将来のこと
愕然として、絨毯の上にへたりこむ桃瀬は、青ざめて沈黙した。石和から「大事にする」と告白されたとはいえ、将来を考えたとき、のんびりしているわけにはいかない。幸福な未来を築きあげるためには、ふたりで話しあう機会が必要だ。わたしだけが石和さんとの結婚を意識するなんて、自分勝手すぎるよね……。
落ちこむ桃瀬をよそに、圷は、Vネックのシャツにカーキのカーゴパンツというシンプルな恰好だが、露骨な口ぶりが影響し、表情に翳りが生じやすい。不機嫌そうに寝そべって、ずかずかあがりこんだ挙句、携帯電話の画面をながめる始末だ。石和に逢いにきたようすだが、階下の住人は留守につき、桃瀬の部屋で時間をつぶす算段なのだろう。……女のコの部屋に居座るなんて、信じられない……。
圷は桃瀬よりいくつか歳上だが、現在は学生の身分である(本人いわく、留年したらしい)。桃瀬は社会人の立場として、青年の非常識なふるまいに呆然となるが、気を取り直して洗濯物を片づけた。しばらくすると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。「はーい」と、なぜか圷が返事をして、来訪者を出迎える。ガチャッ。
「貴之さん、おかえり~」
「おかえり、ではないだろう。きみは、なにをしているんだ」
「い、石和さん……」
「理乃ちゃん、迷惑をかけたね。直樹くんに、失礼なことされなかった?」
「だいじょうぶです(ふたりとも名前で呼びあってる? いつのまに……)」
玄関さきで会話が発生したのち、石和が圷を連れだす。「おじゃましました~」と手をふる圷に、桃瀬は口ごもり、「ごめんね、理乃ちゃん。またあとでゆっくり話そう。戸締りしっかりね」という石和が、ドアを静かにしめた。
「い、行っちゃった……」
ふたりの男性から見おろされる状況は緊張したが、ようやくひと息つけると思ってリビングにひき返すと、圷の携帯電話が放置されていた。すぐに追いかけようとして携帯電話を拾うと、ピンポーンと、ふたたびチャイムが鳴る。ガチャッ。
「わりィ、忘れものしちまった。あ、その携帯、おれの。サンキュー」
圷は桃瀬の手から携帯電話を受けとると、「おれさ、カクテルマイスターの資格を取ることにしたんだ。……で、貴之さんが教材を譲ってくれるって云うから、もらいにきた。じゃあな、おやすみ」バタンッ。圷のほうから玄関のドアをしめた。
「直樹くんが、カクテルマイスターに?」
まちがいなく石和の影響だと思われたが、目標に向かって努力する姿は応援すべきだろう。圷の見た目は精悍で、石和とは異なる魅力を持っている。のちに、沙由里に「坊や」あつかいされて悔しかったので、見返すつもりでカクテルマイスターを目ざすという(やや不純)な動機を知ることになるが、きっかけなくして、ひとは変われない。
ようやく肩の力が抜ける桃瀬は、冷凍食品のパスタを電子レンジで温めた。簡単な夕ごはんをすませ、シャワーを浴びる。日課の手入れは欠かさず、除毛クリームを手足にぬって、肌理をなめらかに整えた。石和に破られた処女膜に指で触れることもできたが、こわくて確認する気にはなれない。……なんだろう、この感じ。わたし、すごくうれしかった? ……石和さんになら、傷つけられても後悔しない。
「理乃ちゃん、入浴中か? シャワーの音、けっこう階下までひびくンだ。……同じアパートって、なんかエロいな」
石和の部屋で教材を受けとる圷は、桃瀬の裸身を想像した瞬間、ちょっとだけ興奮した。いやらしい感想を述べる圷に、石和は同意せず、小さく肩をすぼめた。誰でも、あるとき突然おとなになる。経験や理解など、あとから追いつくもので、成長段階に個人差があって当然なのだ。ゆえに、石和は桃瀬を子どもあつかいした覚えはない。自らの躰を使って、彼女を真の意味でおとなにすることは、交際の醍醐味でもあった。
「家まで送ろう。ここまで遠かっただろう」
と、車での送迎を名乗りでた石和の親切に、圷は甘えることにした。紙袋にまとめた教材は、ずっしり重たかった。
✦つづく