キス
あれから、石和と行きあうことなく、四日ほど経過した休日の昼、桃瀬は、ドラッグストアの化粧品コーナーで、店員に肌トラブルの悩みを相談した。うるおいが足りない乾燥肌で、ニキビもできやすい。紹介されるがまま、いくつかのテスターを試した。最終的に、デリケートゾーン用の石鹼やカミソリ、除毛クリームなどもカゴに入れて会計をすませた。
「あの石和さんとつきあうなら、いつ見られても平気なくらい、全身きれいにしておかなくちゃ……」
胸をもまれたときはシャツの下からにつき、直接、素肌を見られたわけではない。桃瀬が処女であろうと、石和ほどの男ぶりならば、肉体関係を抜きにして交際するなど、まず、あり得ないだろう。
「初めては痛いってきくし……、わたし、ちゃんとできるのかなぁ……」
性行為の不安は尽きないが、まだ、告白すらしていない。石和の求愛行動を受けいれる覚悟はできたが、思いきって逢いにいく勇気が足りなかった。
「いやじゃなかったのに……、あんなふうに拒まれたら、向こうだって逢いにくいはず……」
「やあ、誰かに逢いにいくところ?」
「き、きゃあっ!?」
突然の声に驚いてふり向くと、ドラッグストアの紙袋から、商品が落下した。アパートの帰り道、背後にあらわれた石和の足もとに、まさかの除毛クリームが転がっていく。長身をかがめて拾おうとするのを、「さわらないでぇ!」と、必死な形相で奪いとる桃瀬は、プチパニック状態だ。外出の予定がある日は、シャツの下にカップ付きのタンクトップを着用する。石和の視線が胸もとに落ちても、バストトップは透けていなかったが、大きさは熟知されているため、すぐさま反転した。
「理乃ちゃん、このあいだはごめんね。……こんな道端であやまるなんて、気のきかない男だと思うけど、どうすれば、赦してもらえるだろうか」
たったいま、石和とつきあうために出費を惜しまなかった桃瀬は、勇気をだしてふり向くと、真っ赤な顔で石和を見あげた。
「理乃ちゃん、具合が悪いの?」
石和は紙袋の店名に目をとめ、桃瀬の顔をのぞきこんだ。「どこも悪くありません」と精一杯の悪態をつき、その場から逃げだした。
「理乃ちゃん、待って」
アパートの外階段で石和につかまった桃瀬は、手すりと腕のせまい空間に閉じこめられ、ぎゅっと紙袋を抱きしめた。石和は肩で息をしながら、二度目の告白をした。
「理乃ちゃん、きいて。……断りもなく手をだして、すまなかった。きみがあまりにも無防備だから、がまんできなくてね。……このさい、ぼくと、真剣につきあってくれないかな。大事にすると約束する」
「……真剣って、なに? 石和さんは、わたしのことが好き……なの?」
「うん、そうだよ」
「胸が、ぺちゃんこでも……」
「かわいいと思うよ」
「そ、そんなの嘘だ。信じられない」
「嘘じゃないさ。ぼくは、きみのすべてに触れたくてたまらない。理乃ちゃんに興奮するんだよ」
石和は白昼堂々と、性欲を白状した。そうなってもかまわない桃瀬は、勇気をだして本音をうちあけた。
「わ、わたしも石和さんが好き。おつきあい……、してみたいです……」
涙がにじんで視界がぼやける桃瀬の唇に、やわらかいものが触れて、離れてゆく。口づけされたのだとわかったのは、「これからもよろしくね」と微笑えまれたあとだった。ファーストキスなのに、あっさり奪われてしまった。
「はい、これ。受けとってくれる?」
世間は休日だが、スーツ姿の石和は、胸ポケットから合鍵を抜きとり、「いつでもおいで」といって差しだした。合鍵は、恋人関係が成立した証しだった。
✦つづく