻撃衝動へと変わり、数万の殺意がイザベラへと向けられた。ボルテージは最高潮に達し、最前列の男たちが彼女を引き裂こうと飛び出し――
しかし、次の瞬間。怒り狂っていたはずの群衆が、息を呑んで立ち止まった。
イザベラが、ただ一歩、足を踏み出しただけである。だが、その身から放たれる冷徹なまでの気品と、揺るぎない知性の輝きは、獣のような殺気を一瞬で圧倒した。彼女が歩みを進めるたび、密集していた人波が、まるで見えない力に押されるように左右へと割れていく。
「な、なんだ……この女」
「どうして足が動かない?……これが魔女の力か……?」
「おい、道を開けろ……悪魔に踏み潰されるぞ……!」
それはさながら、伝説にある海割れの奇跡のようだった。誰一人として彼女に触れることすらできず、ただその威厳に圧倒され、バルコニーへの道を開けさせられたのだ。
枢機卿は勝ち誇った顔を引きつらせ、額に汗がにじむ。
(ええい、なんだ!この女の威圧感は!だが舞台は整っている!さあ聖女よ、奇跡を起こして魔女を裁くのだ!)
彼はマリアの背中を強く叩いた。マリアは涙目で頷き、震える足で女神像の台座に隠された「スイッチ」を踏み込んだ。
第二幕:冒涜の逆流
スイッチが踏まれた瞬間、枢機卿は脳内で甘美な光景を思い描いていた。
(ククク……!今、女神像の目から鮮血のような『紅涙』が滴り落ちる!イザベラの罪を嘆く神の涙を見れば、愚民どもは発狂してひれ伏すだろう!)
しかし――現実は、彼の妄想を無慈悲に裏切った。
『ブバッ、ゴボボボボッ!!』
女神像の目から流れるはずの悲劇的な涙は見えない。大きく開かれた石像の口から、何かが爆発的に噴き出すような、下品極まりない破裂音が響いた。次の瞬間、広場に鼻が曲がるような強烈な腐臭が充満する。
「……うぶべっ!?」
枢機卿の悲鳴。女神像が吐き出したのは、大量のヘドロと汚物だった。それは計算され尽くしたような美しい放物線」を描き、凄まじい水圧で噴射され、バルコニーに立つ枢機卿を正確無比に直撃した。
金糸で刺繍された煌びやかな法衣を着る枢機卿は、一瞬にしてドブ川の底に落ちたように、黒茶色の泥人形へと変わり果てる。
「なっ、なんだこれは!?糞尿!?女神様が……嘔吐なさった!?」
民衆の「殺せコール」がピタリと止まり、凍りついた。聖女信仰の象徴である神聖な女神像が、まるで目の前の儀式に反吐が出たかのように、汚物を撒き散らしている。そのあまりに冒涜的な光景に、思考が追いつかない。
「く、臭ぇ!なんだこの臭いは!」
「女神様が……吐いた?」
「おい見ろ、枢機卿様がクソまみれだぞ!」
「なんだ!神罰か?何が起こった!」
ヘドロまみれの顔を拭うこともせず、枢機卿が絶叫した。視覚的な失敗は、聴覚で挽回するしかない。
「お、音だ!聖女よ、歌え!この場の空気を変えるのだ!」
(ええい、構わん!あの『神の威圧』さえ作動させれば、民衆の恐怖心などどうとでもなる!とびきりの「神の重低音」でこの空気をねじ伏せろ!)
「神の歌声を聴けぇぇぇ!!」
枢機卿の叫びに合わせ、マリアが必死に口を開き、聖歌を歌おうとする。しかし、装置から響いたのは、腹の底を震わせる荘厳な音圧ではなかった。
『グワッ!クワワワワァァァッ!!』
大聖堂に轟いたのは、巨大なアヒルの断末魔のような、間の抜けた奇声。枢機卿が叫ぶたびに、その声はコミカルな音に変換され、大音量で垂れ流される。
「静まれ!(クワッ!)何が起こっている!(ガァーガァー!)」
「な、何がおかしい!(グワッ!)民よ、静まれ!(ガァァァ!)」
緊迫していた空気が、脱力と共にガラガラと音を立てて崩壊していく。
「……アヒル?アヒルが鳴いてるぞ?」
「枢機卿様の声が……ガチョウみたいになってるぞ!」
「あはははは!なんだこれ、喜劇かよ!」
民衆の中から、こらえきれない失笑が漏れ始めた。恐怖の支配者だったはずの男が、泥まみれでアヒルの真似をしているのだ。
さらに、混乱して全身に冷や汗をかいたマリアのドレスに、異変が起きた。枢機卿の計算では、ここで聖女のドレスが黄金の光を放ち、神々しさを演出する手はずだった。
(光れ!光るんだ!このマヌケな空気を『後光』で誤魔化せ!)
だが、現実は残酷だ。黄金に輝くはずの生地が、汗を吸った部分から、じわりじわりとドス黒いコールタール色に変色し始めたのだ。
「い、いやぁぁぁ!ドレスが!私のドレスが汚れていく!助けて!」
マリアは半狂乱でドレスを擦るが、擦れば擦るほど黒いシミは広がっていく。
「見ろ!聖女様が黒く穢れていくぞ!」
「中身は真っ黒ってことか?」
「泥を吐く女神に、アヒル声の枢機卿……」
「こいつら、俺たちを騙しやがったな!偽物が!」
第三幕:偽りの祈りと、空白の三分間
民衆の畏怖は、軽蔑と怒りへ変わった。
「だましやがって!嘘つきめ!」
「俺たちの献金をを返せ!」
罵声と共に、今度は枢機卿たちに向けて石が投げられそうになる。
枢機卿は震える手で空を指差した。まだだ。まだ負けたわけではない。最後の切り札がある。
(ひ、ひひ……そうだ、まだ私には『太陽』がある!「天文学者」から聞き出した『日食の終わり』は、今この瞬間のはずだ!私が手を掲げた瞬間に光が戻れば、これまでの失敗などすべて『闇を払う奇跡』の前座になる!)
彼は威厳を取り戻そうと、泥まみれの両手を広げ、演劇がかった大袈裟なポーズで天を仰いだ。
「静まりたまえ!(グワッ!)……見よ、天はまだ我らに慈悲を残している!私と聖女の清らかな祈りだけが、太陽を呼び戻すことができるのだ!」
枢機卿は、黒く染まった聖女の手を無理やり掴み、祭壇に跪かせた。
「おお、神よ!太陽よ!我らの祈りに応え、その姿を現したまえ!」
広場は静まり返った。腐っても枢機卿。もしかしたら、本当に奇跡が起きるかもしれない。アヒルの声でも、泥まみれでも、彼が太陽を戻せばそれは「神の力」だ。民衆は固唾を飲んで、真っ暗な空を見上げた。
一秒。十秒。三十秒。
……何も起きない。太陽は沈黙したまま、冷たい闇が広場を支配し続ける。
「……おい、どうなってるんだ?」
「何も起きねえぞ……」
「やっぱりデタラメだったんじゃねえか?」
(な、なぜだ……時間は合っているはずだ……。あいつが計算を間違えたのか?いや、そんなはずはない……)
枢機卿の額を、嫌な脂汗が伝い、顔にこびりついたヘドロと混じって流れ落ちる。
「戻れ……戻れよっ……!」
小声で呟くが、空は答えない。沈黙が、耐え難い気まずさへと変わっていく。一分が経過し、二分が経過した頃には、民衆の視線は完全に冷え切っていた。
「プッ、クスクス……」
どこからか失笑が漏れた時、闇を切り裂くように、凛とした声が響いた。
「神は、貴方のような薄汚い詐欺師の味方などなさいませんわ」
第四幕:太陽の女王
イザベラが、バルコニーへの階段をゆっくりと登っていた。汚れのない、ただ圧倒的な「美」と「自信」を纏って。
枢機卿は後ずさった。
「く、来るな……魔女めが……!」
イザベラは枢機卿を無視して、バルコニーから民衆を見下ろす。
「民よ、嘆くことはありません。偽りの祈りが届かぬのなら――わたくしが太陽を呼び戻しましょう」
イザベラは扇をパチリと閉じ、大袈裟なほどの所作で、天に向かって右手を掲げた。まるで、オーケストラの指揮者がタクトを振るうかのように。あるいは、世界そのものを支配する女王のように。
「太陽よ、顔をお見せなさい!」
彼女が高らかに宣言し、指を立てる。
その刹那。世界が変わった。
イザベラの伸びた指先を起点として、黒い太陽の縁から閃光が迸った。ダイヤモンドリングの強烈な輝きが鋭利な刃となって闇を切り裂き、黄金の奔流が広場へと一気に降り注ぐ。
それは人々が目にしたことのない光景。指先から放たれた光は、広がる波紋のように空間を染め上げ、泥にまみれた祭壇を白く洗い流していく。そして、逆光の中に立つイザベラの輪郭を神々しく縁取り、彼女の姿だけを、まるで天が祝福するスポットライトのように煌々と照らし出したのだ。
光の冠を背負い、指先から太陽を生み出したかのようなその姿は、この世の誰よりも、何よりも美しかった。
「う、おおおおおおっ!!」
数万の民衆から、地鳴りのような歓声が上がった。
「なんて眩しい光だ!」
「太陽が戻った!イザベラ様が呼び戻したんだ!」
「奇跡だ……これこそが本物の奇跡だ!」
光の洪水の中で、イザベラは呆然とする枢機卿を見下ろした。
「ば、馬鹿な……貴様にここまでの魔法は使えぬはず……」
「ええ、魔法ではありません。これは『科学』と『事実』です」
彼女は懐から懐中時計を取り出し、枢機卿に見せつけた。
「日食とは天体の運行。計算すれば秒単位で予測できる物理現象です。……枢機卿、貴方が天文学者から聞き出したその予報時間は、『3分』ズレていましたのよ」
「……あ、ああっ……」
枢機卿の顔が、絶望で歪む。たった3分。されど、演説者にとっては永遠にも等しい、致命的な空白の3分。
「女神像の嘔吐は流体力学。アヒルの声は音響工学。そしてドレスの変色は、汗に反応する化学試薬。……貴方がたが『神の力』を偽るために作らせた舞台装置は、全て手を加えさせていただきました」
民衆の歓声が、驚愕と納得のどよめきに変わる。民衆の未知への恐怖は、「タネのある三文手品」に堕とされ、安堵から怒りへと変わった。
イザベラは跪くマリアの手を取り、優しく立たせた。
「もう、操り人形のふりは終わりです。貴女の家族は保護しましたわ」
そして、泥まみれの枢機卿を見下ろしながら、民衆に厳かに告げた。
「民よ、目を覚ましなさい。神は嘘も、そして泥も吐きません。太陽は誰の祈りでもなく、理によって巡るのです。このような偽りの祭壇に、二度と傅く必要はありません」
太陽を背負った彼女の姿は、神々しいほどに理知的で、高潔だった。
小さな拍手が1つ。民衆の最前列から始まった拍手は、瞬く間に数万の民衆を飲み込む巨大なうねりへと変わった。地鳴りのような歓声が広場を埋め尽くす。知性によって霧を晴らされた彼らの顔には、迷いはない。その一打一打の拍手には、真実を示した者への、言葉を超えた最大級の賛辞が込められていた。」
「イザベラ様万歳!」
「我らが太陽の女王万歳!」
嵐のような歓声と拍手が、大聖堂にいつまでも木霊する。泥と汚物にまみれ、影の中で震える枢機卿と、光の中で民衆の称賛を一身に浴びるイザベラ。
その残酷なまでのコントラストを残し、痛快な喜劇の幕は、万雷の拍手と共に下りたのである。
(おしまい)
この話は「悪役令嬢イザベラの断罪手帖」の一部です。
よろしければ、他のストーリにもお目通しくださいませ。
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