カクテル言葉
人の手によって作られるカクテルには、花言葉のようなメッセージ性があり、ロマンティックなものからユニークでおもしろいもの、思わずドキッとするようなものまで多種多様である。そのときの気持ちを表すのに役立つほか、さまざまなムードを演出できた。
テキーラサンライズは「熱烈な恋」、カシスソーダは「あなたは魅力的」、ギブソンは「嫉妬」、オールドファッションドは「わが道をいく」など、ベースのお酒が同じでも、ブレンドや混ぜあわせる割りものがちがうと、まったくべつの名前をもつカクテルとなり、意味合いも変わる。
「沙由里さんは、棘のある美しさで、理乃ちゃんは夢見る少女って感じっすかね~」
カクテルマイスターの資格を得るため、石和から教本を譲ってもらい勉強中の圷直樹は、バーカウンターで桃瀬のためにグラスを磨くイケおじの脇で、カクテル言葉をつぶやいた。意中の相手を口説く手段として役立つ知識につき、やけに勉強熱心で、覚えも早かった。今夜は水曜日で、恋人が来店することになっている。会社で石和との関係を指摘されてから二日ほど経過したが、桃瀬の感情は迷走中だ。なにも知らない石和は、バーカウンター越しに階段へ視線を送り、桃瀬の到着を心待ちにしていた。
時間軸は、月曜日の夕刻にもどる。会議室で過呼吸を起こして会社を早退した桃瀬は、次の日も体調不良を理由に欠勤した。水曜日はさすがに出勤したが、周りの桃瀬を見る目が冷たく感じて居心地が悪かった。ただでさえ孤立していたのに、ますます溝が深まった。さいわい、木曜日は年次休暇を申請してあるため、セブンスターへ足を運ぶ予定は変わらない。しかし、気分は晴れなかった。
……わたしみたいなつまらない人間が、あんなにステキな男性とつきあえただけでも、ものすごく奇蹟だったんだ……。
分不相応なのは承知していたが、少し、調子にのっていたのかもしれない。石和のやさしさが、桃瀬の胸を苦しめた。
水曜日、定時で仕事をあがり帰宅してシャワーを浴びると、チェリーブロッサム色の口紅をぬり、プラチナのペアリングを右手の薬指に嵌めた。どちらも石和からの贈物である。ひとつひとつが大切な思い出につき、じんわりとして涙が浮かんでしまった。
「石和さん、大好き……」
桃瀬を家族経営の事務所へ連れていった石和の思惑は、より発展した関係の先を見据えての行動である。本職と副業をうちあけ、将来について選択する時間をあたえた。一瞬でも結婚を考えた桃瀬は、おろかさを呪っていたが、石和にとっては論外の状況だった。恋路の雲行きがあやしくなっている。それでも、最後にもういちどだけ抱かれたいと思う桃瀬は、交際の終わりを意識した。
「石和さんに、なにもかも捧げて終わりにしたい……。わたしを初めて大切にしてくれた男性だから、別れることになっても、後悔しない……」
愛情など求めては、相手を不幸にする。どれほど桃瀬が望んでも、できるかぎり努力しても、世間体や第三者による風評がつきまとう。桃瀬の立場では、石和を支えることは不可能に近い。能力があまりにもちがいすぎる。石和に大事にされた時間を一生の宝物として、地味な暮らしにもどれば気楽になる。そう思った。
夜十時、レッドサンズのテラスで沙由里が待ち構えていた。
「思ったとおり来たわね。お嬢ちゃん」
毎週水曜日の常連客である沙由里は、石和に好意を抱いている。豊満なボディの持ち主で、年齢は三十ぴったりだ。歳上好みの圷に猛アタックされたが、いまのところ眼中にないようすだった。
「あなたは、確か……、沙由里さん?」
「あら、わたしをご存じなのね」
「は、はい。前に石和さんの電話口から、あなたの声がきこえました。わたしは、桃瀬といいます……」
「そう、それなら話が早いわ。ちょっといいかしら?」
沙由里は席を立ち、コツコツとハイヒール音をひびかせて歩み寄ってくる。大きな胸がゆれるたび羨ましくなる桃瀬は、唇を固く結んだ。沙由里は恋敵でもあるが、すべてにおいて彼女のほうが石和にふさわしい存在に思えた。
✦つづく




