リアルなG!
「ねえ、理乃ちゃん、ここ、さわってもいいかな?」
「……だ、だめです」
「どうしても?」
「絶対だめです」
「少しだけなら、いい?」
「少しだけでもだめです」
「残念、あきらめるよ」
小さなテーブルを囲って食事をする桃瀬は、アパートの階下に住む石和と、誕生日の夜を過ごした。先にショートケーキを食べ終えた石和は、コンビニで弁当を買ってくるといって腰をあげ、なにを思ったのか、いきなり桃瀬の首筋へ顔を近づけた。
「ぼくね、ホクロとか痣を見つけると、つい、さわりたくなるんだ。それが、じぶんのものでなくてもね。……この衝動って、なぜだかわかる?」
「わ、わかりません……」
返答に困る質問だ。顔見知りていどの他人を部屋にあげてしまった桃瀬は、むやみに緊張した。ありふれた中年男だと思っていた相手は、面と向かってしばらくすると、器量のよさが際立つ。いわゆる「イケおじ」という容姿の持ち主で、実年齢よりも若そうに見えた。
桃瀬は、外出した石和が帰ってくるまえにブラジャー入りの紙袋をクローゼットの上段へ押しこむと、空になった皿を片づけた。数十分後、ピンポーンとチャイムが鳴った。内側から玄関のドアをあけると、石和から花束を差しだされた。
「遅くなってごめんよ。ちょっと調べたら、閉店まえの花屋を見つけてね。あらためて、お誕生日おめでとう。ガーベラという花だけど、気に入ってもらえるかな? きみの親切に感謝をこめて、ぜひ、受けとってほしい」
まるで恋人のような科白をつむぐ石和の足もとに、黒い物体が横切った。通称Gである。視界にとらえた桃瀬は、ガーベラの花束をふりあげ、バシッと、ゴキブリを仕留めた。黄色い花びらが無残に散った。桃瀬は「あっ!?」と声にだして青ざめたが、石和は至って冷静に対処した。スーツの胸ポケットからハンカチを取りだすと、ひっくり返ったGの死骸を包みこみ、「ビニール袋はあるかな」と訊く。
「食器棚のひきだしに……」
同じ構造の階下に住む石和は、部屋の間取りを承知しているため、迷わず台所へ向かった。
「ぼくの部屋にもでたことがあるよ。ハイツまちだ(アパートの名前だよ)は、築五十年になる木造建築だからしかたないね。ガーベラを供花にしてあげよう」
ごみ箱へ、ぽっきり茎の折れた花とGをハンカチごと捨てる石和は「これでよし」といって、水道で手を洗った。
「ご、ごめんなさい。せっかく買ってきてくれたのに……。わたし、花代を弁償します。おいくらですか?」
「気にしないで。贈物が役に立ってよかった」
「でも……」
「男の口から、云わせないでおくれ」
「あ……(無神経で)、すみません……」
とっさの判断とはいえ、花束のあつかいを完全にまちがえた桃瀬は、石和の寛容さが身にこたえた。申しわけない気持ちでいっぱいになる。
「さあ、夕食にしよう。理乃ちゃんのぶんも買ってきたから、好きなものを選んで」
リビングのテーブルに、サンドイッチやおにぎり、焼きうどん、スティック野菜のサラダなどを並べる石和は、コンビニ袋を折りたたんで坐った。
「こんなにたくさん……?」
「出かけるまえに、理乃ちゃんの好物とアレルギイを確認すればよかったね。食べられそうなものがあるといいけれど……」
「だ、だいじょうぶです。それじゃあ、おにぎりとサラダをいただけますか?」
「遠慮してる? ジャムパンとプリンもどうぞ」
「ありがとうございます」
なごやかな雰囲気で夕食をすませたあと、石和はシャワーを浴びた。替えの下着は、弁当を買うついでに調達し、抜いだ靴下といっしょにコンビニ袋にまとめる。押入れからタオルケットをひっぱりだす桃瀬は、同じアパートの住人とはいえ、石和のかもしだす大人の余裕が悩ましかった。
さすがにパジャマを用意できなかった石和は、スーツが皺になるのもかまわず、リビングで丸くなって眠った。桃瀬は悩んだ末、朝風呂に予定を変更すると、ベッドのある寝室にすべりこむ。
薄い襖を隔てて眠りにつく桃瀬は、石和の存在が気になり、何度も寝返りを打った。チュンチュンと鳥の啼き声がきこえる。目を覚ましたとき、リビングに人影はなく、石和は玄関の外にいた。
「おはようございます……」
「やあ、おはよう。気持ちのいい朝だね」
どういうわけか、きのうと異なる色合いのスーツを着ている。いったん部屋にもどったようすで、見れば、髪型も整えてあった。パジャマのまま立ち話におよぶ桃瀬は恥ずかしくなり、前髪で顔を隠した。
「理乃ちゃんさえよければ、後日、ぼくに逢いにきてもらえるかな」
朝陽がまぶしくて桃瀬はうつむくが、石和は「招待状」と記した白い封筒をドアのポストへ差しこんだ。「待っているよ」といって、階段をおりていく。
✦つづく