赤ちゃん
桃瀬とベッドインするさい、石和は直前に避妊具をつけている。性交渉は合意の上だとしても、妊娠を目的とした行為ではないため、当然ながら中出しは禁物である。また、バージンを捧げた相手とかならず結婚するとはかぎらず、恋愛関係の延長に夫婦生活が待っているわけではない。
月曜から金曜まで、まじめに働く桃瀬にとって、週末の休日は大事なリフレッシュタイムだが、日曜は身重の姉の買いものにつきあって、荷物を持つ腕が筋肉痛になるほど、一日じゅうショッピングモールを歩きまわった。
「……つ、疲れた……」
アパートに帰宅したとき、駐車場に石和の車はなく、どこかへ外出していた。カクテルマイスターは副業につき、ふだんは会社に勤めているはずだ。石和との将来を真剣に考えたとき、結婚して子どもを育てる環境の確保や経済力は必須である。二十代の桃瀬にいまのところ健康面の不安はないが、先に四十路を迎える石和の体調管理は切実だろう。……バーの仕事は深夜だし、休みの日もよく出かけているみたいだし、だいじょうぶかなぁ。
石和は年齢に応じた見た目ではなく、むやみに若々しい雰囲気を持ち、なおかつ、イケおじの要素がこれでもかというくらい備わっている。「セフレにされたら終わりよ」という姉のことばが、桃瀬の頭を悩ませた。階下の住人とはいえ、石和の行動範囲は謎に包まれていた。
「石和さんがわたしの部屋に泊まったとき、べつになにも起こらなかったし、女性にひどいことをするようなひとには見えないよ」
「あのさ、男に寝込みを襲ってほしかったら、ヌーディ感のある勝負下着を身につけろよ。こう、色っぽいやつな」
「あ、圷さん!?」
突然の声は、レッドサンズでアルバイトをしている大学生で、圷という青年である。二階の物干し竿を親指でクイッとしめし、「あそこが、理乃ちゃんの部屋だろ? わかりやすいよな」といって、Aカップのブラジャーを斜に見あげた。タンクトップやフェイスタオルで隠すように干していたが、日中の風に吹かれてピンチハンガーの向きが変わっている。
「きゃあ!? やだ、見ないで!」
カァッと赤面して外階段をのぼりだす桃瀬のあとを、なぜか圷もついきた。時刻は夕方につき、西陽は沈みかけている。玄関の鍵をあけてリビングの窓へ一直線に向かう桃瀬は、背後で「じゃまするぜ」という圷の声をきく。いまはそれどころではないとばかり、あわてて洗濯物を取りこむと、勝手に冷蔵庫をあさる青年を見て、「なにしてるの?」と非難した。
「そんなに警戒しなくても、いきなり襲ったりしねぇよ。ってか、あのひとの女に手をだしたら、おれがいちばん大事にしているものを毀すらしいから、ゾッとしねぇよな」
「な、なんの話ですか? わたしに用があるなら、どうぞおっしゃってください……」
「敬語、使わなくていいぜ。おれも面倒くさいから使わないし。おれのことは、名前で呼べよ。そのほうが気楽でいいしな」
「圷さんの下の名前、知らない……」
「直樹だよ。直すに樹って書く」
「な、直樹……くん……?」
圷は、紙パックのりんごジュースを見つけるとストローを刺してのんだ。フルーツ類を好んで食べる習慣がある桃瀬は、パイナップルの缶詰や冷凍みかんなどを買い置きしてある。いきなり部屋へあがりこんできた圷は、リビングに移動すると「石和さんが帰ってくるまで、ここで待たせてもらうぜ」などといって、くつろいだ。
「理乃ちゃん、妊娠したのか?」
「へ? なんのこと?」
桃瀬のショルダーバッグには、ペンギンのキーホルダーのほか、哺乳瓶の形をしたピンバッチがついている。ショッピングモールで理加子がランダムに当てたくじ引きの景品で、桃瀬がほしかったのはヒヨコをモチーフにしたコースターだったが、残念ながらハズレてしまった。
「できるとしたら、石和さんとの赤ちゃんだよな。なあ、週に何回くらいセックスしてんの」
「き、急に変なこと云わないで……」
「どこも変な話じゃないだろ。石和さんの年齢なら子どもがいても不自然じゃないわけだし、もし、ほしがってたらどうするつもりだ」
「……!?」
圷の何気ない科白が、桃瀬の心臓にダメージをあたえた。グサッと、矢で射抜かれたような衝撃を受け、息が詰まった。
✦つづく