1-17 今夜、親の仇に嫁ぎます
山あいにある籠月村で今なお残る生贄の儀式。百年に一度の祭礼で滝の神の花嫁に選ばれたのは、十七才の娘渓華だった。彼女の両親は、五年前に滝の神に殺されたとされ、それ以来村長の家で使用人としてこき使われながら小さな弟を育てる日々を送っていた。
弟の将来と引き換えに我が身を差し出した渓華だったが、実際に会った滝の神こと龍穂尊に優しく丁重に扱われ戸惑いを覚える。やがて、神々が住まう世界にも触れ元気を取り戻していく一方で、両親の死の謎を追及したり、弟の危機に奔走したりと様々な困難に直面することに。
両親を殺したはずの龍穂尊と本当に心を通わせられる日はやってくるのだろうか?
武士の世が終わり、どんな山奥にも文明の足音が聞こえているというのに、谷間にへばりつくように存在する籠月村には、いまだ前時代的な風習が残っていた。
人口二百あまりの小さな村。何も知らない都会もんがここに来たら、のどかで美しいなどと褒め称えるのだろう。しかし裏では、百年に一度、村を守護する滝の神様に生贄を捧げる儀式があるなんて知る由もないに違いない。
「哀れなもんだねえ。普通はきれいなべべを着せ、うまいもんを食わせてやるくらいの情はあるもんなのに、最後の日まで働かされるなんて」
庄屋どんの若旦那の嫁の多江が、裏庭の井戸で洗いものをする渓華に声をかけた。一見同情している風だが、表情や口調から馬鹿にしているのは明白だ。だから渓華は、多江の方を一瞥しただけですぐに顔を戻して仕事の手を緩めなかった。
「そういうとこだよ、あんたが嫌われるの。おたくらとは違うんですと澄ましたツラで、お高く止まってやがる。ここに来て何年経つんだい? ついぞ馴染むことはなかったね。今でも覚えてるよ、両親と一緒にやって来た日のこと」
「こんな時に両親の話はやめて!」
咄嗟に刺々しい言葉が出てはっと口を押さえる。間もなく利害関係のなくなる相手ではあるがやはり気まずい。多江は加虐心に火がついたのか、口元を歪めて更に言葉を続けた。
「惨めな人生だよ。親を殺した神のところに嫁ぐなんてさ。そもそもここに来たのが間違いだった。学者だか何だか知らないが、そんな肩書きここでは邪魔なだけさ。あんたは異物だからね。だから生贄なんかに選ばれたんだろう」
そう言って高笑いをする。悔しいが多江の言う通りだ。渓華は五年前に家族四人で籠月村にやって来た異邦人同然の存在。日本各地に残る民間伝承や昔話を集めて回る民俗学者の父に着いてきたのが始まりだった。
父母と一緒に色んな土地を回ってきた渓華だが、中でも籠月村は異質だった。今なお残る閉鎖性、住民の陰湿さもさることながら、ここには「何かいる」と感じたのだ。訪れた最初の日、思わず背筋がぞくっとして、父の袖を強く掴んだことを思い出す。
『どうした、渓華? 何か気付いたのか?』
『ううん、分からない。でも他と違う。すごく清らかできれいで――』
神様みたいな存在、という言葉を慌てて飲み込んだ。そんなこと軽々に言うもんじゃない。神様というのは手が届かない場所にいるように思えるが、本当は我々のことを間近で見ているものだと常々言い聞かされてきた。それにしてもこの感じ、村人は何も気づかないのだろうか?
父は渓華のそんな第六感を尊重し、母が止めるのも聞かず、現地調査に同行させ、研究の手伝いもさせてくれた。渓華はそんな父と優しくしっかり者の母が大好きだった。
敬愛する両親が殺されたのは、それから二ヶ月後のこと。滝のふもとにある祠の前で二人の死体が発見されたのだ。警察が来て一通り捜査をしたが迷宮入りになり、村人たちは、伝説をほじくり返して秘密を暴こうとしたから滝の神の逆鱗に触れたのだと噂した。
そんな馬鹿な。両親が殺される前、気の乱れやざわめきは感じられなかった。そう思ったが、証拠がないので誰にも相談できない。それより、彼女と当時三歳の弟貫太の二人をどうするかという問題が持ち上がった。
二人に身寄りはない。父と母は駆け落ち同然に結婚して親類縁者からは縁を切られていたからだ。父の雇用主の大学教授にもなぜか連絡がつかない。結局二人は、庄屋どんと今でも呼ばれる兵藤家の村長の家に引き取られることになった。
そこでの扱いはひどいものだった。渓華は慣れない召使いの仕事に身をやつす傍ら、弟の貫太を必死で育てた。水汲み、掃除、炊事、洗濯何でもこなした。
雨風凌げる場所ににいられるだけ御の字と思うべきなのだろう。しかし、生まれながらの村人ではない兄弟は、どこへ行っても蔑まれた。理不尽な仕打ちをされ、歯を食いしばって耐えると、その顔が気に入らないとまた嫌がらせられる。この繰り返しだった。
だから、百年に一度の祭礼で、滝の神に奉納する生贄に選ばれたと聞いた時、野蛮な風習がまだ残っていたことに対する驚きや、なぜ両親の仇に身を捧げなければいけないのかという怒りよりも、これで生き地獄から解放されると清々しい気分にさえなったのが事実だ。
ただ、心残りは一人残される貫太の行く末。自分がいなくなったらまだ八歳の弟はどうなるのだろう。ここで手放さなければならないのは断腸の思いだ。懇願の末、麓の町にある裕福な商家の家に引き取られることが決まった。
『やだ! 置いていかないで! どうして姉さんがこんなことしなきゃいけないの? 親の仇じゃないか!』
『私が行けば、あなたはもっといい暮らしができるの。いい? 父さんと母さんの教えはちゃんと伝えたから忘れないでね。いつか知識が身を助ける日が来るから。立派な人間になるのよ』
数日前にこんなやり取りをしたばかり。貫太は最後まで納得しなかった。利発な子だから適切な環境で育てれば将来有望だろうが、兵藤家が約束したことを本当に守ってくれるのだろうか。それが気がかりだった。
渓華が旅立つのはちょうど日が変わる子の刻。それまで貫太は離れに預けられることになった。別れの瞬間に騒がれたら迷惑だからというのがその理由だ。
最後に別れの挨拶ができないのが心残りだが、どこかホッとする面もあった。かわいい弟の顔を見たら決意が鈍ってしまう。もう言い残したことはない。あとは覚悟を決めるだけだ。
夜が更け、身を清めて白装束に袖を通す。慣れない手つきで紅を差すが、化粧も生まれて初めてだ。豪華な花嫁衣装もなし、まるで死化粧を自分でやってるみたいだと一人自嘲する。
怖くないと言ったら嘘になる。だが、ここまで来たら心を無にするだけ。
子三つを過ぎ、兵藤家の家長である彦右衛門と若旦那の平十郎、その他、村の重鎮が数人渓華の部屋にやって来た。
「時間だ。一言も発するな。外に出たら輿に入れ」
それ以外言葉はなかった。渓華は黙って建物を出て、外に用意されていた輿に入る。すると、輿は複数の男手で持ち上げられて移動を始めた。
やがて、輿は村の中心にある滝へと向かった。滝の麓には祠があり、この場所で両親が殺された。
ごうごうと唸る滝の音を聞きながら、奇しくも、両親と同じ場所で自分は死ぬのかとぼんやり考えた。だが、具体的にどうやって生贄を捧げるのだろう。そんなことを思っていると、輿の動きが止まった。
「ここでよい。輿ごと入れろ」
彦右衛門の声だ。と思ったら、体が大きくかしげ、輿ごと空中に放り出される。そして、ぼちゃんと大きな水飛沫を上げて滝壺に落っこちた。
無論、渓華の体も水の中だ。輿から水中に放り出され、ごぼごぼと口から泡を吹きながら水をしこたま飲んだ。
こんな原始的で荒っぽいやり方だったなんて。もっと儀礼的にもったいぶると思った自分が間違いだった。そんな思考すら奪うかのようにうねる水流に体がもみくちゃにされる。もう駄目だと観念したその時。
「水面が騒がしいと思えば人間か。こんな夜中にどうした?」
低く澄んだ声が聞こえた瞬間、一気に苦しみが抜け視界がぱあっと開けた。息もできる、寒くない。気づくと、辺りは静まり返り、一人の大男と対峙していた。
透き通るような水色の髪と目、こんな色を持つ人間は存在しない。顔は恐ろしいほど美しく、均整の取れた強靭な体躯に目が釘付けになる。こんな美丈夫は初めてだ。なのに、前からの知り合いのような気がする。
「滝神様……」
「ほう、我を知っているのか。なら、龍穂尊と呼べ。これが真名だ」
龍穂尊は笑みを漏らすと、まっすぐ切り揃えられた水色の髪がふわっと揺れた。そうだ、この感覚だ。籠月村に来た瞬間から感じていたものの正体。この村には確かに神がいたのだ。
やっと会えた。心の奥底でそんな声がしたような気がした。目元の涼やかな神からは、いかなる邪心も読み取れない。本当に両親はこの神に殺されたのだろうか?
だが、次の瞬間、渓華ははっと我に返り、懐に忍ばせておいた小刀を取り出した。そして、親の仇である相手に向けるかと思いきや、自分の首筋に刃を突きつけたのだ。
「お願いです! どうか弟を、貫太を助けてください! 無事に商家へ行って幸せな人生が送れるように加護を与えてください! それさえ叶えば私はどうなっても構いません! でも無理ならばここで自害します!」
龍穂尊の切れ長の目が丸くなる。不快感というより、この場所まで刃を持ち込んだ渓華の胆力にただ驚いているらしかった。
しばらくの間静寂が流れる。いつまで待たせるのよ? 体がガクガク震え、喉はカラカラ、恐怖と緊張でどうにかなってしまいそうだ。身の程知らずなのは百も承知している。
「後生ですから、か、貫太を、おねがい――」
「神を脅すとは大した人間だの。そんなことせんとも、普通に願えばいいものを。まあいい。そんなに大事な弟ならば加護を授けよう。その前に、その物騒なものは捨ておけ。ここまで持ち込めるよう滝の水で予め清めておったな。知恵の回る娘だ」
そう言うと、小刀に手を延ばし、あっという間に使い物にならなくしてしまった。そして、驚きのあまり何も言えない渓華をひょいと小脇に抱えると「ほんに痩せっぽちだ。まずは腹ごしらえせんとな」と呟きながら、水底の更に奥へと消えていった。