裏の顔
生まれて初めて、ティーカクテルを飲んだ桃瀬は、これまでにない経験をした。場ちがい感のある店で、うるわしいイケおじマスターに誘われ、ふわふわした気持ちのまま、タクシーに乗りこむ。
「理乃ちゃん、段差に足もと気をつけて」と云いながら胸ポケットをさぐる石和は、「はい、これ。行きのぶんと合わせて受けとってくれる? ……今夜は、来てくれてありがとう。ゆっくり息んでね」と、紙幣を差しだした。
後部座席にもたれる桃瀬は、セブンスターでの飲酒代も石和が会計をすませてくれたので、「タクシー代くらい払います」と拒むつもりが、胸もとへ押しつけられた。一瞬、石和の手の甲がAカップに触れた気もするが、桃瀬が当惑しているすきに、「おやすみ」といってドアをしめた。店内でのやりとりは、よく憶えていない。紳士的な石和の配慮があって、タクシーは日付が変わるまえにアパートへ到着した。受けとった万札で料金を支払うと、夜風が長めの前髪をゆらした。
「顔が熱い……。石和さんの正体がバーのマスターなんて、びっくりした……」
カクテルマイスターの仕事は副業らしいが、一点の曇りもないシャツにクロスタイを着用している姿のほうがしっくりするため、なぜ、本職として能力を発揮しないのか、ふしぎに思った。
「まさか、女性トラブルとか……?」
石和の顔立ちは品よく整っている。生来の気質にくわえ、日ごろの手入れを積み重ねた風貌で、容姿がものを云う職場で働くべき逸材だ。しかし、セブンスターでの仕事は、旧友であるレッドサンズのオーナーに頼まれ、悩んだ末、ひき受けている。
釈然としない桃瀬がアパートの外階段をのぼるころ、レッドサンズの裏窓では、男たちが一服していた。
「石和さん、こんどは歳下の女の子を攻略中っすか。きょう呼んだ子、めちゃくちゃ地味だけど、ああいうタイプも口説けるなんて尊敬しますよ」
「理乃ちゃんのことかい? 彼女とはなにもないよ」
「でも、目をつけたンでしょ。……あの子、店にはいってきたとき、石和さんがよく使う招待状を持っていたから、すぐにピンときましたよ。はっきり云って、貧乳ですね。あれだとAカップくらいかな。いかにも処女って感じもするし、おれだったら物足りないっすね」
「きみも失礼だな。レディーの品定めは、身体で極めるものではないよ」
石和は、煙草の火を灰皿で消す圷の小指へ視線を落とした。爪がのびている。接客メインの給仕係にとって、清潔感は欠かせない要素につき、ひとこと忠告しておく。圷は「へいへい」と、気の抜けた返事をしつつ店内にもどった。
喫煙者ではない石和は、ペットボトルのミネラルウォーターで水分を補給すると、小さく息を吐いた。飲酒コーナー(セブンスター)の営業時間は午後十時から深夜三時までと短いが、口コミで人気はひろがり、曜日ごとに常連客が足を運ぶ。お目当てのバーテンダーと、談笑を目的にやってくる女性客も多かった。
「こんばんは、マイスター。ミントティーを淹れてくださる?」
カウンター席につく女は、馴れあった調子でカクテルを注文した。ゆるやかなウェーブをきかせたロングヘアーに、三十代とは思えないほど透きとおった肌をした彼女は、沙由里という。
「こんばんは、沙由里さん。今夜は、ずいぶんお疲れのようですね」
石和は、彼女が階段をのぼってくるなり、カクテルグラスをテーブルに置く。目が覚めるようなフレーバーの香りと、炭酸水をいれて作るミントティー(石和のオリジナルブレンド)で気分をリフレッシュする沙由里は、口紅のついたグラスをかたむけ、艶のある声で会話した。
「ねぇ、マイスター。わたしがこうして通う理由、わからない? それとも焦らしてるの? いつになれば番号を教えてもらえるのかしら。わたしは、あなたの何番目でもかまわないのよ……」
✦つづく