1-02 淫魔の子を身ごもりました
伯爵であった父と母を失った、元伯爵令嬢ルシエーラ。
彼女は新たに爵位を継いだ叔父一家だけでなく、婚約者からも疎まれて暮らしていた。
そんなある日、一人の男性…淫魔に愛される夢を見て、彼女は愛情に飢えるあまり身を委ねてしまう。
それから数か月後、父親の分からぬ子を孕んだルシエーラは、伯爵家からの脱出と出産を密かに計画しようとした。
しかし、従妹にバレてしまっただけでなく、淫魔との繋がりが唯一感じられる指輪をも奪われたうえ、腹の子までも傷つけられそうになりーー。
「愛している」
私は……愛されたかった。
伯爵だった私の両親は、事故で亡くなった。
父の爵位を継ぎ新たに伯爵となった叔父は、私たち家族が住んでいた屋敷に引っ越してきて、そして様々な模様替えをしていった。
質素ながらも品のある屋敷の装いは、金に物を言わせた過剰な装飾を誇る屋敷へと。
心遣いの優しい使用人たちは、叔父や叔母、従姉妹の顔色を伺うひとたちへと。
花の咲き誇る庭園が見える眺めの良い私の部屋は私物ごと取り上げられて、従妹の部屋に変わってしまった。
幼少期の平穏に暮らしていた頃の面影は、もう屋敷には残っていない。
日がほとんど当たらない薄暗い部屋に追いやられて、私は生まれ育った屋敷の中で孤立していった。
両親を亡くして行き場を失った私を住まわせてくれるだけ、まだ良い方なのかもしれない。
辛うじて私に許されたのは、その日着ていた衣装と、はめていた婚約指輪。そして……私を嫌う婚約者だけ。
もはや、私の味方はいない。
貴族令嬢として無力になってしまった私のことを、皆は疎ましく思っている。
叔父一家も、使用人も……そして、婚約者でさえも。
だから、愛されたかった。
誰でも良い。私だけを心から愛してくれて、心を満たしてくれる……気持ちを預けられる存在と、出会いたかった。
こんなに卑しい思いを抱えているから、きっと私は誰にも好かれないのだろう。だけど……。
「愛しているよ、ルシェ」
紫と桃色の薔薇の花びらを煮詰めたような、この世のものとは思えないほど淡くて幻想的な彩りを描く空の下。
見知らぬ男が、私の左手の薬指にはめた婚約指輪へと口づけをする。
長らく呼ばれていなかった愛称を愛と共に囁かれて、心が浮き立つ気がした。
婚約者がいる身でありながらも、触れられた男の手は不思議と拒否感がない。それは、私が薄情で浅ましいからだろう。
この婚約指輪は、婚約者がしかめっ面に淡々とした口調で私の薬指にはめたもの。
『ルシエーラ。君を生涯に渡って愛し、守ると誓う』
あの時は婚約者からそう告げられたけど、以降は顔を合わせても険しい顔をされ、会う回数も最低限、手紙を送っても返事が返ってこない。
彼に愛されたと感じる日は一度もなく、私も彼を愛したいとは思わないようにしていた。
白銀の髪に空の色と同じ目をした男の顔は、不思議とどこか婚約者に似ているような気がする。
精悍な顔立ちに、特徴的な右目の泣きぼくろが一致している。
婚約者と違うのは、髪と目の色、甘くて優し気な表情に、そして私を見つめる熱のこもった眼差し。
婚約者ではないのに、あまりにも彼と似ていて……。あのひとに愛されているように思えてしまい、胸がギュッと締め付けられる。
違う。私は、誰にも愛されない。
「俺は君を愛しているんだ、ルシェ」
私の自己否定を、更なる否定で上書きするように男が甘く囁く。
これはきっと、私の願望が生み出した幻影。
空想でないのなら……きっと、彼は淫魔だろう。愛を渇望する私を誘惑するために、婚約者の姿を模した悪魔。
もしそうなら、彼に心を許してはいけない。愛を求めてはいけない。
私の空虚さを埋めてくれる存在だとしても、決して、愛してほしいと思ってはいけない。
私は、愛される資格がないから。そう思った瞬間、男が私を抱きしめた。
「ルシェ、俺を……俺の愛を、否定しないで」
甘い香りは、きっと周囲に咲き誇る紫と桃色が溶け込んだような色の薔薇のもの。
遠い昔へと置き去りにしてしまったような、どこか懐かしい香り。
それに、悲し気で切ない声色と抱きしめられたことによる温もりに、囁かれたこちらが涙をこぼしそうになる。
皆に疎まれている私を、愛してくれるの? 誰からも愛されない醜い私を、愛してくれるの?
「ルシェは醜くなんかない」
言葉にせずとも、男は私の心を読み取ってくれた。
「君が誰よりも愛おしくて……食べてしまいたいくらい」
男はどこか苦しそうに微笑んで、指先でそっと私の唇に触れる。それはきっと、受け入れてほしいと言う彼からの合図。
「私を……愛してくれますか?」
「ああ。ルシェも、俺が愛していることを、覚えていて……」
愛情に飢えて飢えて、心が悲しみで枯れ果ててしまいそうだったからこそ。得体の知れぬ彼の愛に、私は縋りついてしまった。
…
淫魔と思しき男との愛に溺れた出来事は……人恋しさに私が見た夢だった、らしい。
起床後に私が涙した理由は、令嬢にあるまじき猥らな夢を見たからか、愛を囁いてくれた人物が幻想だったからか……。
「私を愛してくれるひとは、いないのね」
孤独であることを自覚してしまったから、かもしれない。
婚約指輪に軽く口づけをすると、不思議と薔薇の甘い香りの残滓を感じた。
私の婚約者は、ギルドレッド・パルヴァスティルダ公爵令息。パルヴァスティルダ公爵家の長男で、騎士団の副団長を務めている。
王家の流れをくむ上流貴族の彼に、伯爵家の居候となった私は釣り合わない。従妹からも相応しくないと常に言われているが、私だってそう思っている。
けれども、彼から婚約破棄ないし、解消を申し出られたことは一度もない。……嫌われているのに。
短めの金髪に紫色の瞳のギルドレッド様は、私の前でだけ表情が硬い。整った顔立ちに上流貴族であることから、女性たちからは大人気だ……と従妹が言っていた。
そんな今の彼の表情は、いつも以上に険しい。他の人と会話するときは、今よりも表情が柔らかくて、会話だって気軽にしていると言うのに。私と向き合うと、眉間に皺が寄って何も喋らなくなってしまう。……やっぱり、一緒にいたくないと態度に出るほど嫌われている。
「今日はお越し頂き有難うございます」
「次に会えるのは三か月後だ」
「はい、お待ちしております」
「……ああ」
婚約者同士とは思えない事務的な会話は、彼との数か月ぶりの茶会の終わりに交わしたもの。婚約者としての義務がない限りは、私と彼は滅多に顔を合わせない。
ふと、私は見送りの際にじっと彼の顔を見つめた。やっぱり、夢の男とよく似た顔。顔形も、ほくろの位置も、髪の長さは……そう言えばよく見ていなかったけれども。
けれども私に向けられる表情は、彼とは真逆。あの時の彼が、私の婚約者だったら良かったのに。私はふと、そう思ってしまった。
「……なんだ?」
「……いいえ。不躾に見つめてしまい、申し訳ありません」
見つめていると、ギルドレッド様に睨みつけられる。
「はぁ。…………ルシエーラ」
「っ」
溜め息に続けて不満そうに名前を呼ばれて、ツキリと胸が痛む。
彼は私の左手を取って、口元に運ぼうとする。別れの挨拶をしようとしたのかもしれない。けれども……。
「やっ!」
「ッ!?」
私はギルドレッド様の手を跳ね除けてしまった。
「っ! も、申し訳ありません!」
「…………」
我に返って謝罪したけれども、ギルドレッド様は唖然としている。
「あの……ギルドレッド様?」
「…………突然手を取った私が悪かった」
「いえ、ギルドレッド様の手を払ってしまい、申し訳ありません」
「…………問題ない」
やっとのことで動き始めたギルドレッド様は、今まで以上に動きがぎこちなくなっていた。固い動きで馬車に乗り、別れの際で彼は言った。
「……婚約指輪、肌身離さず着けていろ」
「はい。道中お気をつけて、お帰りください」
本当は、頷かずに指輪を返して、婚約破棄を提案出来たらどんなに良かっただろう。けれども、私からの申し出なんて出来ない。
『俺が愛していることを、覚えていて……』
遠ざかっていく馬車を見送りながら、私は指輪を撫でる。
これはギルドレッド様との婚約の証。それと同時に、夢の彼と私を繋ぐ唯一の足掛かりのような気もした。
「夢じゃないなら、また会えますか……?」
冷たい眼差しで私を睨む婚約者ではなく、愛を囁いてくれるあのひとに会いたい。
遠い彼に思いを馳せていると、指輪の台座にはめられた婚約者の瞳と同じ色の宝石が、仄かに桃色に滲んだように見えた。
…
それから数か月後。
私は体調が思わしくなくて、町医者の元へ足を運んだ。叔父たちは私のためには医者を呼んでくれないから……。
「妊娠しているね」
町医者に言われた言葉に、私は言葉を失った。だってそんな。現実で子をなす行いをした記憶なんてないのに。困惑する私に向かって、町医者は溜め息をついた。
「こんなに痩せて、ちゃんと食事を取っているのかい?」
「え、ええ」
「その子を生みたかったら、しっかり食べて体力をつけるんだよ」
けれども、腹の子が望まぬ命ならば、とある街の魔女に会いに行くといい。堕胎させてもらえるだろう。……町医者の言葉に、私は打ちのめされた。
誰にも愛されず愛を求める私が、お腹の子をおろすと言うの?
「そんなの……だめよ」
この子の父親は分からない。淫魔との子かもしれないけど、あれはきっと私の夢。愛されない私の切なる願望。だけど……。
「誰の子でも良いわ。私はこの子を産みたい。例え淫魔の子だとしても……」
産んで、愛を沢山注いであげて……そして、暖かな家庭を築きたい。そのためには、密かに出産準備をして、あの家から出なければ。
けれども、決意した私を待ち受けていたのは――。
「ルシエーラ、妊娠おめでとう! それで、お腹の子って誰の子なのかしら? うふふっ」
――背筋が凍るほどに歪んだ、従妹の笑みだった。