早とちり
オフィスレディーは、和製英語である。かつて、働く女性はBG(ビジネスガールの略)といったことばで総称されていたが、一般的な女性事務職はOLと表されるようになった。
仕事内容は職場により任される範囲が異なるが、とくべつな資格や学歴は問われず、未経験でも求人に応募して採用となれば、OLとして働くことができる。対人関係能力やパソコンスキルのない桃瀬は、データ入力や書類の整理、電話対応などに慣れるまで一年かかった。ようやく、ルーティンとして作業が安定してきたところである。
会社の休憩時間、更衣室のロッカーに寄りかかって美容院やエステサロンの相場を調べる桃瀬は、急激に虚しくなった。職場では目立たない存在であることに不満はなく、たまに奮発して買うものがじぶんへの最大のご褒美だったはずが、少しでも他人(石和)によく見られたいという欲がでている。
「わたし、なにやってるんだろ……」
石和はずっと大人で、人生経験も豊富にちがいない。さらに、自己責任が生じる年齢に達した桃瀬は、慎重なふるまいを心がけるべきであり、背伸びをして失敗した場合、すべて自業自得である。
「行くのやめようかな……」
無理して逢おうとしなくても、相手は同じアパートに住んでいる。たまに見かけて胸をときめかせるくらいの関係が、望ましいのかもしれない。携帯電話をバッグに押しこむと、横目で画面をのぞきみた同僚から、クスクスと笑われた。
市販薬や化粧品を使ってケアしても、生まれながらの特徴は隠しきれない。まぶたを二重にする整形に興味はあるが、全体的に腫れぼったい印象は変わらないだろう。桃瀬は、深い溜め息を吐いた。
悩んだ末、ウエストリボン付きのワンピースを身につけてタクシーを呼ぶ桃瀬は、石和のいない火曜日の夜にレッドサンズへ向かった。
「いらっしゃいませ、こんばんは! ……あれ、理乃ちゃんだよな?」
店にはいるなり、ギャルソンの圷が馴れ馴れしく近づいてきた。
「ようこそ。おひとりさま? きょうは石和さんの日じゃないよ。あのひとの担当は水曜って云ったと思うけど」
「ち、ちがうんです」
「ちがう?」
「わたしは、レッドサンズにごはんを食べに来ました。お酒は、その、二日酔いで……、しばらく控えようかなって……」
うつむきかげんで会話する桃瀬に、圷は「ぷっ」と小さく吹いた。失礼な接客態度ではあるが、桃瀬を窓ぎわのテーブル席へ案内した。
「メニューは日替わりとかないから、定番から選んでくれよな。あと、このあいだのクーポン券、使えるのはドリンクだけになってるけど、会計はおれがするし、好きなものを遠慮せずに食べていいぜ」
「そんなことをして、怒られないの?」
「怒る? 誰が? ここ、おれン家だぜ」
「ええ!?」
桃瀬は思わず大きな声をあげてしまい、あわてて両手で口を蔽った。圷の家は店と同じ敷地にあり、大学を留年中の彼は、学費の足しにするため店を手伝っていた。また、親父と石和は旧知の仲だとうちあけた。
「そうなんだ……。えっと、が、がんばってください……」
気のきいた科白が思いつかない桃瀬は、メニューを手にとり、料理の写真をながめた。石和の年齢を考えたとき、妻子がいてもおかしくはない。既婚者だとしても、指先のパフォーマンスを要する副業を理由に、結婚指輪をはずしている可能性が浮上した。
「やっぱり、帰ります」
調子づいて、こなければよかった。桃瀬は「ごめんなさい!」といって、まだそこにいた圷の脇をすり抜けた。よけいな感情を認めたくない。いまなら、ひき返せる。店の外にでると、雨がふりだしていた。傘を持っていないため、アパートまで冷たい雨にぬれて歩き、一時間かけて帰宅した。
✦つづく