世間の評価
通勤の電車のなかで、同じ会社のひとがいた。以前、更衣室でペンギンのキーホルダーに興味を示した女性社員である(うらやましいDカップ)。吊り革につかまる桃瀬と目があうと、フイッと顔を背けた。会社は、改札口をとおり抜け、駅から徒歩十分ほどの距離だ。仲良く肩をならべて歩くほど、互いに親しい関係ではなかった。
「おはようございます」
更衣室で事務服に着がえてタイムカードを打刻すると、白髪交じりの課長に「桃瀬さん、ちょっといいかね」と、なぜか会議室へ呼びだされた。……朝から呼びだすなんて、わたし、なにかミスしちゃったのかな……。
怒られると思って不安な足取りになる桃瀬は、いやな予感がした。会議室といっても、たいしてひろくはない。ホワイトボードの前に立つ課長へ近づくと、「ゴホンッ」とわざとらしく咳をして、「きみに確認したいことがある」と、前置きされた。
「はい、なんでしょうか」
「知っているとは思うが、わが社の雇用条件では、掛け持ちで働くことやダブルワークを禁止している。本職を持ちながら副収入を得ている場合、厳重注意ではすまされない。わかるね?」
「はい。入社するとき、そう説明を受けました……」
遠まわしに注意されても理解におよばない桃瀬は、なにが起きているのかさっぱりだった。本人が思う以上に深刻な状況に、ひょろっとした細身の課長は眉を寄せた。ほんの少し声を低め、はっきり指摘する。
「こちらとしても聞きにくいのだが、いわゆる、パパ活や援助交際といった類で、金銭を受けとったりしてはいないだろうね?」
「ありません……」
「きみが、中高年くらいの男性の車に乗りこむところや、レストランで食事をするところを見たという報告が、何件かあってね。むろん、従業員のプライベートを調査するつもりはないが、きみとその男性がどういう関係なのか、念のため確認したい。詳しく話してもらえるかな」
見目麗しい石和と肩を並べて歩くたび、世間の注目を浴びる桃瀬は、あらぬ誤解に絶句した。年の差は否めないが、ふたりの関係に不純な動機はない。休日デートを姉に目撃された桃瀬は、すっかり油断していた。会社の誰かにも、見られていたのだ。石和との交際が知れ渡っても困るわけではないが、自信をもって恋人と断言できる勇気がなかった。
……やっぱり、あのひとの横にわたしみたいな冴えない人間がいると、ちがう意味で目立ってしまうんだ……。わたしがもっと大人で美人なら、こんなふうに、変な目で見られることもないはず……。
貧相な躰つきで地味な顔立ちの桃瀬と、完璧な容姿をもつ石和が、恋人同士だとは思われない。それが現実だった。
……わたしは、石和さんにふさわしくない。ふさわしくないと、こんなふうに迷惑をかけてしまうんだ……。あのひとを巻きこんで、変な噂がひろがってしまう……。わたしのせいで、石和さんがうたがわれてしまう。そんなのいや。……このままじゃ、だめ……。だめなのに……。
葛藤して沈黙する桃瀬をよそに、課長は深い溜め息を吐いた。誤解を正すべきだったが、ショックを受けてうまく説明できない。
……どうしよう、なんて説明すればいいの? 石和さんは、わたしにとって大切な存在……、絶対に傷つけたくない……。傷つけたくないよ!
「桃瀬さん? 桃瀬さん!」課長の声が遠くなる。ヒューヒューと過呼吸を起こして青ざめる桃瀬は、ガクンッとその場に尻もちをつく。「はぁっ、はぁっ」と息苦しくて胸を押さえると、課長が呼んで駆けつけた女性社員に背中を支えられ、「桃瀬さん、おちついて」と、なだめすかされた。いったい誰が、告げ口をしたのだろう。桃瀬は、会社の人間が全員「敵」に見えてしまった。それは悲しい現実だった。
石和さん、ごめんなさい……。わたしのせいで、こんな不名誉な扱いをされるなんて、本当に、ごめんなさい……。
石和の社会的地位を考えたとき、桃瀬が恋人では役不足なのだ。いまさらのように痛感した。
✦つづく




