青の吐息(Blue Breath)
【Bar-Blue Breath-】
「ブルーブレス……青い呼吸? いや、憂鬱な、か?」
なんだこれ、と憂一は呟く。
雨を逃れるために駆け込んだ見慣れない路地裏で、青白いネオンが煌々と輝く。シンプルな濃紺の扉には『CLOSE』の札が下がっているが、隙間からは明かりが漏れていた。開店準備中だろうか。
「まぁ、何にしろ人はいるか」
雨に打たれた身体は冷え、少しでも暖をとろうとがたがたと震え続けている。つい先程降り出したというのに雨脚はどんどん強まるばかりで、軒先でしのぐのもしんどくなってきた。
つまるところ、屋根がいる。できるなら暖房もほしい。それらは今、目の前の扉の向こうには完備されているに違いないわけで。
「お邪魔しマース」
チリィーン、と妙に静かなドアベルを鳴らしながら、憂一は『Blue Breath』とやらの中に足を踏み入れた。口先にはいささか自信がある。多少虚偽を交えてでも今の状況を伝え、しばらく雨宿りをさせていただこうという魂胆であった。
「表の看板が目に入らなかったのか? 今は営業時間外だ、誰だか知らんがさっさと出ていけ」
しかしそんな憂一を迎えたのは、接客を一から学んで来いと言いたくなるような、粗野な言葉だった。
聞けばどうやら、カウンターの向こうから届いたらしい声の主は、屈んでいるのか、姿が見えない。
憂一は、「は? 客舐めてんの」と言いたい気持ちを必死に抑え――そもそも客のつもりで入店していないという事実を棚上げし――にこやかな笑みを添えた柔らかい声色で応じる。何事も外面というものは大切だ。
「すみません、突然雨が降り出してきたもので、慌てているうちに迷ってしまいまして。生憎傘を持ち合わせていないので、帰るに帰れないんですよ。困り果てていたところで、こちらの看板が目に入ったものですから」
やはりお邪魔でしたか、などと口にしながら、しかしそんなことは露ほども思っていない憂一は、室内の暖かさに感嘆していた。
声の主――恐らく店主だろう――はいけ好かないが、ここは中々居心地が良さそうだ。できるなら雨宿りと称して長居していきたいと、思えるほどに。
まとまりすぎない洒落た内装、その印象は"青"に尽きる。アンティーク調の机と椅子が揃えられた落ち着いた店内の、至る所に散らばる、青。限りなく黒に近い濃紺から、鮮やかな空色まで、見事な配色センスでまとめあげられている。
――なるほど、ブルーブレス、か。
「嘘だな」
「……は、」
唐突な返しに、憂一は間の抜けた声を漏らした。
(今、コイツなんて言った?)
あまりにも断定的で、わかり切った事実を告げているに過ぎないといった響きに、唖然と向けた視線の先。
これまたアンティーク風のほんのり青みがかったカウンターの奥には、30代程度とおぼしき随分と体躯の良いおっさんが立っていた。
「嘘? そんなものついた覚えはないですけど」
内心の焦りを押し隠し、冷静さを意識して憂一は答える。しまった、少々言い方がきつかったか? 苛立ちが微かな刺として表面化しかけている。一度落ち着かなくては。
黙々と磨いているグラスから目を離さないまま、男は告げる。
「嘘だろう。この店に迷子はやってこねぇ。ここに来たがるのは過去に囚われた奴だけだ」
何を言っているのだろう、と憂一は思った。その言い方ではまるで、自然と"過去に囚われた"という人々だけがこの場所に訪れるというかのようだ。
「冗談でしょう」
意識する間もなく、嘲笑めいた言葉が唇から漏れ出す。憂一は、冷えた背中に不気味な汗が伝うのを感じた。
そんな、まさか。確かに俺だって今までこんな路地も店も知らなかったけど、それにしたって有り得ない。だってここ、表通りと大して離れちゃいないんだぞ?
猜疑に満ちた目でカウンターを見つめる憂一に、漸く顔を上げたおっさんの視線が向けられる。
この時初めて入店者の姿を確認したらしい店主は、僅かに眉を上げる。
「なんだ、餓鬼が一体何しに来た。一丁前の口ききやがって」
「がっ……何なんだあんたさっきから!」
ものすごく古くて粗い断片。2010年とかだと思われます。
ふらりと迷い込んだ路地裏に、その店は存在していた。Bar―Blue Breath―。ひとりで店をまわす若きマスター、憂を眺めることが、半家出少女カナの日課。年齢を誤魔化してまで通いつめるカナを、憂はなにも聞かずに迎えいれる。他の奇妙な常連客たちと同様に。
「仮にも客商売なら、笑って『いらっしゃい』くらい言えないんですか」
「そもそも歓迎したことないよ、俺。客を送りだすときはいつも思ってるくらいだ。二度とくるな、ってね」
――そこは、過去にとらわれた人間だけが迷いこむ、特別な空間。
上記の連載案の元になった過去の一幕。