謎のイケおじ
石和と過ごした夜は、これといってなにも起きなかった。酒でも飲んで見境をなくしていれば、もしかしたら……。
『は? あんた、なにやってんの?』
と、受話器ごしに溜め息を吐く理加子は、桃瀬の姉で、夫の実家で暮らしている。現在の体調は安定しており、去年、結婚式を挙げたときには身ごもっていた。親友と呼べる存在がいない理乃にとって、なんでも相談できる姉との関係は、生活環境が変わっても切実だ。姉もまた、姑と意見が衝突すると、『ちょっときいてよ!』と、頭ごなしに電話をかけてくる。
『でも、すごいじゃない。行きずりの男を部屋に泊めるなんて、あんたにしては冒険したわね。それこそ、ひとり暮らしの醍醐味よ。なんだか、うらやましいわ。あたしは大学をでてすぐ結婚しちゃったから、独身を満喫できなかったもの。……あ、一日遅れたけど、誕生日おめでとう。プレゼント忘れてたわ。ごめんね』
姉の口ぶりはいつもこんな感じで、悪気はない。
『それで、あんたはどうするの。誘いにのってあげるわけ?』
「う、うん……。だって、無視したら気まずくなるもん。同じアパートに住んでるひとだし……」
『どこに招待されたのよ』
「それが、よくわからなくて。だからお姉ちゃんに電話したんだよ」
石和がポストに差しこんだ白い封筒には、バースデーカードがはいっており、[◯月◯日水曜日/PМ10:00/レッドサンズ]と、流れるような文字で書いてあった。おそらく、本人の筆致である。調べたところ、レッドサンズとは純喫茶のような店だった。指定時刻が遅いのが気になったが、相手の都合だろう。
『ごちそうしてくれる感じなら、行ってくればいいじゃない。食事を愉しむふりをしながら、下心をさぐるのよ。あんたにその気があれば、あたしは好きにすればいいと思うけど……』
「その気って?」
『とぼけないで。この先もずっとバージンでいるつもり? あたしは十六で男と寝たわよ。あんたも、勇気をだして味わってみたら』
「な、なんの話? いきなり飛躍しないで」
石和とは父親ほど年齢が離れている。実際、断りもなく「理乃ちゃん」などと呼び、まるで子どもあつかいだ。コンビニでデザートを買ってきてくれたが、酒類はすすめられなかった。桃瀬が社会人であることは、室内を見れば想像はつく。誕生日だとうちあけたとき、歳をきかれなかったので、まだ未成年だと思われたのかもしれない。
『あ、お義母さんが帰ってきたわ。切るわね』
一方的に通話を終了されたが、会社の昼休みは長くない。更衣室のロッカーへ携帯電話をしまう桃瀬は、化粧ポーチを持って、女子トイレに向かった。鏡に映る暗い顔を見つめ、石和との距離感に頭を悩ませた。
「……わたしなんか、ただの近所の子どもよ。……あのひとのほうが謎すぎる。花束なんて、男のひとからもらったことなかったな。……でも、女の子にあんなにやさしくするのは反則だよ」
たとえ結婚指輪を嵌めていなくても、年齢的に既婚者の可能性が高い。紳士的なふるまいは、あらぬ誤解をまねくおそれがあった。まんざらでもないと血迷う桃瀬は、乾燥した唇にリップクリームをぬると、落ちつかない気分で仕事にもどった。
石和がバースデーカードに指定した日付は、あすの水曜日だ。姉のことばを思いだし、どうするべきか、ますます悩ましい。結局、逢えない理由をさがしても見つからないため、レッドサンズへ足を運ぶことにした。
「……あれ、どんな恰好をしていけばいいの?」
次なる問題は服装である。桃瀬の私服は、あまりにもバリエーションがとぼしい。
✦つづく