1-13 落花流水 ~その運命は必然~
生まれてすぐに捨てられたらしいわたしは、身寄りがない割になんだかんだと平穏に平凡に生きていた。
ひとつだけ他の人と違うことといえば、どこか知らない世界の知らない人間になって、好きな男を庇って命を散らす夢を見ることくらいで。
ある日、水難事故に巻き込まれたわたしはどうやら死んだらしい。
気づけば見たことのない世界で、人間ではないナニカとなって存在していた。人の訪れのない山奥の湖で、知らない世界のことを何一つ知らないままに。
そんなわたしの平穏な日常は、湖を訪れた一人の男によって崩される。
どろりと濁った湖沼のような瞳で、憎々し気に恨めし気にわたしを見つめる男によって。
世界を超えて巡り会えたなら、それは運命と言えるのですか?
水のように流されて、わたしはもう一度貴方を愛するのでしょうか?
その答えは、まだ誰も知らない……。
どこまでも青く広がる空をぼんやりと眺める。
ぷかりぷかりと浮いたつもりになってる我が身を、どこまでも澄んだ湖面に浮かばせながら。
あの日わたしが落ちてきた空を。
ぽとりとどこかから落ちてきた赤い花が、ふわふわとわたしの近くに流れ着く。
その赤さをちらりと横目で確認しながら、まるでオフィーリアみたいだとふと思った。
あちらの世界では有名な絵画。
鮮やかな色彩によって描かれた彼女の姿はどこか寂しくて、儚い。
それは彼女の運命を、人生を物語っているからなのだろう。
恋人と引き裂かれて、気狂いとなって、水の中に沈んでいったオフィーリア。
赤い花とともに沈みゆきながら、最後まで唄を口ずさんでいたオフィーリア。
だから、わたしも口ずさむ。
こちらの世界の誰も知らない唄を。
あちらの世界なら、わたしの過ごしてた小さな世界なら、ほとんどの人が知ってる唄を。
とぷりとわたしの身体が湖水に沈む。
目に痛いほど青かった空から射す光が、キラキラと水面を白く染める。
その光は段々と弱くなって、ゆらりふらりとわたしの周りを揺蕩う。
わたしの実体のない身体を湖底の水草が取り囲む頃には僅かな煌めきしか残らなくなっていた。
人間であればとっくに息が続かない程の長い時間。
わたしはただひたすら湖に沈み続ける。
だってこちらの世界のわたしは……人間じゃないから。
こんな芸当もできてしまうのだ。
そんな現実から目を逸らすように、わたしはそっと目を閉じた。
そして思い出すのだ。
あちらの世界で人間だったわたしのことを。
◇◇◇
あちらの世界でのわたしは至って平凡な人間だったと思う。
一応首都圏と呼ばれるエリアに住んでいて。その街の売りは、「東京まで電車で一本!」だった。
ほどほどに人がいて、ほどほどに栄えてる、そんな街に住んでいた。
ちょっと変わってたのはその出自で。
生まれて早々に街のはずれにある湖のほとりに捨てられていたらしい。
身元を示す物は何一つなく。
近くには母親を始めとした関係者らしき人物も見当たらず。
わたしを置き去りにした人間も、その目撃者もおらず。
わたしはあっという間に施設の住人となった。
そこで十八まで過ごしたわたしは、成人を迎えたタイミングでその施設を卒業した。
高卒で入社した会社は、そこそこ待遇も良く面倒見も良くて。
なんの血縁も持ち得ない人間としては、わりとお金に困らない生活を送ることができていた……と思う。
……どこか胸にぽっかりと空いた虚ろを抱えながら。
大切な何かをどこかに置き去りにしたような焦燥を抱えながら。
そんな得体のしれない気持ちは、物心ついてからずっと見続けている夢にも起因していたのかもしれない。
その不思議な夢は、毎日見るものではなくて。
ふとしたタイミング、前回見てから期間が空いて、その夢を、夢の内容を忘れようとしたタイミングで見るものだった。
まるで、忘れるなって、覚えていろって突き付けてくるみたいに。
その夢の中で、わたしは現代社会とは全然違う世界にいた。
そこはいわゆるライトノベルに出てくる異世界みたいなところで。
剣を扱う人や魔法を扱う人がいて、そんな人々に害を為すモンスターみたいな存在がいて。
魔法を使う人の中には、精霊と呼ばれる人外の存在と縁を結んで、その力を借りて強力な魔法を使う人もいた。
とりあえず、ファンタジーだなぁって思う夢だった。
高校生の頃にその夢の話をぽろっと友人に話したら、『ラノベ作家になれんじゃね?』と言われたこともあるくらい、どこか現実離れした、物語じみた夢だった。
更に面白い事に、夢の中のわたしは、水の精霊たちに愛される人間だった。
本来はその人が契約した精霊とだけ縁ができて、その契約した精霊の力に合わせた魔法が使えるだけなのだが、わたしは違った。
全ての水の精霊を統べる存在に愛されていたことから、わたしは水の魔法ならなんでも使えたし、その威力は強力だった。
だからなのだろうか。
水の大精霊を崇める神殿の御子として大事にされ、専属の護衛騎士が付くほどだった。
もちろん護衛騎士も水の精霊と契約できるほどには水と相性の良い人で。
水に愛される人間の特徴として、身体のどこか、瞳や髪の色などにその相性の良さが現れるものらしかった。
ちなみに御子のわたしは、薄い水色の髪に濃い蒼の瞳をしていた。
そんな御子の専属護衛騎士は、特に深い湖水のような碧眼をもった人だった。
それは森の奥深くの湖の色にそっくりで、その湖に座すといわれている水の大精霊に認められた証でもあるそうだ。
そして彼は水の魔法にも剣術にもたけていた。
そんな彼はもちろん優秀な護衛になりうるわけだから、ほとんどの時間は彼が専属騎士として御子の護衛をしていた。
そこには、その騎士と御子が恋仲にでもなって、より水に愛される子を成せば重畳といった神殿側の思惑があった……のだと思う。
そしてまんまと神殿の思惑に乗せられて、御子はその騎士を恋慕うようになっていた。
……暴徒に襲われた時、騎士を庇って自らの命を散らす程に。
夢の中で最期を迎える時、御子の見ている光景は、深い湖水の色に染まる。
困惑と絶望と、呆然と……憎悪に染まった護衛騎士の瞳に見つめられて、その生を終えるのだ。
深い深い絶望に包まれた碧眼が、御子を見つめて揺さぶって、何事か叫ぶのを、どこか他人事のように眺めながら死にゆくのだ。
もちろんそんな夢を見た日のコンディションは最悪で。
寝たはずなのにどこか寝不足で、ぼんやりとした霞がかかったような思考は上手く働かなくなる。
そう……。
わたしがあちらの世界から追い出されたあの日も夢を見た。
数々の不運が重なって、たぶんあちらの世界のわたしは死んだ……んだと思う。
そして気づけばこちらの世界で魂だけのような存在となっていた。
青い青い空を割って落ちてきたわたしは、気づけばこの人気のない湖の中でぷかりぷかりと浮いていたのだ。
ぱちりと目を開いて、こぽりと呼気を吐き出すように水泡を浮かばせる。
呼吸を必要としないこの身体には必要ないのに、あちらの世界での自分に縋りついてるのか時折こうして人の真似事をしてしまう。
ふわふわとわたしの生み出した水泡が、水面に向けて揺蕩っていく。
それを見送って、わたしはもう一度目を瞑った。
『クルヨクルヨ』
『キタヨキタヨ』
瞑っていた目を開ければ、わたしの周りには小さなイキモノが集まっていた。
イキモノの身体は水との境界があいまいなままふよふよと水中を漂っている。
顔にあたる部分は、なんとなく目鼻の凹凸はあって表情が伺えるものの、個を識別するには至らない。
ヒトリヒトリが独立していそうで、一つの塊から分裂したような存在。そんなイキモノ達だ。
このイキモノが『水の精霊』というものだと教えてくれたのは、この湖の主たる存在だったっけ。
……わたしの存在が彼らに近しいモノだと言うことも……教えてくれた。
『ムカエキター』
『キタキタキター』
「……何がきたの?」
興奮気味に水中を掻き乱す彼らなのか彼女らなのか分からない存在に話しかける。
『ムカエニキタヨ』
『サァイコウー』
『イコウイコウー』
小さき存在に手を取られ、無理やりに浮上する。
「ちょっと待って! 誰が来たの? わたしは誰にも会いたくないんだけどっ!?」
強く振り解けば水に戻ってしまいそうな儚いイキモノ達を、無理やりに引きはがすことはできずにぐいぐいと水面に連れていかれる。
周囲がだんだんと明るくなっていって、水中に揺蕩うイキモノ達も光を受けて煌めき始める。
『イルヨイルヨ』
『マッテル』
『マッテルヨ』
ざぱりと水面を割って、顔を出す。
キラキラとした日の光が一気にわたしに降り注いで、思わず目を眇めてしまう。
パチパチと瞬きを繰り返してから湖岸の方を見やると、そこにはポツンと人影が一つ。
目が合った途端、背筋がぞわりと泡立った。
そこに在ったのは……。
深い深い湖沼よりなお深い、闇を孕んだ深緑の瞳だった。
そしてその瞳は、間違いなくわたしをじっと見つめていた。
……溢れ出る憎悪を隠そうとしないまま。