信頼関係
翌朝、アパートの駐車場で待ち構えていた石和は、スーツの内側から携帯電話を取りだし、たったいま受信した圷のメールを読んだ。あれから、沙由里にアプローチしたらしく、見事に玉砕したという内容だった。
「手の早い男だな」
沙由里の挑発になびかない石和は、くすッと笑った。外階段をおりてくる桃瀬は、ショルダーバッグにペンギンのキーホルダーを付けている。水族館デートの記念に買ってもらったもので、寝室にはマンボウのぬいぐるみも置いてあった。
「やあ、おはよう」
「あ……、おはようございます……」
いつからそこにいたのか、ごく自然に挨拶してくる石和の表情は、おだやかだ。きのうのきょうで気まずい桃瀬は、電車の時刻を確認するふりをして、腕時計へ視線を落とした。すると、歩み寄ってきた石和に「キスしようか」と前置きされ、腰へ腕をまわされた。人目につかないかと当惑する桃瀬の唇に、ふわっと、気息をあわせる。歯列を割って口腔へ舌がはいってくると、桃瀬はビクッと驚き、反射的に顔をそむけてしまった。初めてのディープキスは、シトラスフレーバーだった。石和は、のど飴をなめていた。
「がっかりした?」
「……え?」
「ぼくとしては、いちご味にしようかミントキャンディにしようか、あれこれ迷ったんだ」
「……あ、……飴?」
歯磨き粉の香りだと思った桃瀬は、そんなふうに相手の緊張をなごませる石和の気づかいに感謝して、「ふふっ」と笑みをもらした。がっかりさせたのはじぶんのほうだと反省し、首をふる。石和をもっと信頼して身をゆだねるべきだと思い、顔をあげた。
「あの、あさっての夜、お店にいってもいいですか?」
「もちろんだよ」と応じる石和は、「いってらっしゃい」と恋人の背中を送りだす。ペンギンのキーホルダーが、キラリと光った。鳥類に属するが空を飛べないペンギンは、すべてがもどかしい存在の桃瀬とよく似ていた。
水曜日の夜、バーのカウンターで準備を手伝う圷は、ちらちらと石和の下半身へ視線を向けた。
「きみはまた、不躾だな。なにを勘ぐっているんだ」
「はあ、まぁ……、そんなのきまってるじゃないっすか。理乃ちゃんとはどこまでいったんですか? 交際は順調っすか」
「順調だよ。今夜、飲みにくるよ」
「へえ、それはよかったですね。……で、処女を抱いた感想は?」
「圷くん、慎みたまえ」
「もしかして、まだセックスしてないとか? まさか、そんなわけないですよね。手をつないで、たまにキスをして、気まぐれにデートして……なんて、ただの恋人ごっこっすよ」
カチャッと、キャビネットにグラスを並べる圷は、深い溜め息を吐いた。沙由里にフられた憤りを、原因の本人へぶつけてくる。石和が遊び人ではない性格を承知していたが、完璧な容姿と能力を見せつけられるたび、男として憧憬の念だけでなく、対抗心が燃えあがる。
「おれも、カクテルマイスターの資格をとって、ナイトクラブに就職してみるかな。そうすれば、いまよりずっとイケてますよね」
モテるかどうかという要素だけで考えるならば、圷は、すでにいくつかの条件を獲得している。身だしなみのセンスやスタイルも悪くない。経験値による知的でダンディな雰囲気はまったくないが、建設的で前向きな姿勢は好感が持てた。
なりゆきに乗じて共倒れしないよう忠告する石和は、桃瀬とのベッドインを慎重に進める必要を再認識した。指を痛がるのは最初のうちだけだとしても、桃瀬の体力や気力を懸念した。いきなり激しく求めては、心身を傷つける行為となってしまうだろう。
「まずは、ぼくを信頼してもらわなくてはね」
「石和さんって、禁欲主義っすか?」
「そう見えるのかい?」
圷の妄言に、石和は自嘲ぎみに笑った。
✦つづく