夢みるAカップ
桃瀬理乃、本日二十歳、高卒後に流通会社の事務員へ就職、彼氏なし、ひとり暮らし二周年の誕生日、デパートの下着売場でサイズの合わないブラジャーを購入した。
買いもの袋にはブランド名の単語がつづられていて、高級店に立ち寄ったことを主張している。使い道のない躰に自虐的な意味をこめて、年に数回、そんな無駄づかいをする彼女は、男との快経験がない、いわゆる処女である。異性にふり向いてもらえないのは、「胸が小さいから」なんて云い訳はしない。
桃瀬は、生まれつき目が細くて鼻筋は低く、唇のかたちも両端は下がり気味で、ぼんやりとした顔の印象を受ける。美人の部類でないことは明白につき、前髪を垂らして顔を隠す癖があった。
「お嬢さん、いま帰り?」
ふいに声がかかって顔をあげると、同じアパートの階下に住む石和という苗字の男が、書類かばんを下げて立っていた(名前は忘れた)。三十代後半といった雰囲気で、身だしなみは、ごく一般的なスーツ姿である。結婚指輪は嵌めていない。
「こ、こんばんは……」
桃瀬はペコッと会釈をすると、玄関の鍵をあけてなかへはいろうとしたが、手持ちぶさたなようすで佇む人影が気になった。いちどのぼった外階段をおりてゆき、ブロック塀にもたれる石和に近づいた。
「あの、どうかされたんですか?」
おずおず話しかけると、相手は少し驚いた表情をして、笑みを浮かべた。
「鍵を、どこかに落としてしまったようでね。途方に暮れている」
親しみやすい態度を示す石和は、スーツを手さぐりしてみせた。予備の合鍵もないらしい。遅い時刻になって大家さんへ連絡するのは気がひけるといって、アパートに背を向けた。今夜は、どこかのビジネスホテルに泊まるのだろうか。さいわい、現在地は最寄り駅に近く、隣町へ行けば、二十四時間営業の施設が立ち並んでいる。
前日に買ったショートケーキをひとりで食べるつもりだった桃瀬は、舗道を歩きはじめる石和をひきとめた。
「ち、ちょっと待ってください……。もしよかったら、今晩、わたしの部屋に泊まりますか? その……、夜ごはんがまだでしたら、いっしょにケーキを食べませんか? わたし、きょうが誕生日で、ひとりより、誰かと過ごしたいなって……」
思えば大胆な提案だが、石和は「それはありがたい。お誕生日おめでとう」と、すんなり応じた。アパートまでひき返すと、石和は「おじゃまします」といって革靴を脱いだ。靴箱の上に放置してある郵便はがきに目をとめ、「桃瀬さんの名前って……、理乃ちゃん?」と気安くたずねた。
「はい、そうです」
部屋の電気を点けてふり向いた桃瀬は、ネクタイを解く石和と目があった瞬間、いまさらのように、ドキッと胸が高鳴った。せまい台所に立ち、湯を沸かす。冷蔵庫からケーキを取りだして切り分けるあいだ、かれこれ一年以上同じアパートに住む石和について思考をめぐらせたが、どこへ勤めているのか、妻子の有無など、個人情報はないに等しかった。それは他の部屋の住人も同様である。ひとつ屋根の下の共同体でも、とくに馴れあわず、挨拶を交わすていどで干渉しない。
興味本位でききだすのは失礼かと思い、ケーキを皿に乗せると、銀のフォークを添えて運んだ。
「プレゼント、なにをもらったの?」
絨毯に坐って膝を立てる石和は、ブランド名がつづられた紙袋を指さしてきく。桃瀬は、まずいと思った。部屋にはいってすぐ、クローゼットにしまえばよかったものを、壁ぎわへ置いたまま台所に移動した。しかも、中身はサイズの合わないブラジャーである。
「そ、それは……、ひみつです!」
ふざけた事実を告げるわけにもいかず、その場かぎりの嘘をつく。ぎこちない動作で台所へもどると、薬罐の湯気で顔が熱くなった。
✦つづく
※この度は物語をお読みくださり、誠にありがとうございます。こちらの作品はレーティングを修正した改稿版(10万字以下の中編)となります。H描写の事前予告なしにつき、粘膜描写が苦手な方は、ご注意ください。