理想と現実
「なぁに、調子でないの?」
「どこがです? ぼくはいつもどおりですよ」
水曜日にかぎり、バーの常連である沙由里は、石和目当ての客である。桃瀬とは真逆の見た目と性格の持ち主だが、気の強い女を飼い狎らすのは、石和の嗜好でもあった。バーテンダーを副業とする理由は、こういった女性と一線を引くためでもある。うっかり深入りした場合、持ち出しばかり多くなる(必要経費として水に流すのならば、相手を選びたいのが本音だ)。
今夜の石和は、アパートの部屋に残してきた桃瀬のようすが気がかりだった。意図して、彼女の肌に触れた結果、怯えさせた挙句、泣かせてしまった。男として、汚名は返上しなくてはならない。
おもむろに身をのりだす沙由里は、メルディーのホロ入りマネキュアをぬった爪で、カウンター越しに石和の胸を突いた。
「わたしのマイスターにそんな暗い顔をさせるなんて、よほどのことがあったのね。……どんな女なの。知りたいわ」
「……沙由里さん」
「ふふっ、動揺した? 図星ね」
石和を困惑させて笑う沙由里は、カクテルグラスを口へもってゆき、微かに目を細めた。
そのころ、アパートの桃瀬は、信じられない状況に途惑っていた。異性から「かわいい」などと云われた記憶は、いちどもない(幼少期のお世辞はべつの話)。自他ともに認める中の下といった容貌なのに、イケおじから「求愛」されてしまった。
「ぜったい、なにかのまちがえだ……。こんなこと、あるわけない……!」
じかに触れられた胸が、いまさらのようにドキドキと高鳴った。驚きのあまり硬直してしまい、すっかりAカップの大きさを指でなぞられたが、石和の表情はおだやかで、とくに不満げな態度はしめさなかった。
「なんで、わたしなの……。あり得ないよ……。だって、あんなにステキなひとが、本気でわたしを好きになるなんて、ぜったいない……」
もしかしたら、桃瀬が二十歳の誕生日を迎えた事実を知り、成人女性と見做して、遊ばれているのかもしれない。
「……そうにきまってる。……きっと、そうに……」
石和を軽蔑したくても、心がそれを希まない。「こんばんは、理乃ちゃん」そういって、いますぐ、玄関のチャイムを鳴らしてほしい。あの日、石和を部屋に泊めたときから、桃瀬は恋する乙女と化していた。とはいえ、初恋の相手が歳上すぎて、気持ちの整理が追いつかない。ふたりで町を歩けば、パパ活とまちがわれそうな予感がした。
「これから、どうしたらいいの……」
さいわい、石和とは生活習慣が少し異なっている。顔さえあわせなければ、階下の住人とはいえ、これまでどおりに過ごせばいい。交際をはじめるならば、じぶん磨きは必須である。長い指にやさしくもまれた胸が、心地よい鼓動に変わってゆく。「わたしなんかで……、だいじょうぶ……?」桃瀬にとって、石和との関係は、なにもかも初めての経験となるだろう。たとえ傷つく結果になっても、好きになった相手と心が通うかぎり、甘えたり、たよってみたいという欲が生まれた。
「石和さん……」
雨のふる窓の外を見つめ、ゾクッと寒気がした桃瀬は、玄関の鍵を掛けて寝室のベッドにもぐりこんだ。
「わたしも、石和さんのことが……」
好きだと伝えたい。桃瀬はゆるゆると微睡み、朝になって雨がやんでいたら、石和の部屋を訪ねようと思った。──しかし、雨はふりつづけていた。肌寒い朝につき、シャツブラウスにカーディガンをはおって出勤した。
✦つづく