1-21 落日の大地に響く時の鐘 ~紫の姫と銀の盾~
[ウォルム歴945年、穀物月]
かつては大陸ほぼすべてを領土としていたものの、落日の兆しを見せはじめていたデュレル帝国が崩壊する直接的な契機となった時期である。
のちに最後の皇帝となるクロード皇太子がシャルロット・ルールヴ公爵令嬢(※200)との婚約を破棄したことにより、貴族からも見放されていた。
また、軍部は士官学校卒業者の中でも家柄がよいものを中心に昇進しており、それも相まって、民衆からの帝国への期待は薄まっていた。
(※200)当時の貴族年鑑には名前が掲載されているが、肖像画などはすべて黒く塗りつぶされてしまっているため、容姿は不明である。
デュレル帝国の南部、アルベル地方に向かう汽車の中は、内乱中とは思えないほど穏やかな空間だった。
子連れの家族、老夫婦など、さまざまな楽しみが彼らにはあるのだろう。どの客も表情は穏やかである。
しかし、一人だけ銀髪の青年、エドモン・クローニュだけはむすっとした表情を見せていた。
「なにか私にご不満でも?」
「いえ、違います」
個別客室の向かい側に座る栗色の髪を持つ女性がそう、声を掛けると、即座に否定するエドモン。彼にとって彼女、シャルロットの存在がべつに不満なわけではない。
ただ、ここに至るまでの経緯に不満があった。
『クローニュ少佐。貴様にルールヴ公爵令嬢の護衛任務を命じる』
『なんでこの俺がですか? お嬢様の物見遊山に、なんで付き合わされなきゃいけないんですか!?』
そう上官に言われたとき、面倒くさい、という言葉しか思い浮かばなかったのは事実だ。
しかし、エドモンの反論に上官はため息をつきながら、諭してきた。
『お前は正義の味方を気取って殴ったのかもしれんが、相手がエリート揃いの第一大隊、しかも大隊長というのはどう見てもやらかした、だろう』
たしかにエドモンは殴った。
けれども、夜の酒場で酔っぱらっているとはいえ、通りすがりの市井の女子に手を出そうとした、というのはどう見ても問題だろう。そう思って止めに入ったが、相手が悪かった。
ソイツは陸軍の行動部隊、第一大隊長で帝国三大公爵の一つの子息だというのだ。
『幸いにも店の主人が見ていたから、お前さんの無実は証明されたが、あちらとのほとぼりを冷ますためにもここを離れろ。命令だ』
ありがたいことに懲罰は食らわなかったものの、実質の懲罰になってしまったことに、ふたたびため息をついてしまう。
「これで35回目ですわよ」
そんな彼に対して、うんざりとした表情でシャルロットは指を突きつけた。
「ため息の数ですわ。そんなにため息を吐かれると、こちらまで不幸になりますのよ……いいえ、もう不幸といえばすっごく不幸でしたわね、私」
エドモンに対してそう言い放った彼女また、沈んだ表情で呟く。
彼女のため息に心当たりがないといえば噓にはなるが、それでも〝すっごく〟と言われるほどの不幸を与えたかと考えてしまった。
「聞いてませんの? でしたら、気にしないでくださいませ」
それから三時間ほど経ったころ、南部アルベル地方最大の乗換駅、ルルンドに到着した。
シャルロットの髪は、肩甲骨のあたりで切りそろえられていて、行きかう人々の風に揺らめていている。たたずまいはいかにも両家のお嬢様、という感じではあるも。それが嫌味にならないのは、紫水晶の瞳に合わせた色のスカートが人工的に膨らまされておらず、生来の彼女の体の線を演出しているからか。
そんなことを考えていたら、ぼんやりしないで、と腕を引っ張られた。
「さっさと行くわよ。フェルスター辺境伯の迎えが来ているはずよ」
少女のように頬を膨らませたシャルロットに怒られてしまったエドモンは、駅前に十数台止まっている馬車の中から、目的のものをすぐに見つけた。
あれですね、と指を指すと、早いのねと感心するシャルロット。彼は無表情で目がいいのだけが取り柄なもんでと返すと、ふうんとそっけなく返事をされてしまった。
フェルスター辺境伯の紋章、アイビーの葉にガーベラの花を組み合わせたものが描かれた馬車に近づくと、辺境伯本人が出てきた。
「ルールヴ公爵令嬢、ようこそおいでくださいました」
壮年の男は、至極まじめな表情で恭しくシャルロットに頭を下げる。
スッと前に出た彼女は紫水晶の瞳を細め、あなたは真実を知ってるわよね?と冷たい声音で辺境伯に尋ねた。
まるで答えを知っているかのような問い掛け。
それに気づいたのか、一瞬、ためらったのちに辺境伯は頷く。
「もちろんでございます」
「そう」
その答えに、一瞬前の研ぎ澄まされた冷たさが嘘のように、シャルロットは微笑んだ。
可憐さを思わせる姿に、多だの護衛対象と理解しつつも、どこか守ってあげたくなるような姿だった。
「申し訳ないけど、あなたの保養地をお借りするわ」
「ルールヴ公爵令嬢のためであれば、いくらでも」
フェルスター辺境伯は、自分が乗ってきた馬車とはべつの馬車を案内した。
それは至って普通の内装で、先ほど辺境伯が乗ってきたほうが、わずかながら豪華だということはすぐに気づいた。けれど、シャルロットはなにも文句を言わずに座っている。
馬車が動きはじめた後、こっそりと彼女に尋ねてみることにした。
「公爵令嬢は、あちらにお乗りにならなくてよかったんですか?」
「シャルロット、でいいわ」
「ですが」
エドモンの質問にシャルロットは流れる景色を見ながらそう言ったが、彼は修正するのをためらってしまった。なぜなら、今回の任務を下されたとき〝大衆の目につくところではお嬢様と呼び、2人きり、もしくは貴族がいるところでは公爵令嬢と呼ぶこと〟と上官から言われていたから。
しかし、構わないわと、彼を見ずに鼻で嗤うシャルロット。
「ああ、あなたは事情を知らなかったんだわね。とにもかくにも、私のことは今までどおりシャルロット、で結構よ。それにあっちの馬車なんて、死んでもごめんよ」
吐き捨てるような言い方に、どこか似たような雰囲気を感じ取ったが、それを彼が指摘することはできなかった。
しかし、シャルロットはエドモン側の事情が気になったようで、今更だけど、あなたはどこまで聞いてるのかしら?と視線を彼に合わせて聞いてきた。
「〝ルールヴ公爵令嬢が、傷心旅行のためにフェルスター辺境伯領まで向かう。皇太子の元婚約者である彼女が反乱軍に襲われないように、護衛をお願いしたい〟と」
「聞かなきゃよかったわ」
彼は上官から言われたことをそのまま言っただけなのだが、シャルロットは心底あきれた様子だった。
面の皮が厚いのかしらとまで言っているあたり、彼女の恨みはかなり強いものだろうと推測することができる。
けれども、エドモンからはなにも尋ねるわけにはいかなく、今度は彼のほうが窓の外の景色を見ることにした。
「ねぇ、あなたはどう思う?」
しばらく経ったころ、不意に声を掛けられた。
彼女から声を掛けられるのは、最初に『シャルロットと呼んで頂戴な』と命じられ、汽車の中での『なにか私にご不満でも?』という言葉以来、三回目だ。けれども、そのときとは違って、どういう意味なのかわからなかった彼は首を傾げると、この国のことよと返された。
「産業は停滞してるが、軍事はまだまだ増強の余地がある」
「本当にそう思ってらっしゃるの?」
エドモンのよどみない答えに、あきれ果てたような口調になるシャルロット。なにがダメだったのだろうかと首を傾げる彼に、一公爵令嬢とは思えないようなしっかりとした眼差しで、見据える。
「産業を停滞させてまで、軍事を増強する余地がある。そんなことをして得をするのはだれ?」
「そりゃ国民だろうが。軍が強くなれば、民は守られる。それに食い扶持だって増える」
「これだから男の人って嫌いよ」
シャルロットは唸るような口調で、エドモンの答えを拒絶する。それに対して詰め寄ろうとしたが、その前に彼女のほうが話しはじめた。
「私はそう思えない。軍を強くする、ということは、他国と戦争をする、ということ。そのときには、かならずだれかが犠牲になる」
「まるで見てきてたような言い方ですね」
「いわゆる花嫁修行の一環よ」
ただ感想を言っただけなのに、なぜかなにかを憎むような顔つきで答えを言ってきたシャルロット。
そんな彼女の様子も気になったが、公爵家の令嬢の花嫁修業の一環、といえば、あるものを思いだしたエドモン。
「寄付頒布ですか」
貧しい民へ物品を送ることとはべつに、寄付のために婦人方の趣味の一環である編み物や刺しゅうなど売る寄付頒布。
とはいえ、発生した寄付金を教会や修道院に託すわけなので、中抜きが行われる。
今までの彼女の雰囲気からすると、それを良しとするのだろうかという疑問も生じた。
「いいえ。エリジュ帝立病院への慰問よ。父親にくっついてはじめて行ったのが八歳のとき。十歳からは完全に引き継いでいるわ。悪かったかしら」
その回答に驚きを隠せないとともに、なぜか納得してしまったエドモン。
エリジュ帝立病院。
そこは通常の病院ではなく、負傷軍人が収容されたり、附属孤児院では戦争や事故などで親を亡くした子たちを引き取って養育したりしている、福祉施設だ。
エドモンはかつて軍属で首席争いをした幼馴染の話を思いだす。
『俺がエリジュを出る直前、急に施設がよくなったんだ』
彼は十八歳、今から六年前までそこにいた。
彼女が活動を開始したのはわからないが、現在十七歳の彼女が十歳から主導している、ということは、幼馴染が言っていた時期と合致する。
エドモンは、彼女との出会いに心の中で感謝した。状況が状況でなければ、自分もそのお礼にエリジュ定率病院に行ってみたかった。
「でも、そこでわかったのは偽善と傲慢。本当に助けたい人には、まったく向いてないわね」
彼女はそれでもそこにいる人たちの醜さを知ったのだろう。
いつか本当の人助けをしたいと、顔に書いてあった。